死人《しにん》の胸のようなドームの壁体《へきたい》がユラユラと振動してウワンウワンウワンと奇怪な唸り音がそれに応じたようであった。支《ささ》える遑《いとま》もなく相良十吉は気を失って、うしろにどうと仆れてしまった。
私は直ぐさま眼をレンズにつけたが、惜しむや数秒のちがいで、かねて計算通りに襲《おそ》い来った密雲で、視野はすっかり閉じられてしまった。
「とうとうあれを見たのですよ」
根賀地が低くささやいた。
相良の身体を抱きおこして、ウィスキーを呑ませたり、名をよんでみたりした。五分程して彼は、うっすら眼を開いたが、ひどく元気がなかった。
「松井田!」
聞きとれ難《にく》いほど低い声で、こう相良は唸った。私はポケットから調書をとり出すと彼の耳のところで、しっかりした言調《ごちょう》を選んでよみ聞かせてやった。
「松井田は世人を欺《あざむ》いていた。たしかに生きている。だがそれには無理ならぬ事情もあるのだ。風間操縦士が一周機の運用能率上、松井田の下機を突如命じた。それは広島近くの出来事だった。月影さえない真暗闇《まっくらやみ》の中だった。
松井田はしばらく風間と争論《そうろん》した。この飛行を成功させるという点に於て、又風間の説くところの最大能率発揮のため急角度に高空へ昇るのにも、又、飛行機のバランス復旧《ふっきゅう》をはかる上に於ても、搭乗者が一人減ることが大変好ましいことも肯《うなず》けた。いろいろ前々からの事情もあって、出発のときには松井田の同乗を断れなかった。で、兎《と》も角《かく》もここで下りてほしい。成功した上はあとで君のために説明をつける。失敗しても一定時日のあとで君が釈明《しゃくめい》して呉れればよいではないか。落下傘《らっかさん》は用意してある。急いで下りてくれ、とのことだった。
松井田にもいろいろと言い分もあり、それでは困る事情もあったが、風間への恩義と友情とそれから真理のため、その請《こい》をきき入れねばならなかった。そこで最後の握手をすると松風号からヒラリと飛び下りた。落下傘はうまくひらいた。一時間あまりかかって下りたところは、島根県のある赤禿げ山の顛《いただ》きだった。彼は少量の携帯食糧に飢《うえ》を凌《しの》いだが、襲い来った山上の寒気に我慢が出来なかった。仕方なく落下傘を少しずつやぶっては燃料にした。
松井田の姿は軈《やが》てこっそり麓村《ふもとむら》に現われた。それから間もなく、一周機の失跡《しっせき》も知った。彼は名のって出るべきでありながら一向それをしようとはしなかった。松井田は極く若い青年時代にある事情から殺人罪を犯している身の上だった。いま名乗って出れば、松風号の失跡について、なにからなにまでうさんくさく調べられることがわかっていた。かれは自分の身の上までの露見《ろけん》を恐れたのだ。それからというものは、彼はずっと島根県にブラブラしていた。それがこの頃、東京へ出て来たのには訳がある。彼は一つの疑問を持っていた……」
ここまで私が喋《しゃべ》りつづけると、いきなり相良が金切声《かなきりごえ》をあげて叫んだことである。
「あとは判った。イヤなにもかも判ったです。その辺に松井田が現われたら、彼に言って下さい。お前は大馬鹿者だ、トナ」
猶も相良は口の中でブツブツ呟《つぶや》いていた。
自動車が三人を乗せて新宿まで来たときに、私一人は降り、根賀地に相良を自宅まで送りとどけるように命じたのであった。新宿街のペイブメントには、流石《さすが》に遊歩者《ゆうほしゃ》の姿も見当らず、夜はいたくも更《ふ》けていた。
次の日の朝であった。例によって私は午前十時に目を醒《さ》ました。窓を開いて見ると珍《めず》らしく快晴だった。ベルを鳴らすと、執事の矢口と、根賀地が入って来た。
「先生、あの若僧《わかぞう》はどうしましょう。先生の傷はどうですか」
と根賀地が尋《たず》ねた。私は左腕を少し曲げてみたが、針でさすような疼痛《とうつう》につきあたった。
「昨夜《ゆうべ》、あれから手術をやって貰ったのでもう心配はない。それからあの若先生だが、もう三十分もしたらこっちへ来て貰うのだナ。昨夜《ゆうべ》相良氏はどうした?」
「あの男は、今朝も例のとおり、会社へ出かけてゆきましたよ。青い顔はしていましたが不思議に元気でしたよ。昨夜《ゆうべ》の容子《ようす》じゃ、自殺するかナ、と思いましたが、今朝の塩梅《あんばい》じゃ、相良十吉少々気が変なようですね」
「なにか手に持っていたか」
「近頃になく持ちものが多いようでしたよ。手さげ鞄《かばん》に小さい包が二つ」
ここで私は黙り込んだ。不図《ふと》眼をあげると根賀地が常になく難しい面持をしていた。そして急に私を呼びかけたのである。
「先生。今度の事件ばかりは、僕に
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