くるのです」
「あら、御馳走さまですわネ」と庵主は尼僧らしくない口を利いて「じゃあ、あの娘さんに会いたかないこと?」
「ええ、会いたいですとも、庵主さんはその娘さんの名前も居所も御存じなのでしょう。さあ教えて下さい」
「ホホホホ。そんなにお気に入りなら、また会わせてあげますわ。その代り、どうしてもあたしの云うように早くこの土地を去って下さらなきゃ、いけませんわ」
「それは駄目じゃありませんか。あの娘さんとはもう会えなくなる」
「それは大丈夫。あたしが後からきっと連れていってあげますわ」
 庵主のいかにも自信ありげな言葉は、まさか偽りではなさそうに見えた。僕はこの上はすべての運命を、再生の恩人の庵主に委せ、なにもかもその指揮どおりにする決心を定めた。
 ――恋人を彫り抜いた鍵は、遂に秀蓮尼の手に渡してしまった。彼女の胸にはどんな秘策が練られているのだろうか。鍵を見てから、急に昨夜とはガラリと態度を変えた秀蓮尼は、そも如何なる縁《ゆか》りの人物であろうか。


   恥ずかしき変装


 さすがは弥陀の光に包まれた聖域だけに、隆魔山蓮照寺のなかまでは、追跡の手が届いてこなかった。かくて夕陽は鬱蒼《うっそう》たる松林のあなたに沈み、そして夜がきた。街には賑かな祭りの最後の夜が来た。鐘楼の陰の秀蓮尼の庵室の中では、語るも妖しき猟奇の夜は来たのである。
 若き庵主は、弥陀如来の前に油入りの燭台を置き、黄色い灯を献じた。そして夕餐が済むと、その前に端座して静かに経文を誦し始めたのであった。僕は側から、灯に照らされた秀蓮尼の浮き彫のような顔を穴のあくほどジッと見つめていた。見れば見るほど端麗な尼僧であった。まだ若い身空を、この灰色の庵室に老い朽ちるに委せるなどとは、なんとしても忍びないことのように思われた。彼女はどんな事情で発心《ほっしん》し、楽しかるべき浮世を捨てたのだろう。……
 そんなことを考えているうちに、看経《かんきん》は終った。
「さあ、お待ち遠さまでした」と秀蓮尼は座を立って「では、いよいよ貴方を逃がす工夫に取り懸りましょう。だがくれぐれも申して置きますが、これからあたしがどんなことを貴方さまにいたしましょうともまたどんなことをお感じになっても、最初のお約束どおり、何もあたしの言葉に随い、この黄風島から対岸の懐しい内地、君島へ脱走して下さるでしょうね。それが誓っていただけるでしょうね」
「仕方がありません。前に云ったとおり、僕は庵主さんの命令に、絶対に服従します」
「結構です。――では、仕度にかかりましょう」
 そういうと、庵主は僕をさしまねいて、隣室の戸棚から、一つの葛籠《つづら》を下ろすと、これを弥陀の前にまで担がせた。僕が蓋を明けましょうかというと、まあ暫くといって止めた。
「これから貴方を変装させるのよ。それですっかり裸になって下さい」
 僕は庵主の顔を見たが、諦めて学生服を脱ぎ、それから襯衣を脱ぎ、遂に下帯一つになってしまった。
「さあ、それでいい。……ではこれから着つけにかかります。そこでこれで目隠しをしましょう。すっかり済むまで、貴方に見せたくないのよ」
 僕はただ溜息をつくだけだった。どんな大袈裟《おおげさ》なことが始まるかしらないが、云うとおり目隠しをする。すると庵主は、それを解いて、もう一度ギュッと縛り直した。――僕はもう何も見えなくなった。ただ鼓膜だけが頼みであった。
「ようございますか――黙ってさせるのよ」
 眼が見えなくなると、庵主の円らかな頭は見えず、声だけが聞えた。するとその声だけを聞いていると、庵主は実に若々しい女性であることがハッキリ感じられた。
「おやッ――」
 きつい猿股のようなものが履《はか》されたと思うと、次には胸のところから踵《かかと》のところへ届くほどのサラサラした長い布で巻かれた。なんだか、艶めかしいいい香が鼻をうった。そうだ、昨夜もこのような匂いがしたっけ。
「両手をあげてよ、――」
「呀《あ》ッ……」
 胸のまわりに、何かグルグルと捲きつけた。
 次に、彼女が背後にまわる気配がして、こんどは肩の上からゾロリとした着物のようなものを着せた。(和服らしい?)
 すると、こんどは腰骨のあたりを、細い紐でギュウギュウと巻いた。それがすむと、なんだか胸のところへたくしこみ、シュウシュウと音のする幅のある帯らしいものを乳の下に巻きつけた。――僕はドキンとした。頬が火のように火照《ほて》ってきた。
(これは女装じゃないか?)
 それから気をつけていると、後のところはいちいち思い当った。さっき着たのは長襦袢らしく、その上にまた重い袖のある着物が着せられ、やがて腕をあげてその袖がグルグルと巻きつけられ、こんどは胴中に幅の広い丸帯が締められ、そして最後に、羽織が着せられたことまで分った。庵主はそ
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