いよう》のもので顔の下半分を隠した例の印袢纏《しるしばんてん》の男とが兎のように跳《は》ねながら、こっちへ、やってきた。
 赤ン坊の泣き声がするという塵箱の傍まで来たときに、印袢纏の男は、急にガクリと、地上に膝をついた。
「く、く、苦しい。先生、ク、ク、薬を、もっと、もっと、入れて下さいィ――」
 印袢纏の男は、始めの元気を何処かへ振り落していた。彼は自分の猿轡《さるぐつわ》を掻きむしるように外《はず》すと、髯男の方へ、片手を伸ばした。どうやら、髯男が、持ち合わせの漂白粉《ひょうはくふん》と活性炭素《かっせいたんそ》を利用して、応急のマスクを作ってやったのが、もう利かなくなったらしい。
 髯男は、マスクの硝子越しに、連れの顔を覗《のぞ》きこんだ。
「呀《あ》ッ、マスク! マスク!」
 印袢纏の男は、何を見たのか、猛然と上半身を起こして、すぐ目の前に転《ころが》っている一個の死体にとびついた。彼は、死体の顔に嵌《はま》っている防毒マスクを、力まかせに、もぎとろうとした。
 髯男は、あまりの浅間しさに、唯《ただ》もう、あきれ顔に立っていた。
 マスクは、死体から、ポクリと外れた。マスクの下には、若い男の、苦悶にみちた死顔があった。
 印袢纏は、奪ったマスクに狂喜して、自分の顔に充てたがどうしたものか、その場に昏倒《こんとう》してしまった。髯男は、すぐさま駈けよって、防毒マスクを被せてやった。印袢纏は、その儘《まま》動かず、地上にながながと伸びていた。
 髯男は、マスクを外された若い男の傍に近よった。その青年は、もう疾《とっ》くに死んでいた。それは勿論、瓦斯中毒ではないことは一と目で判った。下半身が滅茶滅茶にやられているのだった。次第に燃えさかってくる一帯の火災は、無惨《むざん》にも血と泥とにまみれた青年の腹部を、あかあかと照しだした。
 死んだ青年は、背中に大きい包みを背負っていた。髯男《ひげおとこ》は、それが、なんとなく気懸《きがか》りになったので、手早く解いてみた。その中から、ゴロリと転りだしたのは、真黒の、三つの防毒マスクだった。
「ほう、防毒マスク?」
 髯男は、不審そうに、あたりを見廻した。
「ヒイヒイ」
 そのとき、枯れきったような赤ン坊の泣き声がした。
「おお、このゴミ箱に、人間がいるッ!」
 ゴトリゴトリ、大塵箱《おおごみばこ》の内部で、赤ン坊にしては大きい物音がした。
 イキナリ、箱の蓋が、ガタリと開いて、真黒の顔をした男がヌッと、上半身を出した。咄嗟《とっさ》に、髯男は気がついて、死んだ青年が、背負っていたマスクの一つを、その男の頭に、スッポリ、被せてやった。それはまさしく時機に適したことだった。周りにはホスゲンの嫌《いや》な臭《にお》いが、いまだプンプンとしていた。
 その男は、防毒マスクに気がついたのでもあろうか、側《かたわ》らを指さした。髯男が見ると、そこには、若い女が、彼女の子供でもあろうか、赤ン坊を、しっかり胸に抱いていた。髯男は駭《おどろ》いて、機を外《はず》さず、残りの二つのマスクをめいめいに被せてやった。その一つは、偶然にも、当歳の赤ン坊用のマスクだった。
「なんという不思議な暗合だろう。親子三人に、親子三人用のマスク!」
 髯男は、六《むず》ヶ|敷《し》い数学解法を発見でもしたかのように、驚嘆《きょうたん》した。
 だが、この親子三人が、花川戸《はなかわど》の鼻緒問屋《はなおどんや》下田長造の長男、黄一郎《きいちろう》親子であり、マスクを背負っていた死青年は、同じく長造の三男にあたる弦三であり、弦三は死線を越えて、兄達に手製のマスクを届けようと、負傷の身を堪《こら》えてどうやら此の場所まで来たところを、自制のない群衆のため、無残にも踏み殺されたものであって、弦三は死んだが、その願いは、極《きわ》どいところで達せられたことを髯男が知ったなら、彼はどんな顔をして駭《おどろ》いたことであろうか。いや、あとで、黄一郎親子が、マスクの裏に記された「弦三作《げんぞうさく》」の銘《めい》に気がついたなら、どのように叱驚《びっくり》することだろうか。
 しかし、そのときは、一切が夢中だった。黄一郎親子は、仮りの避難所である塵箱《ごみばこ》の中に居たたまらず、一と思いに死ぬつもりで蓋を払ったところを、思いがけなく防毒マスクを被されたので「助かるらしい」と感じた外は他を顧《かえりみ》る余裕《よゆう》もなかったのだった。しかも、背後には、恐ろしい火の手が迫っていた。黄一郎親子は、感謝すべき肉身の死骸の直ぐ傍に立っておりながらも、遂にそれと気付かず、蒸し焼きにされそうな苦痛から脱れるため、後をも見ずに逃げだした。
 それに続いて、髯男が、やっと気がついたらしい印袢纏《しるしばんてん》の男を、引立てながら、これも逃げだしたのだった。
「あっし[#「あっし」に傍点]は、恥《はず》かしい!」
 死人の顔から、防毒マスクを奪いとろうとした浅間しい行為を恥じるものの如く、印袢纏《しるしばんてん》氏は、マスクの中で、幾度も、幾度も、苦吟《くぎん》を繰返した。
 大通りの軒《のき》を境に、火焔と毒瓦斯とが、上下に入り乱れて、噛み合っていた。


   咄《とつ》! 売国奴


 愛宕山《あたごやま》の上では、暗黒の中に、高射砲が鳴りつづいていた。照空灯が、水色の暈光《うんこう》をサッと上空に抛《な》げると、そこには、必ず敵機の機翼《きよく》が光っていた。円《まる》の中に星が一つ――それが、米国空軍のマークだった。
「グわーン、グわーン」
 高射砲の砲口から、杏色《あんずいろ》の火焔が、はッはッと息を吐いた。敵機は、クルリと、横転《おうてん》をすると、たちまち闇の中に、姿を消して行った。異様なプロペラの唸《うな》り声《ごえ》が、明らかに、耳に入った。
 照空灯は、サッと、光を収めた。
「ラッ、タッ、タッ」
 頭上に、物凄いエンジンの響が、襲いかかった。
「ラッ、タッ、タッ」こっちでも、高射機関銃が打ちだした。
 ぱッ――。くらくらッとする鋭い光に照された。
「ど、ど、ど、ど、どーン」
 ゆらゆらと、愛宕山《あたごやま》が揺《ゆら》いだ。
「少尉殿、少尉どのォ!」
 誰かが、根《こん》を限《かぎ》りに呼んでいる。
「オーイ」社殿《しゃでん》の脇《わき》で、元気な返事があった。
「少尉殿。聴音機第一号と第三号とが破壊されましたッ」
「第四号の修理は出来たかッ」
「まだであります」
「早く修理して、第二号と一緒に働かせい」
「はいッ。第四号の修理を、急ぐであります」
 兵は、バタバタと帰っていった。
(聴音機が、たった一台になっては、この山の任務も、これまでだナ)
 東山少尉は、暗闇の中に、唇を噛んだ。七台の聴音機は、六台まで壊れ、先刻の報告では、高射砲も三門やられ、のこるは二門になっていた。
 兵員は?
 もともと一小隊しか居なかった兵員は、四分の一にも足らぬ人数しか、残っていなかった。
「ピリピリ。ピリピリ」
 振笛《しんてき》が、けたたましく鳴り響いた。毒瓦斯が、また、やってきたらしい。
 何か、喚《わめ》く声がする。胡椒臭《こしょうくさ》い、刺戟性《しげきせい》の瓦斯《ガス》が、微《かす》かに、鼻粘膜《びねんまく》を、擽《くすぐ》った。
(塩化《えんか》ピクリンか!)
 東山少尉は、腰をひねると、防毒マスクをとりあげた。
「催涙瓦斯《さいるいガス》だぞオ、催涙瓦斯だぞオ!」
 瓦斯|警戒哨《けいかいしょう》が、大声に、呶鳴《どな》っていた。
 東山少尉は、そのとき、何を思ったのか、ツと、二足、三足前方にすすんだ。
「どうも、おかしいぞ」
 前方の、放送局の松林《まつばやし》あたりに、可也《かなり》夥《おびただ》しい人数が移動している様子だった。演習慣れした少尉の耳には、その雑然たる靴音が、ハッキリと判った。
 どこの部隊だろうか?
 司令部が寄越した援兵《えんぺい》にしては、無警告だし、地方の師団から救援隊が来るとしても、おかしい。
 軍隊ではないのかも知れない。
 少尉は、背後に向って、携帯用の懐中電灯を、斜《なな》め十字《じゅうじ》に振った。それは下士官を呼ぶ信号だった。
 コトコト[#「 コトコト」は底本では「コトコト」]と足音《あしおと》がして、軍曹の肩章《けんしょう》のある下士官が、少尉の側にピタリと身体を寄せた。
「吉奈軍曹《よしなぐんそう》であります」
 軍曹は、マスクの中で、できる限りの声を張りあげたのが、少尉の耳に、やっと入った。
「おう、吉奈軍曹。至急偵察を命ずる。放送局裏に、不可解《ふかかい》の部隊が集結しているぞ。突入《とつにゅう》誰何《すいか》しろ。友軍だったら、短銃《ピストル》を二発射て。怪しい奴だったら、三発うて。避難民だったら、四発だ。時節がら、怪しい奴かも知れぬから、臨機応変、細心に観察して、判ったら直ぐ知らせろッ」
 軍曹は、わかったと見えて、首を上下に振った。
「では、行け」
 軍曹は、右手に、短銃《ピストル》を握ると、放送局舎目懸けて、驀進《ばくしん》した。
 少尉は、直ちに、別の信号をして、兵員の急速集結を命じた。部署に最少限度の兵員を残して、あと二十名ばかりのものが集ってきた。彼等は、取敢えず、三門の機関銃を敷《し》いた。
「少尉殿」耳の側で、伝令兵が叫んだ。
 少尉は首を振って、応答した。
「警備司令部との連絡電話が切断したであります」
「なにッ」少尉は、駭《おどろ》いて、伝令兵の腕を握った。「無線電話はどうかッ」
「無線電話にも、司令部の応答が、無いであります」
「無線も駄目か。はあて――」
 途端に、前方で、銃声が響いた。
「パ、パ、パン!」
 うむ、さては、怪しい者だ。
 三発の短銃《ピストル》の音に、堤《つつみ》をきられたように、向うの方に、銃声が起った。バラバラと、弾丸が飛んでくる!
 丁度《ちょうど》、そのとき、異様な響をたてて、一台の飛行機が、火焔に包まれ、錐揉《きりも》みになって、落下してきた。焼けのこった機翼の尖端《せんたん》に、チラリと、真赤な日の丸が見えた、と思った。次の瞬間には、囂然《ごうぜん》たる音響をあげて放送局裏の松林の真上に、機首をつっこんだ。パチパチと、物凄い音がして、松林が、ドッと燃えあがった。急に、あたりは、赤々と照し出された。そこは、吉奈軍曹が、突入したあたりだった。
 見よ、局舎のまわりには、四五百名近い人間が集っていた。彼等の半分は、陸軍々人だった。のこりの半分は、背広だの、学生服だの、雑然たる服装をしていた。顔は、マスクで見えない。悉《ことごと》くの人間が、防毒マスクをしていた。軍隊と市民との混成隊とでも云いたいものであった。
(なぜだ。なぜだッ)
 東山少尉は、不思議な軍隊を向うに廻して不審をうった。彼等は、こちらの陣地を認めて、小銃を乱射し、手榴弾《しゅりゅうだん》を投げつけた。小銃はとどいたが、手榴弾は、ずっと遠方で炸裂《さくれつ》した。
 軍隊を狙撃《そげき》する軍隊なのである。そのような、不可解な軍隊を向うに廻して、東山少尉の部下は、敵慨心《てきがいしん》を起す前に、悒鬱《ゆううつ》にならないわけにゆかなかった。
 向うの集団は、二手に別れた。一隊は、局舎の周囲を、グルグル廻っては、しきりに発砲していた。他の一隊は、地に匍《は》い局舎を掩護物《えんごぶつ》にして、ジリジリと、こっちを向いて進撃してきた。
 少尉の部下は、イライラしてきたが、少尉は、まだ発砲の号令を出さなかった。
(たしかに、おかしい。あの兵士等の、鉄冑《てつかぶと》の被《かぶ》り様《よう》は怪《あやし》い。姿勢も、よろしくない。うン、これは、真正《ほんと》の軍隊ではない。それならば、よオしッ)
「撃《う》ち方《かた》用意!」東山少尉は、マスクを取ると、大声に叫んだのだった。「敵は陸軍々人の服装をしているが、不逞群衆《ふていぐんしゅう》の仮装《かそう》であると認める。十分に撃ちまくれ、判ったな。――左翼、中央の両隊の目標は、敵の散開線《さんかいせん
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