川駅を通過してゆく東北地方の出征軍隊の乗った列車は一々数えきれなかった。夜間ばかりでは運搬しきれないものと見え、真昼間にも陸続《りくぞく》として下《くだ》って行った。東北地方の兵営が、空《から》になるのではないかと、心配になるほどあとからあとへと、出征列車が繰《く》りこんできたのだった。
 帝都の辻々に貼り出される号外のビラは、次第に大きさを加え、鮮血《せんけつ》で描いたような○○が、二百万の市民を、悉《ことごと》く緊張の天頂《てっぺん》へ、攫《さら》いあげた。ラジオの高声器は臨時ニュースまた臨時ニュースで、早朝から真夜中まで、ワンワンと喚《わめ》き散《ち》らしていた。
 そして遂に、其の日は来た。
 昭和十×年五月一日、日米の国交は断絶した。
 両国の大使館員は、駐在国の首都を退京した。
 同時に、厳《おごそ》かな宣戦の詔勅《しょうちょく》が下った。
 東京市民は、血走った眼を、宣戦布告の号外の上に、幾度となく走らせた。彼等は、同じ文句を読みかえして行く度毎に、まるで別な新しい号外を読むような気がした。
「太平洋戦争だ!」
「いよいよ日米開戦だ!」
 宣戦布告があると、新聞やラジオのニュースの内容は一変したのだった。
「米国《べいこく》の太平洋艦隊は、今や大西洋艦隊の廻航を待ちて之《これ》に合せんとし、其《そ》の主力艦は既に布哇《ハワイ》パール湾[#「パール湾」は底本では「ハール湾」]に集結を了《りょう》したりとの報あり!」
「布哇《ハワイ》の日系米人、騒がず」
「墨西哥《メキシコ》の首都附近に、叛軍《はんぐん》迫《せま》る、一両日中に、クーデター起るものと予測さる」
「英《えい》、仏《ふつ》両国は中立を宣言す」
「注目すべきレニングラードの反政府運動」
「中華民国も一《ひ》と先《ま》ず中立宣言か」
「上海《シャンハイ》に市街戦起る、○○師団、先ず火蓋を切る。米国空軍は杭州《こうしゅう》地方に集結」
 東京市民は、我が軍に関するニュースの少いのに不満であった、それは恐らく、全国民の不満であるに違いなかった。ことに、太平洋方面に戦機を覘《うかが》っている筈の、帝国海軍の行動について、一行のニュースもないのを物足りなく思った。
 どこからともなく、流言《りゅうげん》が伝わり出した。東京市民の顔には不安の色が、次第にありありと現われて来た。誰しも、同じような云いたいことを持っていたが、云い出すのが恐ろしくて、互に押黙っていた。
 国民の不安が、もう抑《おさ》えきれない程、絶頂《ぜっちょう》にのぼりつめたと思われた其の日の夜、東京では、JOAKから、実に意外な臨時ニュースの放送があった。


   警戒管制《けいかいかんせい》出《い》ず!


 JOAKのある愛宕山《あたごやま》は、東京の中心、丸の内を、僅かに南に寄ったところに在《あ》った。それは山というほど高いものではない。下から石段を登ってゆくと、ザッと百段目ぐらいを数える頃、山頂《さんちょう》の愛宕神社の前に着くのだった。毬栗《まりぐり》を半分に切って、ソッと東京市の上に置いたような此の愛宕山の頂《いただ》きは平《たい》らかで、公園ベンチがあちこちに並び、そこからは、東京全市はもちろんのこと、お天気のよい日には肉眼ででも、房総半島《ぼうそうはんとう》がハッキリ見えた。「五分間十銭」の木札をぶらさげた貸し望遠鏡には、いつもなら東京見物の衆が、おかしな腰付で噛《かじ》りついていた筈だった。しかし、今日ばかりは、そんな長閑《のどか》な光景は見えず、貸し望遠鏡はどこかへ姿を隠し、その位置には代りあって、精巧を誇る測高器《そっこうき》と対空射撃算定器《たいくうしゃげきさんていき》とが、がっしりした三脚《さんきゃく》の上に支《ささ》えられ、それからやや距《へだ》ったところには、巨大な高射砲が金網《かなあみ》を被《かぶ》り、夕暗が次第に濃くなってくる帝都の空の一角を睨《にら》んでいた。
「少尉殿」突然叫んだのは算定器の照準手《しょうじゅんしゅ》である飯坂《いいさか》上等兵だった。
「友軍の機影観測が困難になりましたッ」
「うむ」
 高射砲隊長の東山少尉は、頤紐《あごひも》のかかった面《おもて》をあげて、丁度《ちょうど》その時刻、帝都防護飛行隊が巡邏《じゅんら》している筈の品川上空を注視したが、その方向には、いたずらに霧とも煙ともわからないものが濃く垂《た》れ籠《こ》めていて、無論飛行機は見えなかった。
「それでは、観測やめィ」
 照準手と、測合手《そくごうしゅ》とは、対眼鏡《アイピース》から、始めて眼を離した。網膜《もうまく》の底には、赤く〇《ゼロ》と書かれた目盛が、いつまでも消えなかった。少尉はスタスタと、社殿《しゃでん》の脇《わき》へ入って行った。その背後《うしろ》に大喇叭《おおラッパ》を束《たば》にして、天に向けたような聴音器が据えつけられていたのだった。夜に入ると、この聴音器だけが、飛行機の在処《ありか》を云いあてた。
「J、O、A、K!」
 神社の隣りに聳《そび》え立った、JOAKの空中線鉄塔のあたりから、アナウンサーの声が大きく響いた。
 弾薬函《だんやくばこ》の傍《そば》に跼《うずくま》っている兵士の群は、声のする鉄塔を見上げた。鉄塔を五メートルばかり登ったところに、真黒な函みたいなものがあるのが、薄明りのうちに認められたが、あれが、声の出てくる高声器なんだろうと思った。
 本物の杉内アナウンサーは、鉄塔の向うに見える厳《おごそ》かなJOAKビルの中にいた。スタディオの、黄色い灯《ひ》洩《も》れる窓を通して、彼氏《かれし》の短く苅りこんだ頭が見えていた。
「唯今から午後六時の子供さんのお時間でございますが……」
 と云ったは云ったが、流石《さすが》に老練なアナウンサーも、これから放送しようとする事項の重大性を考えて、そこでゴクリと唾《つばき》を嚥《の》みこんだ。
「……エエ、当放送局は、時局切迫のため、陸軍省令第五七〇九号によりましてこの時間から、東京警備司令部の手に移ることとなりました。随《したが》って既に発表しましたプログラムは、すべて中止となりましたので、あしからず御承知を願います。それでは唯今より、東京警備司令官|別府《べっぷ》大将の布告《ふこく》がございます」
 杉内アナウンサーは、マイクロフォンの前で、恭々《うやうや》しく一礼をして下った。すると反対の側から、年の頃は六十路《むそじ》を二つ三つ越えたと思われる半白の口髭《くちひげ》と頤髯《あごひげ》、凛々《りり》しい将軍が、六尺豊かの長身を、静かにマイクロフォンに近づけた。
「東京及び東京地方に居住する帝国臣民諸君」将軍の声は泰山《たいざん》の如くに落付いていた。「本職は東京警備司令官の職権をもって広く諸君に一|言《げん》せんとするものである。吾が帝国は、曩《さき》は北米《ほくべい》合衆国に対して宣戦を布告し、吾が陸海軍は東に於て太平洋に戦機を窺《うかが》い、西に於ては上海《シャンハイ》、比律賓《フィッリピン》を攻略中であるが、従来の日清《にっしん》、日露《にちろ》、日独《にちどく》、或いは近く昭和六七年に勃発せる満洲、上海事変に於ては、戦闘区域は外国内に限られ、吾が日本領土内には敵の一兵《いっぺい》も侵入することを許さなかったのである。然《しか》るに、今次の日米戦役《にちべいせんえき》に於ては、全く事情を異にして戦闘区域は国外に限定を許されず、吾が植民地は勿論、東京大阪等の内地まで、戦闘区域とするの已《や》むなきに立至った。これは諸君に於て既に御承知の如く、主として航空機による攻撃力が増大したる結果である。当局は、敵国航空機の日本本土侵略に対し、充分なる準備と重大なる覚悟とを有するものであるが、元来航空機の侵入を百パーセントに阻止《そし》することは、理窟上不可能と証明せられていることであるからして、敵機の完全なる撃退は保証しがたい。故《ゆえ》に本職は、各人が此辺の事情を理解し、指揮者の命に随《したが》い、官民一体となって此の重大事に善処せんことを望むものである。吾が国の家屋は火災に弱く、敵機の爆撃によって相当の被害あるべく、又非常時に際して種々の流言蜚語《りゅうげんひご》あらんも、国民は始終冷静に適宜《てきぎ》の行動をとることによりて其の被害程度を縮少し、空襲|怖《おそ》るるに足らずとの自信を持ち得るものと確信する。徒《いたず》らなる狼狽《ろうばい》は、国難をして遂に収拾《しゅうしゅう》すべからざる状態に導くものである。皇国《こうこく》の興廃《こうはい》は諸君の双肩《そうけん》に懸《かか》れり、それ奮闘努力せよ。右布告す。昭和十×年五月十日。東京警備司令官陸軍大将別府|九州造《くすぞう》」
 JOAKが聞える五十キロの範囲の住民たちは、この布告を聴くと、老いたるも若きも、共にサッと顔色を変えた。
 夕闇深い帝都の空の下には、異常なる光景が出現した。
 ラジオの高声器のある戸毎家毎には、近隣の者や、見も知らぬ通行人までが、飛びこんで来て、警備司令部の放送がこれから如何になりゆくかについて、耳を聳《そばだ》てるのだった。
 街を疾駆《しっく》する洪水のような円タクの流れもハタと止り、運転手も客も、自動車を路傍《ろぼう》に捨てたまま、先を争うて高声器の前に突進した。
 電車も、軌道の上に停車したまま、明るい車内には人ッ子一人残っていなかった。
 高声器の近所で躁《さわ》ぐもの、喚《わめ》く者は、忽《たちま》ち群衆の手で、のされてしまった。
 トーキーをやっている映画館の或るものでは、即時映画を中止し、ラジオをトーキーの器械へ繋《つな》ぎ、応急放送を観客に送って、非常に感謝された。
 歌舞伎《かぶき》劇場では、演劇をやめ、あの大きな舞台の上に、道具方が自作した貧弱な受信機を、支配人が平身低頭《へいしんていとう》して借用したのを持ち出した。血の気の多い観客さえ、石のように黙りこくってその聴きづらい高声器の音に耳を澄したのだった。
「別府閣下の布告は終りました」杉内アナウンサーは、幾分上り気味だった。「次は塩原参謀より東京警報があります」
「東京警備一般警報第一号、発声者は東京警備参謀塩原大尉!」キビキビした参謀の声が聴えた。
 帝都二百万の住民は、この一語も、聞き洩《もら》すまいと、呼吸《いき》を詰めた。
「信ずべき筋によれば」参謀の声は、余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》たるものがあった。「比律賓《フィリッピン》第四飛行聯隊の主力は、オロンガボオ軍港を脱出し、中華民国|浙江省《せっこうしょう》西湖《せいこ》に集結せるものの如く、而《しか》して此後《このご》の行動は、数日後を期して、大阪|若《もしく》は東京方面を襲撃せんとするものと信ぜらる。因《ちなみ》に、該主力《がいしゅりょく》は、百十人乗の爆撃飛行艇三台、攻撃機十五台、偵察機三十台、戦闘機三十台及び空中給油機六台より編成せられ、根拠地|西湖《せいこ》と大阪との距離は千五百キロ、東京との距離は二千キロである。終り」
 参謀が発表した驚くべき空中襲撃の警報は、帝都全市民にとって、僧侶《そうりょ》がわたす引導《いんどう》にひとしかった。高声器の前に鼻を並べた誰も彼もは、お互に顔を見合わせ、同じように大きな溜息《ためいき》をついたのだった。
 ああ、敵機の空中襲撃!
 いよいよ帝都の上空に、米国空軍の姿が現れるのだ。
 あの碧《あお》い眼玉をした赤鬼たちが、吾等の愛すべき家族を覘《ねら》って爆弾を投じ、焼夷弾《しょういだん》で灼きひろげ、毒瓦斯《どくガス》で呼吸《いき》の根を停めようとするのだ。
「いよいよ来るねッ」丸の内の会社から退けて、郊外中野へ帰ってゆく若い勤人《つとめにん》が、一緒に高声器の前に駆けこんだ僚友《りょうゆう》に呼びかけた。
「うん」その友人は、鼻の頭に、膏汗《あぶらあせ》を滲《にじ》ませていた。「警備司令部なんてのが有るのは、始めて知ったよ。驚いたネ」
「一般警報だというが、敵機の在処《ありか》や、台数など、莫迦《ばか》に詳《くわ》しすぎる
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