一行の中の、布袋《ほてい》のように腹をつきだした中国人がいった。
「や、こいつは一本参った。この鬼仏洞のいいつたえによると、たしかにこの水牛仏が、青竜刀《せいりゅうとう》をふるって、桃盗人の細首をちょん斬ったことになっとるのじゃが、どういうわけか、始めから桃盗人《ももぬすびと》の人形が見当らんのじゃ」
「それは、どういうわけじゃ」
「さあ、どういうわけかしらんが、無いものは無いのじゃ」
「こういうわけとちがうか。この鬼仏洞の中には、何千体か何万体かしらんが、ずいぶん人形の数が多いが、桃盗人の人形は、どこかその中に紛《まぎ》れこんでいるのと違うか」
「あー、なるほど。なかなかうまいことをいい居ったわい。はははは。しかしなあ、紛れ込んどるということは、絶対にない。もう何十年も何百年も、毎日毎日人形の顔はしらべているのじゃからなあ。それに、その桃盗人の人形の人相書というのが、ちゃんとあるのじゃ」
「本当かね」
「本当じゃとも、その桃盗人の人相は、まくわ瓜《うり》に目鼻をつけたる如くにして、その唇は厚く、その眉毛は薄く、額《ひたい》の中央に黒子《ほくろ》あり――と、こう書いてあるわ。まるで、そこにいる顔子狗《がんしく》の顔そっくりの人相じゃ。わはははは」
「あははは、こいつはいい。おい、顔子狗、黙っていないで何とかいえよ」
「……」
顔子狗と呼ばれた男は、無言で、ただ唇と拳をぶるぶるとふるわせていた。そのときである。どうしたわけか、室内が急に明るく輝いた。急に真昼のように、白光が明るさを増したのであった。人々の面色《めんしょく》が、俄かに土色に変ったようであった。これは天井に取付けてあった水銀灯が点灯したためであったが、多くの人は、急にはそれに気がつかなかった。
「やよ、顔子狗。なんとか吐《ぬ》かせ」
「それで、わしを嚇《おどか》したつもりか、盗人根性《ぬすびとこんじょう》をもっているのは、一体どっちのことか。おれはもう、貴様との交際は、真平だ」
そういって顔子狗は、さっさと、向うへ歩みだした。
「おい顔子狗よ」と例の案内役が、後から呼びかけた。
「お前とは、もう会えないだろう。気をつけて行《ゆ》け。はははは」
「勝手に、笑っていろ」
顔子狗は、捨台辞《すてぜりふ》をのこして、一行の方を振りかえりもせず、すたすたと、水牛仏の前をすり抜けようとした――その瞬間のことであった。
「呀《あ》っ!」
顔《がん》の身体は、まるで目に見えない板塀《いたべい》に突き当ったように、急に後へ突き戻された。とたんに彼は両手をあげて、自分の頸をおさえた。が、そのとき、彼の肩の上には、もはや首がなかった。首は、鈍い音をたてて、彼の足許《あしもと》に転《ころが》った。次いで、首のない彼の身体は、俵《たわら》を投げつけたように、どうとその場に地響をうって倒れた。
一行は、群像のようになって、それより四五メートル手前で、顔子狗のふしぎなる最期《さいご》に気を奪われていた。
遥か後方にはいたが、風間三千子は、煌々《こうこう》たる水銀灯の下で演ぜられた、この椿事《ちんじ》を始めから終りまで、ずっと見ていた。いや、見ていただけではない。
(あ、あの人が危い!)
と思った瞬間、彼女は、ハンドバックの中に手を入れるが早いか、小型のシネ撮影器を取り出し、顔子狗の方へ向け、フィルムを廻すための釦《ボタン》を押した。煌々《こうこう》たる水銀灯の下、顔子狗の最期の模様は、こうして極《きわ》どいところで、彼女の器械の中に収められたのであった。
自分でも、後でびっくりしたほどの早業《はやわざ》であった。職務上の責任感が、咄嗟《とっさ》の場合に、この大手柄をさせたものであろう。
だが、彼女は、さすがに女であった。顔子狗の身体が、地上に転ってしまう、とたんに、気が遠くなりかけた。
もしもそのとき、後から声をかけてくれる者がいなかったら、女流探偵は、その場に卒倒《そっとう》してしまったかもしれないのだった。
だが、ふしぎな早口の声が、彼女の背後から、呼びかけた。
「おっ、お嬢さん、大手柄だ。しかし、早くこの場を逃げなければ危険だ」
「えっ」
三千子は、胆《きも》を潰《つぶ》して、はっと後をふりかえった。しかし、そこには誰も立っていなかった。いや、厳密にいえば、青鬼赤鬼が、衣《ころも》をからげて、田を耕している群像が横向きになって立っていたばかりであった。
だが、どこからかその声は又言葉を続けるのであった。
「お嬢さん。おそくも、あと五分の間に、裏口へ出なければだめだ。知っているでしょう、近道を選んで、大急ぎで、裏口へ出るのだ。扉《ドア》が開かなかったら、覗《のぞ》き窓の下を、三つ叩くのだ。さあ急いで! 彼奴《きゃつ》らに気がつかれてはいけない!」
その早口の中国語
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