うった。
「それじゃ、宴会みたいになるね」長造は、癖で指先で丸い頤《あご》をグルグル撫でまわしながら云った。
「お父|様《さん》、こんな家よしちまって、郊外に大きい分離派《ぶんりは》かなんかの文化住宅を、お建てなさいよウ」紅子《べにこ》が、ボッブの頭を振り振り云った。
「洋館だね、いいなア、僕の部屋も拵《こしら》えてくれるといいなア」素六は、もう文化住宅が出来上ったような気になって、喜んだ。
ミツ坊までが、若いお母アちゃんの膝の上で、ロボットのようにピンピン跳ねだした。
「贅沢《ぜいたく》を云いなさんな」長造は微苦笑《びくしょう》して、末ッ子達を押《おさ》えた。
「お父様は、お前達を大きくするので、一杯一杯だよ。皆が、もすこししっかりして、心配の種を蒔《ま》かないで呉れると、もっと働けて、そんなお金が溜《たま》るかもしれない。これ御覧、お父様の頭なんざ、こんなに毛が薄くなった」
父親が見せた頭のてっぺんは、成る程、毛が薄くなって、アルコールの廻りかけているらしい地頭《じがしら》が、赤くテラテラと、透いて見えた。
「お父|様《さん》、そりゃ、お酒のせいですよ」黄一郎がおかしそうに口を出した。
「ほんとにね」お妻が同意して云った。「あなた、この頃、ちと晩酌《ばんしゃく》が過ぎますよ」
「莫迦《ばか》ッ。折角《せっかく》の訓辞《くんじ》が、効目《ききめ》なしに、なっちまったじゃないか!」口のところへ持ってゆきかけた盃《さかずき》を途中で停めて、長造は破顔《はがん》した。
「はッはッは」
「ふ、ふ、ふ」
「ほッほッほ」
それに釣りこまれて、一座は花畑《はなばたけ》のように笑いころげた。
どよめきが、やっと鎮《しず》まりかけたとき、
「それにしても、弦三は大変遅いじゃないか。昨夜は、まだ早かった。この間のように、十二時過ぎて帰ってくる心算《つもり》なんじゃ無いかなあ」と、長造が云った。
「お母ア様《さん》、工場《こうば》へ電話をかけたらどうです」黄一郎が云った。
「それもそうだが、弦の居るところは、夜分《やぶん》は電話がきかないらしいんだよ」
「なーに、彼奴《あいつ》清二の二の舞いをやりかかってるんだよ。うちの子供は、不良性を帯びるか、さもなければ、皆気が弱い」
父親はウッカリ、平常思っていることを、曝《さら》け出《だ》したのだった。今日は云うのじゃなかった、と気のついたときは既に遅かった。一座は急に白けかかった。紅子は、断髪頭《だんぱつあたま》を、ビューンと一振りふると、卓子《テーブル》の前から腰をあげようとした。
「唯今――」
詰襟服《つめえりふく》の弦三が、のっそり這入《はい》ってきた。なんだか、新聞紙で包んだ大きなものを、小脇に抱《かか》えていた。
「まあ大分ひまが懸《かか》ったのね。さァ、こっちへお坐り。お父様がお待ちかねだよ」母親が庇《かば》うようにして、弦三の席に刺身醤油《さしみしょうゆ》の小皿などを寄せてやった。
「――」弦三は無言のまま、席についた。
「弦おじちゃん、大変でしたね」嫂《あによめ》の喜代子《きよこ》も、お妻について弦三を庇《かば》った。「さあ、ミツ子、おじちゃん、おかえんなさいを、するのですよ」
ミツ子は母の膝の上で、肥《ふと》った首を、弦三の方にかしげ、怪訝《けげん》な面持で覗《のぞ》きこんだ。
「弦三、お前の帰りが遅いので、お母アさんが心配してるぞ」父親は、呶鳴《どな》りたいのを我慢して、やっと、そう云った。
「弦ちゃん、明日の晩でも、うちへ来ないか、すこし手伝ってもらいたいものもあるんだが……」黄一郎が、兄らしい心配をして、引きよせて意見をしようという心らしかった。
「このごろ、ずっと忙《いそが》しいんですよ、兄さん」弦三は、はっきり断《ことわ》った。
「なにが、そんなに忙しいんだい」父親が、痛いところへ触《さわ》られたように喚《わめ》いた。
「工場が忙がしいんです」
「工場が忙がしい? お前の仲間に訊《き》いたら、一向《いっこう》忙しくないって云ってたぜ」
「お父さん、僕だけ、忙しいことをやっているんですよ」
「あなた、もういいじゃありませんか、お誕生日ですから、ほかの事を仰有《おっしゃ》いよ」母親が危険とみて口を出した。
「うん、大丈夫だよ」父親は強《し》いて笑顔をつくった。セメントのように硬い笑顔《わらいがお》だった。
「今夜は遅くなったとは思ったんですが、今夜中に仕上げて、お父さんのお誕生祝にあげようと思って、ホラこれ! これをあげますよ」そう云って弦三は、新聞紙包みを、父親の方へヌッと差出した。
「なに、誕生祝だって」長造はすっかり面喰《めんくら》ってしまった。
「それを呉れるというのかい。ほほう」
「まア、きたないわ」と紅子《べにこ》が喚《わめ》いた。「お膳の下から出すものよ。夜店《よみせ》でバナナを買ってきたんでしょう」
「なに、バナナか?」父親は手を引込めた。
「バナナじゃありませんよ、僕が工場で拵《こしら》えてきたんですよ」
「僕知ってらあ。きっとゴム靴だよ。もうせん、僕に拵えてくれたねえ、弦《げん》兄さん」
「ゴム靴だって?」父親は顔を硬《こわ》ばらせた「鼻緒屋《はなおや》の倅《せがれ》が、ゴム靴を作る時代になったか」
「黙って開けてごらんなさい、お父さんは、きっと驚くでしょうよ」
新聞紙の包みは、嫂《あによめ》の手から隣へ廻って、父親の膝の上へ順おくりに送られた。
長造が、新聞紙をバリバリあける手許《てもと》に、一座の瞳《ひとみ》は聚《あつま》った。二重三重《ふたえみえ》の包み紙の下から、やっと引出されたのは、ゴムと金具《かなぐ》とで出来たお面《めん》のようなものだった。
「こりゃ、お前が造ったのかい、一体、これは何だい」父親は狐《きつね》に鼻を摘《つま》まれたような顔を弦三の方に向けた。
「それは、瓦斯《ガス》マスクですよ。毒瓦斯|除《よ》けに使うマスクなんです」
「瓦斯マスク! ほほう、えらいものを拵《こしら》えたものだね。近頃、こんな玩具《がんぐ》が流行《はや》りだしたってえ訳かい」
「玩具《おもちゃ》じゃありませんよ、本物です。お父さん使って下さい。顔にあてるのはこうするのです」
一座が呆然《ぼうぜん》としている裡《うち》に、弦三は大得意で立ちあがった。
「いや、もう沢山、もう沢山」長造は、そのお面みたいなものを、弦三が本気で被《かぶ》せそうな様子を見てとって、尻込《しりご》みしたのだった。「わしはもういいから、素六にでも呉れてやれ、あいつ、野球のマスクが欲しいってねだっていたようだから丁度いい」
「野球のマスクと違いますよ、お父さん」弦三は躍起《やっき》になって抗弁《こうべん》したのだった。「いまに日本が外国と戦争するようになるとこの瓦斯《ガス》マスクが、是非必要になるんです。東京市なんか、敵国の爆撃機が飛んできて、たった五|噸《トン》の爆弾を墜《おと》せば、それでもう、大震災のときのような焼土《しょうど》になるんです。そのとき敵の飛行機は、きっと毒瓦斯を投げつけてゆきます。この瓦斯マスクの無い人は、非常に危険です。お父さんは、家で一番大事な人だから第一番に、これを作ってあげたんですよ」
「うん、その志《こころざし》は有難い」と長造は一つペコンと頭を下げたが、それは申訳《もうしわけ》に過ぎないようだった。「だが、この東京市に敵国の飛行機なんて、飛んで来やしないよ。心配しなさんな」
「そんなことありませんよ。東京市位、空中襲撃をしやすいところは無いんですよ。僕は雑誌で読んだこともあるし、軍人さんの講話《こうわ》も聴いた――」
「大丈夫だよ、お前」長造は、呑みこみ顔《がお》に云った。「日本の陸軍にも海軍にも飛行機が、ドッサリあるよ。それに俺等《わしら》が献納《けんのう》した愛国号も百台ほどあるしサ、そこへもってきて、日本の軍人は強いぞ、天子様《てんしさま》のいらっしゃるこの東京へなんぞ、一歩だって敵の飛行機を近付けるものか。お前なんぞ、知るまいが、軍備なんて巧く出来ているんだ」
「空の固めは出来てないんだって、その軍人さんが云いましたよ」
「莫迦《ばか》、そんなことを大きな声で云うと、お巡《まわ》りさんに叱られるぞ。お前なんか、そんな余計な心配なぞしないで、それよか工場がひけたら、ちと早く帰って来て、お湯にでも入りなさい」
「弦ちゃん、お前は、こんなことで毎日帰りが遅かったのかい」黄一郎《きいちろう》が、横合《よこあい》から口を出した。
弦三は、黙って点《うなず》いた。
「瓦斯マスクなんてゴムで作ってあるから永く置いてあると、ボロボロになって、いざというときに役に立たないんだぜ。どうせゴム商売で儲《もう》けようと云うんだったら、マスクよりも矢張《やは》りゴム靴の方がいいと思うね」
「儲けなんか、どうでもいいのです」弦三は恨《うら》めしそうに兄を見上げた。「いまに東京が空襲されたら大騒ぎになるから、市民いや日本国民のために、瓦斯マスクの研究が大事なんです」
「瓦斯マスクのことなんか、軍部に委《まか》しといたら、いいじゃないか。それに此後《このご》は戦争なんて無くなってゆくのが、人間の考えとしたら自然だと思うよ。聯盟だって、もう大丈夫しっかりしているよ。聯盟直属の制裁軍隊《せいさいぐんたい》さえあるんだからね」
「戦争なんて、野蛮だわ」紅子が叫んだ。
「でも万一、外国の爆撃機がとんできたら、恐ろしいわねエ」
と云ったのは姉娘のみどりだった。
「もう五年ほど前になりますけれど、上海《シャンハイ》事変の活動で、爆弾の跡を見ましたけれど、随分おそろしいものですねエ。あんなのが此辺《このへん》に落ちたら、どうでしょう」嫂《あによめ》の喜代子が、恐怖派に入った。
「きっと、爆弾の音を聞いただけで、気が遠くなっちまうでしょうよ。おお、そんなことのないように」みどりが、身体を震《ふる》わせて叫んだ。
「大丈夫、戦争なんて起こりゃせん」黄一郎が断乎《だんこ》として言い放った。
「ほんとかい」今まで黙っていた母親が口を出した。「あたしゃ清二《せいじ》の様子が、気になってしようがないのだよ」
「清《せい》兄さんはネ、お母さん」素六《そろく》が呼びかけた。「この前うちへ帰って来たとき、また近く戦争があるんだと云ってたよ」
「おや、清二がそう云ったかい。あの子は、演習に行くと云ってきたが、もしや……」
「お母さん、もう戦争なんて、ありませんよ。理窟《りくつ》から云ったって、日本は戦争をしない方が勝ちです。それが世界の動きなんだから」
「戦争があると、商売は、ちと、ましになるんだがなァ。このままじゃ、商人はあがったりだ」
「なんだか、折角《せっかく》のお誕生日が、戦争座談会のようになっちまったね。さア私はお酒をおつもりにして、赤い御飯をよそって下さい」
黄一郎が、盃を伏せて、茶碗を出した。
「じゃ、お汁をあげましょう」お妻はそう云って、姉娘の方に目くばせした。「みどり、ちょっと、お勝手でお汁のお鍋を温《あたた》めといで」
「はい」
みどりは勝手に立った。
ミツ坊は、いつの間にか、喜代子の胸に乳房を銜《くわ》えたまま、スウスウと大きな鼾《いびき》をかいて睡っていた。
「可愛いいもんだな」長造が膳越《ぜんご》しに、お人形のような孫の寝顔を覗《のぞ》きこんだ。
「今日は、皆の引張《ひっぱ》り凧《だこ》になったから、疲れたんですよ。まあこの可愛いいアンヨは」
お妻が、ミツ子の足首を軽く撫でながら、口の中にも入れたそうにした。
「ミツ坊が産れたんで、家の中は倍も賑《にぎや》かになったようだね」
長造は上々の御機嫌で、また盃を口のあたりへ運ぶのだった。一家の誰の眼も、にこやかに耀《かがや》き、床の間に投げ入れた、八重桜《やえざくら》が重たげな蕾《つぼみ》を、静かに解いていた。まことに和《なご》やかな春の宵《よい》だった。
そこへ絹ずれの音も高く、姉娘のみどりが飛びこんで来たのだった。
「大変ですよ、お父さま。ラジオが、今、臨時ニュースをやっていますって!」
「
前へ
次へ
全23ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング