空襲葬送曲
海野十三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)瓦斯《ガス》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)第一|狭《せも》うござんす
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
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父の誕生日に瓦斯《ガス》マスクの贈物
「やあ、くたびれた、くたびれた」家中《いえじゅう》に響《ひび》きわたるような大声をあげて、大旦那の長造《ちょうぞう》が帰って来た。
「おかえりなさいまし」お内儀《かみ》のお妻《つま》は、夫の手から、印鑑《いんかん》や書付《かきつけ》の入った小さい折鞄《おりかばん》をうけとると、仏壇《ぶつだん》の前へ載せ、それから着換《きが》えの羽織を衣桁《いこう》から取って、長造の背後からフワリと着せてやった。「すこし時間がおかかりなすったようね」
「ウン。――」長造は、言おうか言うまいかと、鳥渡《ちょっと》考えたのち「こう世間が不景気で萎《しな》びちゃっちゃあ、何もかもお終《しま》いだナ」
「また、いい日が廻ってきますよ、あなた」お妻は、夫の商談がうまく行かなかったらしいのを察して、慰《なぐさ》め顔《がお》に云った。
「……」長造は、無言で長火鉢《ながひばち》の前に胡座《あぐら》をかいた「おや、ミツ坊が来ているらしいね」
小さい毛糸の靴下が、伸した手にひっかかった――白梅《しらうめ》の入った莨入《たばこいれ》の代りに。
「いま、かアちゃんと、お湯《ぶう》に入ってます。一時間ほど前に、黄一郎《きいちろう》と三人連れでやって来ました」
「ほう、そうか、この片っぽの靴下、持ってってやれ。喜代子《きよこ》に、よく云ってナ、春の風邪《かぜ》は、赤ン坊の生命《いのち》取りだてえことを」
「それが、あの児、両足をピンピン跳ねて直ぐ脱いでしまうのでね、あなた今度見て御覧なさい、そりゃ太い足ですよ、胴中《どうなか》と同じ位に太いんです」
「莫迦《ばか》云いなさんな、胴中と足とが、同じ位の太さだなんて」
「お祖父《じい》さんは、見ないから嘘だと思いなさるんですよ。どれ持ってってやりましょう」
お妻は、掌《てのひら》の上に、片っぽの短い靴下を、ブッと膨《ふく》らませて載《の》せた。それがお妻には、まるでおもちゃの軍艦の形に見えた。
「おい、あのなに[#「なに」に傍点]は……」と長造はお妻を呼び止めた。
「弦三《げんぞう》はもう帰っているかい」
「弦三は、アノまだですが、今朝よく云っときましたから、もう直ぐ帰ってくるに違いありませんよ」
「あいつ近頃、ちと帰りが遅すぎるぜ、お妻。もうそろそろ危い年頃だ」
「いえ、会社の仕事が忙しいって、云ってましたよ」
「会社の仕事が? なーに、どうだか判ったもんじゃないよ、この不景気にゴム工場《こうば》だって同じ『ふ』の字さ。素六《そろく》なんざ、お前が散々《さんざん》甘やかせていなさるようだが、今の中学生時代からしっかりしつけをして置かねえと、あとで後悔《こうかい》するよ」
「まア、今日はお小言《こごと》デーなのね、おじいさん。ちと外《ほか》のことでも言いなすったらどう? 貴郎《あなた》の五十回目のお誕生日じゃありませんか」
「五十回目じゃないよ、四十九回目だよ」
「五十回目ですよ。おじいさん、五十になるとお年齢《とし》忘れですか、ホホホホ」
「てめえの頭脳《あたま》の悪いのを棚《たな》にあげて笑ってやがる。いいかいおぎゃあと、生れた日にはお誕生祝はしないじゃないか、だから、五十から引く一で、四十九回さ」
「なるほど、そう云えば……」
「そう云わなくても四十九回、始終《しじゅう》苦界《くがい》さ。そこでこの機会に於て、遺言《ゆいごん》代りに、子沢山の子供の上を案じてやってるんだあナ」
「まあ、およしなさいよ、遺言なんて、縁起《えんぎ》でもない、鶴亀鶴亀《つるかめつるかめ》」
「お前は実によく産んだね、オイばあさん。ちょいと六人だ。六人と云やあ半打《はんダース》だ。これがモルモットだって六匹函の中へ入れてみろ、騒ぎだぜ」
「やあ、お父さん、お帰りなさい」長男の黄一郎《きいちろう》が入ってきた。
「モルモットをどうするとかてえのは、一体なんです」
長造とお妻とが顔を見合わせて、ぷッと吹きだした。
「お父さんは、お前たちのことをモルモットだって云ってなさるよ。よくお前は六匹も生んだねえ、なんて」お妻はおどけて嗾《け》しかけるように云った。
「私達がモルモットなら、お父さんは親モルモットになりますね、ミツ坊は孫モルモットで……」
「そうそう、ミツ坊に、この靴下を持ってってやらなきゃあ。おじいさんは、靴下を早く持って行けと云っときながら、あたしのことを掴《つかま》えてモルモットの話なんだからねえ」
お妻は、いい機嫌で室を出て行った。
「お父さん、今日はお芽出《めで》とう御座《ござ》います」
「うん、ありがとう」
「きょうは、店を頼んで、三人一緒に、早く出てきました」
「おお、そうかい」
「久しぶりに、モルモットが皆集まって賑《にぎや》かに、御馳走になります」
「うん、――」
長造は何か別のことを考えている様子だった。黄一郎には、直ぐそれが判ったのだった。
「もっとも清二はいませんけれど……彼奴《あいつ》なにか便《たよ》りを寄越《よこ》しましたか」
清二《せいじ》は、黄一郎の直ぐの弟だった。その下が、ゴム工場へ勤めている弦三《げんぞう》で今年が徴兵《ちょうへい》適齢《てきれい》。その下に、みどりと紅子《べにこ》という姉妹があって、末《すえ》の素六《そろく》は、やっと十五歳の中学三年生だった。
「清二のやつ、一週間ほど前に珍らしく横須賀軍港《よこすかぐんこう》から、手紙なんぞよこしやがった」
「ほう、そりゃ感心だな。どうです、元気はいい様《よう》でしたか」
「別に心配はないようだ。今度、演習《えんしゅう》に出かけると云った。ばあさんには、なんだか、軍艦のついた帛紗《ふくさ》をよこし、皆で喰えと云って、錨《いかり》せんべいの、でかい缶を送って来たので驚いたよ。いずれ後で出してくるだろう」
「そりゃいよいよ感心ですね」
「うちのばあさんは、これは清二にしちゃ変だと云って泪《なみだ》ぐむし、みどりはみどりで、どうも気味がわるくて喰べられないというしサ、わしゃ、呶鳴《どな》りつけてやった。折角《せっかく》買ってよこしたのに喜んでもやらねえと云ってナ」
「なるほど、多少変ですかね」
「尤《もっと》も、紅子と素六とは、清《せい》兄さんも話せるようになった、だがこれは日頃の罪滅《つみほろ》ぼしの心算《つもり》なんだろう、なんて減《へ》らず口《ぐち》を叩きながら、盛んにポリポリやってたようだ」
「清二は乱暴なところがあるが、根はやさしい男ですよ」
「そうかな、お前もそう思うかい。だが潜水艦乗りを志願するようなところは、無茶じゃないかい。後で聞くと、飛行機乗りと潜水艦乗りとは、お嫁の来手《きて》がない両大関《りょうおおぜき》で、このごろは飛行機乗りは安全だという評判で大分いいそうだが、潜水艦のほうは、ますます悪いという話だよ」
「それほどでも無いでしょう。ことに清二の乗っているのは、潜水艦の中でも最新式の伊号《いごう》一〇一というやつで、太平洋を二回往復ができるそうだから、心配はいりませんよ」
「だが、水の中に潜っていることは、同じだろう。危いことも同じだよ」
そこへ廊下をバタバタ駈けてくる跫音《あしおと》が聞こえてきた。ヒョックリ真ンまるい顔を出したのは中学生の素六だった。
「お父様も、兄ちゃんも、あっちへ来て下さいって、御膳《おぜん》ができたからサ」
「そうか、じゃお父様、参りましょう」黄一郎は、腰を起して、父親を促《うなが》した。
「うン、――よっこらしょい」と長造は煙管《きせる》をポンと一つ、長火鉢の角《かど》で叩くと、立ち上った。「今日は下町をぐるッと廻って大変だったよ。品物が動かんね、お前の方の店はどうだい」
「駄目ですね。新宿が近いのですが、よくありませんね。寧《むし》ろ甲府《こうふ》方面へ出ます。この鼻緒商売《はなおしょうばい》も、不景気知らずの昔とは、大分違って来たようですね」
「第一、この辺《へん》に問屋が多すぎるよ」
長造は頤《あご》を左右《さゆう》にしゃくって、表通に鼻緒問屋《はなおどんや》の多いのを指摘《してき》した。この浅草の大河端《おおかわばた》の一角を占める花川戸《はなかわど》は、古くから下駄《げた》の鼻緒と爪革《つまかわ》の手工業を以て、日本全国に知られていた。殊《こと》に、東京好みの粋《いき》な鼻緒は断然《だんぜん》この花川戸でできるものに限られていた。鼻緒の下請負《したうけおい》は、同じ区内の今戸《いまど》とか橋場《はしば》あたりの隣町《となりまち》の、夥《おびただ》しい家庭工場で、芯《しん》を固めたり、麻縄《あさなわ》を通したり、その上から色彩さまざまの鞘《さや》になった鼻緒を被《かぶ》せたり、それが出来ると、真中から二つに折って前鼻緒《まえばなお》で締《し》め、それを百本ずつ集めて、前鼻緒を束《たば》ね、垂れ下った毛のような麻をとるために、火をつけて鳥渡《ちょっと》焼く――そうしたものを、問屋に持ちこむのだった。問屋には、数人の職人が居て、品物を選《え》り別《わ》けたり、特別のものを作ったりして、その上に商標《しょうひょう》のついた帯をつけ、重い束《たば》を天井に一杯釣り上げ、別に箱に収《おさ》めて積みあげるのだった。地方からの買出《かいだ》し人が来ると、商談を纏《まと》め、大きい木の箱に詰《つ》めて、秋葉原《あきはばら》駅、汐留《しおどめ》駅、飯田町《いいだまち》駅、浅草《あさくさ》駅などへそれぞれ送って貨車に積み、広く日本全国へ発送するのだった。長造は昔ながらの花川戸に、老舗《しにせ》を張っていた。長男の黄一郎は、思う仔細《しさい》があって、東京一の盛り場と云われる新宿を、すこし郊外に行ったところに店を作っていたのだった。そこには妻君《さいくん》の喜代子と、二人の間にできたミツ子という赤ン坊との三人の外《ほか》に三人の雇人がいた。今日は本家《ほんけ》の大旦那長造の誕生日であるから、店を頼んで、浅草へ出て来たのだった。
「さア、おじいちゃま、今晩は、お辞儀《じぎ》なさいよ、ミツ子」
お湯から出て来て、廊下で挨拶《あいさつ》をしているらしい喜代子の声がした。
「やあ、ミツ坊、よく来たね。はッは」長造が大きな声であやしているらしかった。「お湯が熱かったのかい、林檎《りんご》のような頬《ほ》ッぺたをしているね。どれどれ、おじいちゃんが抱っこしてやろう。さあ、おいで、アッパッパ」
「やあ、笑った、笑った」赤ン坊の珍らしい素六が、横から囃《はや》し立《た》てた。
今夜は、客間をつかって、大きなお膳を中央に並べ、お内儀《かみ》のお妻と姉娘のみどりが腕をふるった御馳走が、所も狭いほど並べられてあった。
長造が席につくと、神棚《かみだな》にパッと灯明《とうみょう》がついて、皆が「お芽出《めで》とうございます」「お父さん、お芽出とう」と、四方から声が懸った。
長造は、盃をあげながら、いい機嫌で一座をすっと見廻わした。
「全く一年毎に、お前たちは大きくなるね、孫も出来るし、これで清二が居て――あいつはまだ帰ってこないね」と、弦三の姿のないのに鳥渡《ちょっと》眉を顰《ひそ》めたが、直ぐ元のよい機嫌に直って、
「弦《げん》も並ぶとしたら、この卓子《テーブル》じゃもう狭いね、来年はミツ坊も坐って、おとと[#「おとと」に傍点]を喰るだろうし、なア坊や、こりゃ卓子《テーブル》のでかいのを誂《あつら》えなくちゃいけねえ」
「この室が、第一|狭《せも》うござんすねえ」お妻も夫の眼のあとについて、しげしげ一座を見廻わしながら云った。
「来年は、隣りの間も、ぶちぬいて使うんですね」黄一郎が相槌《あいづち》を
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