は、どこやら聞いたことのある声だった。だが彼女は、それを思い出している遑《いとま》がなかった。
「ありがとう」一言礼をいうと、彼女は、一旦後へ引きかえし、宙で憶えている近道をとおって、一目散《いちもくさん》に裏口へ走った。そして扉をどんどんどんと叩いて、ようやく鬼仏洞の外へ飛び出すことが出来た。
 空は、夕焼雲に、うつくしく彩《いろど》られていた。彼女は、鬼仏洞に、百年間も閉じこめられていたような気がした。


   帆村探偵登場


 特務機関長が、最大級の言葉でもって、風間三千子の功績を褒《ほ》めてくれたのは、もちろん当然のことであった。
「ああ、これで新政府は、正々堂々たる抗議を○○権益財団に向けて発することができる。いよいよ敵性第三国の○○退却の日が近づいたぞ」
 そういって、特務機関長は、はればれと笑顔を作った。
「抗議をなさいますの。鬼仏洞は、もちろん閉鎖されるのでございましょうね」
「やがて閉鎖されるだろうねえ。しかし、今のところ、抗議をうちこむため、鬼仏洞は大切なる証拠材料なんだ。現場《げんじょう》へいった上で、あなたが撮影した顔子狗《がんしく》の最期の映画をうつして見せてやれば、何が何でも、相手は恐れ入るだろう」
 特務機関長は、もうこれで、すっかり前途を楽観した様子である。
 その翌日、新政府は、○○権益財団に向けて、厳重なる抗議文を発した。
“わが政府は、○○の治安を確立するため、同地に、警察力を常置せんとするものである。之《これ》につき、わが警察力は実力をもって、第一に、鬼仏洞を閉鎖し、第二に、鬼仏洞内にて殺害されたるわが忠良なる市民顔子狗の死体を収容し、第三に、右の顔《がん》殺害犯人の引渡しを要求するものである”
 といったような趣旨の抗議文であった。
 ところが、相手方は、これに対し、まるで木で鼻をくくったような返事をよこした。
“○○の治安は、充分に確保されあり、鬼仏洞内に殺人事件ありたることなし”
 これではいけないというので、新政府は、更に強硬なる第二の抗議書を送り、且つその抗議書に添えて、風間三千子が撮影した顔子狗の最期《さいご》を示すフィルムの一齣《ひとこま》を引伸し写真にして添付《てんぷ》した。
 これなら、相手方は、ぎゃふんというだろうと思っていたのに、帰って来た返事を読むと、
“なるほど、洞内に於て、何某《なにぼう》が死亡しているようであるが、その写真で明瞭であるとおり、何某から五六メートルも離れた位置より、彼等の内の何人たりとも何某の首を切断することは不可能事である。況《いわ》んや、彼等の手に、一本の剣も握られていないことは、この写真の上に、明瞭に証明されている。理由なき抗議は、迷惑千万である”
 とて、真向《まっこう》から否定して来たのであった。
 なるほど、そういえば、相手方のいうことも、一理があった。
 だが、一旦抗議を発した以上、このまま引込んでしまうことは許されない。そこでまた、相手方の攻撃点に対して、猛烈な反駁《はんばく》を試《こころ》みた。
 そのような押し問答が二三回続いたあとで、ついに双方《そうほう》の間に、一つの解決案がまとまった。それはどんな案かというのに、
“では、鬼仏洞内の現場に於《おい》て、双方立合いで、検証《けんしょう》をしようじゃないか”
 ということになって、遂《つい》に決められたその日、双方の委員が、鬼仏洞内で顔を合わすこととなった。
 新政府側からは、八名の委員が出向くことになったが、うち三名は、特務機関員であって、風間三千子も、その一人であった。
 その朝、新政府側の委員五名が、特務機関へ挨拶《あいさつ》かたがた寄ったが、三千子は、その委員の一人を見ると、抱えていた花瓶《かびん》を、あわや腕の間からするりと落しそうになったくらいであった。
「まあ、あなたは帆村《ほむら》さんじゃありませんか」
 帆村というのは、東京丸の内に事務所を持っている、有名な私立探偵|帆村荘六《ほむらそうろく》のことであった。彼は、理学博士という学位を持っている風変りな学者探偵であって、これまでに風間三千子は、事件のことで、いくど彼の世話になったかしれなかった。殊《こと》に、仕事中、彼女が危《あやう》く生命《せいめい》を落しそうなことが二度もあったが、その両度とも、風の如くに帆村探偵が姿を現わして、危難から救ってくれたことがある。
 そういう先輩であり、命の恩人でもある帆村が、所もあろうに、大陸のこんな所に突然姿を現わしたものであるから、三千子が花瓶を取り落としそうになったのも、無理ではない。
 帆村は、にこにこ笑いながら、彼女の傍へよってきた。
「やあ、風間さん、大手柄をたてた女流探偵の評判は、実に大したものですよ。それが私だったら、今夜は晩飯を奢《おご》ってしまうん
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