なに、臨時ニュースだって?」
「背後《うしろ》の受信機のスイッチを入れて下さい。また上海《シャンハイ》事変ですって!」
「また上海事変だって?」
長造は、床の間に置いてある高声器《こうせいき》のプラグを入れた。ブーンと唸って、高声器に、電気がきた。
「では、もう一度、くりかえして申し上げます」高声器の中から、杉内アナウンサーの声が聞こえた。その声は、隠しきれない程、興奮の慄《ふる》えを帯びていたのだった。
「本日午後五時半、上海市の共同|租界《そかい》内で、我が滝本総領事《たきもとそうりょうじ》が○国人の一団により、惨殺《ざんさつ》されましたお話であります。
兼ねて租界管理に関し、日○両国間に協議を開いて居りましたが、我が滝本総領事は、常に正々堂々の論陣を張って、○国の暴論を圧迫していましたところ、其の新規約も八分通り片がついた今日になって、会議から帰途《きと》についた総領事の自動車が、議場の門から二百|米《メートル》ほど行ったところで物蔭にひそんでいた○国人約十名よりなる一団に襲撃され、軽機関銃を窓越しに乱射され、総領事は全身蜂の巣のように弾丸を打ちこまれ、朱《あけ》に染《そ》まって即死し、同乗して居りました工藤書記長、小柳秘書及び相沢運転手の三人も同様即死いたしました。兇行の目的は、協議妨害《きょうぎぼうがい》にあることは明《あきら》かであります。以上。
次は居留邦人《きょりゅうほうじん》の激昂《げっこう》のお話。
この報至るや、居留邦人は非常に激昴しまして、其の場に於て、決死団を組織し、暴行団員が引上げたと思われる共同租界内のホテル・スーシーを包囲した揚句《あげく》、遂《つい》に窓|硝子《ガラス》を破壊し、団員四名を射殺し、一名を捕虜といたしました。他は其場《そのば》より遁走《とんそう》いたしました。これに対して○国人側も非常に怒り、復讐を誓って、唯今準備中であります。両国の外交問題は、俄然《がぜん》険悪《けんあく》となりました。以上。
尚《なお》追加ニュースがある筈でございますから、この次は、どうぞ八時三十分をお待ち下さいまし。JOAK」
アナウンサーの声は、高声器のなかに消えた。一座は急にざわめき立った。
「えらいことになったね」黄一郎が真先《まっさき》に喚《わめ》いた。「これは鳥渡《ちょっと》解決しませんぜ」
「また戦争かい」母親が心配そうに云った。
「シナ相手の戦争は儲らんで困るね」父親が浮かぬ顔をした。
「まア、お父様は慾ばってんのねえ」と紅子が、わざとらしく眼を剥《む》いた。
「○国てどこなの、兄さん」と素六が弦三の腕をゆすぶった。
「僕には解らないこともないが……」弦三は唇をゆがめて小さい弟に答えた。
「どうせ日本の相手はアメリカだよ」黄一郎が、ずばりと云った。
「お父さん、この瓦斯《ガス》マスクを、新しい意味で受取って下さい」
弦三の顔は、緊張にはちきれそうだった。
「そんなに云うなら」
と長造は、自分のお尻のそばに転っている不恰好な愛児の製作品をとりあげて云った。
「お父|様《さん》はお礼を云ってしまっとくよ」
そのとき、戸外では、号外売りの、けたたましい呼声が鈴の音に交って、聞こえ始めた。そして、また別な号外売りがあとからあとへと、入《い》れ代《かわ》り立《た》ち換《かわ》り、表通《おもてどおり》を流していった。
晴やかな笑声に裹《つつ》まれていた一座は、急に沈黙の群像のように黙りこくって仕舞《しま》った。
下田家の奥座敷には、先刻《さっき》とはまるで異った空気が流れこんだように思われた。誰もそれを口に出しては云わなかったが、一座の家族の背筋になにかこうヒヤリとするものが感ぜられるのだった。
不吉《ふきつ》な予感《よかん》……
強《し》いて説明をつけると、それに近いものだった。
我が潜水艦の行方
――遂に国交断絶《こっこうだんぜつ》――
横須賀の軍港を出てから、もう二|旬《じゅん》に近い日数が流れた。
清二の乗組んだ潜水艦|伊号《いごう》一〇一が、出航命令をうけ、僚艦《りょうかん》の一〇二及び一〇三と、直線隊形をとって、太平洋に乗出したのは正確に云えば四月三日のことだった。伊豆沖《いずおき》まで来たときに、三艦は、予定のとおり、隊形を解き、各艦は僚艦にそれぞれ別れの挨拶を取交わして、ここに、別々の行動をとることになった。
いつもであると、訣別《けつべつ》に際し、各艦は水平線上に浮かびあって、甲板上に整列し、答舷礼《とうげんれい》を以て、お互《たがい》の武運《ぶうん》と無事とを祈るのが例であった。しかし今回に限り三艦は、艦体を水面下に隠したまま、唯《ただ》、潜望鏡をチラチラと動かすに停《とどま》り、水中通信機で、メッセージを交換し合ったばかりだった。
「何処へ行くのであろう」
清二は推進機に近い電動機室で、界磁抵抗器《かいじていこうき》のハンドルを握りしめて、出航命令が出た以後の、腑《ふ》におちないさまざまの事項について不審をうった。
「どうやら、いつもの演習ではないようだ」
二等機関兵である清二には、何の事情も判っていなかった。彼は上官の命令を守るについて不服はなかったけれど、一《ひ》と言《こと》でもよいから、出動方面を教えてもらいたかった。水牛《すいぎゅう》のように大きな図体《ずうたい》をもった艦長の胸のなかを、一センチほど、截《き》りひらいてみたかった。
舳手《じくしゅ》のところへは、なにか頻々《ひんぴん》と、命令が下されているのがエンジンの響きの間から聞こえたが、何《ど》んな種類の命令だか判らなかった。
だが、間もなくジーゼル・エンジンがぴたりと停って、清二の居る電動機室が急に、忙《せわ》しくなった。
「界磁抵抗開放用意!」
伝声管《パイプ》から、伝令の太い声が、聞こえた。
清二は、開閉器の一つをグッと押し、抵抗器の丸いハンドルを握った。そしていつでも廻されるように両肘《りょうひじ》を左右一杯に開いた。
「界磁抵抗開放用意よし!」
真鍮《しんちゅう》の喇叭《ラッパ》口の中に、思いきり呶鳴《どな》りこんだ。
「開放徐々に始め!」
推進機に歯車結合《ギーア・カップリング》された電動機の呻りは、次第に高くなって行った。艦体が、明かに、グッと下方に傾斜したのが判った。深度計の指針が静かに右方へ廻りだした。
「十メートル、十五メートル、……」
深度計の指針は、それでもまだ、グッグッと同じ方向に傾いて行った。
艦底[#「艦底」は底本では「海底」]の海水出入孔《かいすいしゅつにゅうこう》は、全開のまま、ドンドンと海水を艦内に呑みこんでいるらしかった。
このままでは海底にドシンと衝突《ぶつ》かるばかりだと思われた。清二は、界磁抵抗のハンドルを、全開の位置に保持したまま、早く元への命令が来ればよいがと、気を焦《あ》せらせたのだった。疑いもなく、唯今の状態は、全速力沈降《ぜんそくりょくちんこう》を続けているものであって、海岸を十キロメートルと出ていないところで、こんな操作をするのは、前代未聞《ぜんだいみもん》のことだった。
「どこかで吾が潜水艦の行動を監視している者があるのかも知れない」
清二は不図《ふと》、そんなことを考えたのだった。
それから後は、話にならないほどの、単調な日が続いた。
昼間は、絶対に水上へ浮びあがらなかった。その癖《くせ》、電動推進機には、いつも全速力がかかっていた。夜間になると、時々ポカリと水面に浮かんだが、それも極く短時間に限られていた。それはまるで乗組員を甲板に出して、深呼吸をさせるばかりが目的であるとしか思えなかった。だがその目的も充分には達せられなかったようだった。というのは、なにか見えるだろうと喜び勇《いさ》んで甲板に出てみても、いつも周囲は真暗な洋上で、灯台の灯も見えなかった。或る晩は、銀砂《ぎんさ》を撒《ま》いたように星が出ていたし、また或る夜はボッボツと、冷い雨が頬の辺を打った、それが一番著しい変化だった。長大息《しんこきゅう》を一つすると、もう昇降口から、艦内へ呼び戻されるという次第だった。
夜間の航行は、実に骨が折れた。艦長は、精密な時計と、水中聴音機《すいちゅうちょうおんき》とを睨《にら》みながら、或るときは全速力に走らせるかと思うと、また或るときは、急に推進機を全然停止させて、一時間も一時間半も、洋上や海底に、フラフラと漂《ただよ》っているというわけだった。
こんなわけで、横須賀軍港以来、二旬《にじゅん》の日数が経った。
そして或る日のこと、艦長は乗組員一同を集めて、驚くべき訓令《くんれい》を発した。
「本艦は、本日を以て、米国加州沿岸《べいこくかしゅうえんがん》に接近することができたのである」艦長の頬は生々《いきいき》と紅潮《こうちょう》していた。「本艦の任務は、僚艦一〇二及び一〇三と同じく、米国の大西洋艦隊が太平洋に廻航して、祖国襲撃に移ろうというその直前に、出来るだけ多大の損害を与えんとするものである。其の目標は、主として十六|隻《せき》の戦艦及び八隻の航空母艦である」
乗組員は、思わず「呀《あ》ッ」と声をあげかけて、やっとそれを呑みこんだ。
艦長の訓令で、いままでの不審な事実は、殆んど氷解《ひょうかい》した。航路が複雑だったのは、米国の西部海岸に備えつけられた水中聴音機や其の辺を游戈《ゆうよく》している監視船、さては太平洋航路を何喰わぬ顔で通っている堂々たる間諜船舶《かんちょうせんぱく》の眼と耳とを誤魔化《ごまか》すためだったのだ。昨夜見たあの暗い海は、すでに敵国の領海だったのであるかと、清二はそれを思い出して興奮せずには居られなかった。
帝国海軍の潜水艦伊号一〇一は、この日から、加州沿岸を去る二十キロメートルの海底の、兼《か》ねて、計画をしてあった屈竟《くっきょう》の隠れ場所に、ゴロンと横たわったまま、昼といわず夜といわず、睡眠病息者のように眠りつづけていた。しかし艦内の一角では、極超短波《きょくちょうたんぱ》による秘密無線電話機が、鋭敏な触角《しょっかく》を二十四時間、休みなしに働かせて、本国からの指令を、ひたすら憧《あこが》れていた。
丁度その頃、東洋方面には、有史以来の険悪な空気が、渦を巻いていた。
わが日本の上海駐在《シャンハイちゅうざい》の総領事惨殺事件と、そのあとに続いた在留邦人の復讐事件とは、一《ひ》と先《ま》ずお互の官憲の手によって鎮まった。だがそれは無論、表面だけのことであった。東京と、華府《かふ》との二ヶ所では、政府当局と相手国の全権大使とが、頻繁《ひんぱん》に往復した。外交文書には、次第に薄気味のわるい言葉が織《お》りこまれて行った。お互《たがい》の国の名誉と権益《けんえき》のために、往復文書には、強い意識が盛られていった。
その外交戦の直ぐ裏では、日米両国の戦備が、驚くべき速度と量と形とに於て、進められて行った。鉄工場には、官設といわず、民間会社と云わず、三千度の溶鉱炉が真赤に燃え、ニューマティック・ハンマーが灼鉄《しゃくてつ》を叩き続け、旋盤《せんばん》が叫喚《きょうかん》に似た音をたてて同じ形の軍器部分品を削《けず》りあげて行った。
東京の街角には、たった一日の間に、千|本針《ぼんばり》の腹巻を通行の女人達《にょにんたち》に求める出征兵士の家族が群《むらが》りでて、街の形を、変えてしまった。だが其の腹巻の多くは、間に合わなかったのだった。それは通行の女人達が、不熱心なわけでは無く、東京に属する師団の動員が、余りに速かったのである。
或る者は、交番の前に、青物の車を置いたまま、印袢纏《しるしばんてん》で、営門《えいもん》をくぐった。また或る者は、手術のメスを看護婦の手に渡したまま、聯隊|目懸《めが》けて、飛び出して行った。
事態は、市民の思っている以上に切迫していた。品川駅頭《しながわえきとう》を出発して東海道を下っていった出征兵員一行の消息は、いつの間にか、全く不明になってしまった。
其のあとについて、品
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