らないな。ともあれ約束の時間が来る。運転手! お前はこいつを連れて事務所へかえれ。わしと根賀地とは公園を出たところでタキシを呼ぶから……。お客様は丁重《ていちょう》に扱うんだぞ」
そう言いつけて車を返すと、私達二人は大急ぎで公園を駈けぬけて行った。
「先生、彼奴は昨日お話の松井田じゃありませんか」
「松井田にしちゃ年が若い。まだ二十五六の小僧だったぞ」
「エエ、そうですかい」
根賀地は走り乍ら苦《にが》わらいをしているらしかった。
「じゃ松井田の手先ですかい」
「何とも言えないね」
私達は運よくタキシーを捕《つかま》えることが出来た。
「アッ。血が……。先生」
自動車の中で根賀地は私の左腕から迸《ほとばし》る血潮に驚きの目を瞠《みは》った。
新宿へ出る迄に傷の手当を終り、衣服も一寸見ては血痕《けっこん》を発見しえないように整《ととの》えることができた。十字路で約束通り相良十吉を拾い上げるようにして車内へ入れると、運転手に命じて灯火《あかり》を滅《け》させ急速力を出させた。行手《ゆくて》は烏山《からすやま》の中央天文台、暗闇の中に夜光時計は七時二十分前を示す。今宵《こよい》は十四日の明るい月に恵まれる筈だが、それはもうあと五分間のちのこと。そして三十分程ちらりちらりと月の顔を見ることが出来たと思うと、あとは又元のように密雲《みつうん》に蔽われてしまう筈である。月が顔を出している三十分の間に私は仕事をやらねばならない。タキシーの運転手は探偵章を見せられてからは必死にスピードを上げている。
はたして五分後に月が出た。あと十分すると前方にあたって烏山の天文台の丸いドームが月光の下に白く浮かび出でた。天を摩《ま》するような無線装置のポールが四本、くっきりと目の前に聳《そび》え立っているのであった。
「おお、こりゃ天文台だ」
と相良が低く叫んだ。私達は黙っていた。
自動車が庁舎の前のゆるい勾配《こうばい》を一気に駈け上ると、根賀地が第一番に広場の砂利《ざり》の上に降り立った。入口にピタリと身体をつけていたが、やがて大きな鉄扉《てっぴ》が、地鳴りのような怪音と共に、静かに左右へ開いた。私達三人は滑るようにして内へ駈けこんだ。
「天文台のドームの中に入っただけで、気が変になるような気がする」と言った人がある。全くドームの中の鬼気《きき》人に迫る物凄《ものすさま》じさはドームへ入ったことのある者のみが、知り能《あた》うところの実感だ。そこには恐しく背の高い半球状の天井《てんじょう》がある。天井の壁も鼠色にぬりつぶされている。二百畳敷もあろうかと思われる円形の土間の中央には、奇怪なプリズム形をした大望遠鏡が斜に天の一角を睨《にら》んでいる。傍《かたわ》らのハンドルを廻すとカラカラと音がして、球形の天井が徐々に左右へ割れ、月光が魔法使いの眼光《がんこう》でもあるかのように鋭くさしこむ。今一つのハンドルを廻すと、囂々《ごうごう》たる音響と共に、この大きな半球型の天井が徐々にまわり始めるのだった。
「先生、あと五分しかありません」
襲撃事件でわれ等は貴重なる時間を空費《くうひ》し過ぎた。
「それでは。――相良さん。御依頼の件の御報告をいたします。口で申上げるよりも、根賀地研究員のおさしず通りにやって下さるのがいいと思います。じゃ根賀地君。順序通りにやって下さい」
先程から相良十吉はワナワナと慄《ふる》えているのだった。彼は冷静と放胆《ほうたん》とを呼びもどそうと、懸命に頭を打ちふり、頤《あご》をなでているのだった。
「相良さん、これから覗《のぞ》いて下さい。これは一番倍率の低い望遠鏡で見た月の表面です」
相良十吉は、おそるおそる前へ出て、大望遠鏡の主体についた小さい副望遠鏡をのぞきこむのであった。
「では、こんどはこちらを……。少し倍率が大きくなりました。カルレムエ山脈が、少し大きく見えるでしょう。それは更にこちらの方を御覧になるともっと大きくなります。
それでは、いよいよメーンの望遠鏡です。カルレムエ山脈第一の高峰ウルムナリ山巓《さんてん》が見えるでしょう。こんなに大きく見える望遠鏡を持っているのはこの中央天文台だけです。有名なウィルスン天文台の一番大きい望遠鏡でもこの千分の一しか出ません」
相良十吉は望遠鏡に吸いついたようになっていた。月が隠れるまでにもうあと二分|弱《じゃく》。
「こちらに把手《クランプ》があります。これをねじると、ピントが月の表面からだんだんと地球の方へ近よって来ます。隕石《いんせき》が飛んでいるのが見えるでしょう。これで二千キロメートルだけ近くなりました。この調子でかえて行きますよ。見えますか。さて、気をつけていて下さい。左下の部分に現われて来るものに……」
キャーッと魂切《たまぎ》る悲鳴が起った。
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