じゃないか。民衆には、敵機襲来すべしとだけアナウンスする方が、無難ではないかしら」
「いや、そうじゃないよ」彼は自由にならぬ顔を強《し》いて振った。「敵機が爆弾を落として見ろ、この東京なんざ、震災当時のような混乱に陥《おちい》ることは請合《うけあ》いだよ。流言は今でも盛んだ。非常時には更に輪をかけて甚だしくなるよ。その流言を止めるには、戦闘の内容を或る程度まで詳しく、軍部が発表して、市民に戦況を理解させて置かにゃいかん。正しい理解は、混乱を救う唯一《ゆいつ》の手だ」
「それもそうだが……」と、何か云おうとしたときに、ラジオがまた鳴り出した。
「叱《し》ッ、叱ッ」
ざわめいていた群衆は、再び静粛《せいしゅく》に還った。彼等は、耳慣れない陸軍将校の言葉に、やや頭痛を覚えるのだった。
「東京警備一般警報第二号!」先刻《さき》ほどの将校の声がした。「発声者は東京警備参謀塩原大尉。唯今より以降《いこう》、東京地方一円は、警戒管制を実施すべし。東京警備司令官陸軍大将別府九州造。終り」
警戒管制に入る!
おお、これは此の前に東京全市で行われたあの防空演習ではないのだ。この警戒管制には、市民の生命が、丁《ちょう》か半《はん》かの賽《さい》ころの目に懸けられているのだ!
警戒管制が敷かれると、訓練された在郷軍人会《ざいごうぐんじんかい》、青年団、ボーイ・スカウトは、直《ただ》ちに出動した。
一番目覚ましい飛躍《ひやく》を伝えられたのは、矢張《やは》り、光の世界と称《よ》ばれている東京は下町の、浅草《あさくさ》区だったという。
「おい素六《そろく》、どこへ行く?」
店の前まで来たときに、花川戸《はなかわど》の鼻緒問屋《はなおどんや》の主人|下田長造《しもだちょうぞう》は遽《あわ》てて駈けだす三男の素六を認めたので、イキナリ声をかけたのだった。
「あ、お父さん」ボーイ・スカウトの服装に身を固めた素六は、緊張の面《おもて》を輝《かがや》かせて、立止《たちどま》った。「いよいよ警戒管制が出ましたから、僕働いてきます!」
「なに、警戒管制!」長造は目をパチクリとした。「警戒管制てなんだい」
「いやだなア、お父さんは」少年は体をくの字に曲げて慨歎《がいたん》したのだった。「警戒管制てのは、敵の飛行機が東京の上空にやって来て、街の明るい電灯を見ると、ははァ此の下が東京市だなと知るでしょう。そこで爆弾をボンボンおっことすから、大変なことに、なっちゃう。だから空襲のときには、電灯をすっかり消して、山だか海だか、判らないようにして置くことが大切でしょう」
「そんなことァ知ってるよ」長造は、顔を膨《ふく》らましてみせた。
「皆で、電灯のスイッチをパチンとひねれば、いいじゃないか」
「だけど、スイッチを誰がひねるか判っていないのですよ。電柱についている電灯だとか、お蕎麦《そば》やさんの看板灯《かんばんび》なんかは、よく忘れるんですよ。ですから、警戒管制になると空から見える灯火《ともしび》は、いつでも命令あり次第に、手早く消せるように用意をして置くんです。あっても、なくてもいいような電灯は、前から消して置く。これが警戒管制です。僕、受持は、水の公園と、あの並び一町ほどの民家《みんか》なんです」
「民家!」長造はニヤニヤ笑い出した。「生意気な言葉を知ってるネ。じゃ、行っといで。遊びじゃないんだから、乱暴したり、無理をしちゃ、駄目だよ」
「うん、大丈夫!」
少年は、ニッと笑うと、そのまま脱兎《だっと》の如く駈け出して行った。
長造が店頭《てんとう》を入ると、そこにはお妻《つま》が、伸びあがって、往来を眺めていた。
「おや、おかえりなさい」
「うん」
「外は大変らしいのね」
「そうよ、お前」長造は、ふりかえって店の前を眺めたが、警戒場所に急ぐらしい若人《わこうど》の姿を、幾人も認めた。
「なんしろ、警戒管制になったんだもの」
「警戒管制では、まだ電灯を消さなくていいのでしょうか」
お妻が訊《き》いた。
「そりゃ、ソノお前、警戒管制という奴は、だッ……」
そこへバラバラと少年が駈けこんできた。
「警戒管制ですから、不用の電灯は消して置いて下さい。この門灯は直ぐ消えるようになっていますかッ」
「ええ、直ぐ消えるように、なってますよ。おや、波二《なみじ》さんじゃないの」
「ああ、下田《しもだ》のおばさんの家だったネ」波二と呼ばれた少年は、鳥渡《ちょっと》顔を赤くした。「こっちから見ると、電灯の影で判らなかった」
「あら、そう。御苦労さまだわネ。うちの素六もさっきに出掛けましたよ」
「僕も一生懸命、やっているんですよ、おばさん。この前の演習のときと違って、しっかりした大人は大抵《たいてい》出征《しゅっせい》しているんで手が足りないの」
「貴方の家の兄《あん》ちゃんも、出征なすったんだってネ」
「兄さんは立川の飛行聯隊へ召集《しょうしゅう》されて行ったんだけれど、どうしているのかなア、その後なんとも云って来ないんです」
「心配しないで、観音《かんのん》さまへ、お願い申しときなさい。きっと守って下さるから……」
お妻も、同じような思いだった。二男の清二が潜水艦に乗組んで演習に出たきり、消息の知れないこと、もう四十日に近い。彼女は、母の慈愛《じあい》をもって、幼時から信仰を捧げている浅草の観世音《かんぜおん》の前に、毎朝毎夕ひそかに額《ぬかず》き、おのれの寿命を縮めても、愛児の武運を守らせ給えと、念じているのだった。
「誰の家も、同じようなことがあるんだネ」波二少年は暗い顔を、強《し》いてふり払うように云った。「ンじゃ、僕もしっかり働きます、さようなら、おばさん」
「ああ、いってらっしゃい。波二さんも、気をつけてネ……」
少年は、高いところに点《つ》いている電灯の電球《たま》を、ねじって消すために、長い竿竹《さおだけ》の尖端《せんたん》を、五つほどに割って、繃帯《ほうたい》で止めてある長道具《ながどうぐ》を担ぐと、急いで駈け出していった。
「あれは、何処《どこ》の子だい」長造が訊いた。
「あれは、ほら」お妻は首をふって思い出そうと努力した。「亀さんちの、区役所の用務員さんで、そうそう、浅川亀之助《あさかわかめのすけ》という名前だった、あの亀さんの末《すえ》ッ子ですよ」
「おォ、おォ、亀之助ンとこの子供かい。どうりで見覚《みおぼ》えがあると思った。暫く見ないうちに大きくなったもんだネ」
「あの惣領息子《そうりょうむすこ》が、岸一《きしいち》さんといって、社会局の事務員をしていたのが、いまの話では、立川飛行聯隊へ召集されたんですって」
「ふン、ふン、岸ちゃんてのは知っているよ。よく妹なんか連れて、うちの清二のところへ遊びに来たっけが、もうそうなるかなア」
そこへまた、ノコノコと入って来た人影があった。それは、古くから浅草郵便局の集配人をやっている川瀬郵吉《かわせゆうきち》だった。
「下田さん、書留ですよ」
「おう、郵どん、御苦労だな」長造が、古い馴染《なじみ》の集配人を労《ねぎら》った。「判子《はんこ》を、ちょいと、出しとくれ」
「あい」お妻は、奥へ認印《みとめいん》をとりに行った。
「旦那」郵吉は、大きい鞄の中から、出しにくそうに、白い角封筒を取り出した。「海軍省からの、でございますよ」
「なに、海軍省から!」
長造の顔は、サッと青ざめた。
「うむ」
彼は封筒の頭を截《き》ると、一葉《いちよう》の海軍|罫紙《けいし》をひっぱり出した。長造の眼は、釘づけにでもされたように、その紙面の一点に止っていたが、軈《やが》てしずかに両眼は閉じられた。その合わせ目から、透明な水球《みずたま》がプツンと躍りだしたかと思うと、ポロリポロリと足許《あしもと》へ転落していった。
その紙面には、次のような文句があった。
戦死認定通知。
潜水艦伊号一〇一|乗組《のりくみ》
海軍一等機関兵 下田清二
[#ここから2字下げ]
右は去る五月十日午後四時頃、北米合衆国《ほくべいがっしゅうこく》メーヤアイランド軍港附近に於て、爆雷《ばくらい》を受け大破損《だいはそん》の後《のち》、行方不明となりたる乗組艦と、運命を共にしたるものと信ぜらる。よりて茲《ここ》に本官は戦死認定通知書を送付《そうふ》し、その忠烈《ちゅうれつ》に対し深厚《しんこう》なる敬意を表《ひょう》するものなり。
昭和十×年五月十三日
聯合艦隊司令長官
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]海軍大将男爵 大鳴門正彦
(とうとう、清二は殺《や》られたか!)
「旦那」郵吉が、おずおずと声を出した。「もしや、悪い報《しら》せでも……」
郵吉は、陸海軍から出した戦死通知を、何十通となく、区内に配達してあるいた経験から、充分それと承知をしているのだったが……。
「なァに――」
長造は、何も知らぬお妻が、奥から印鑑《いんかん》をもって来るのを見ると、グッと唇を噛んで堪《こら》えた。
「大したことじゃないよ。郵どん」
「……」郵どんは、長造の胸の中を察しやって、無言で頭を下げた。そして配達証に判を貰うと逃げるように、店先を出ていった。
「あなた――」その場の様子に、早くも気付いたお内儀《かみ》は、恐ろしそうに、やっと夫の名を呼んだだけだった。
「おお、お妻、一緒に、奥へ来な」
長造は、スタスタ奥の間へ入っていった。
店の前の、警戒管制で暗くなった路面を、一隊の青年団員が、喇叭を吹き吹き、通りすぎた。
空襲警報《くうしゅうけいほう》!
時刻は、時計の外に、一向判らぬ地下室のことであった。それは相当に規模の大きい地下室だった。天井は、あまり高くないけれど、この部屋の面積は四十畳ぐらいもあった。そして、この室《しつ》を中心として、隣りから隣りへと、それよりやや小さい室が、まるで墜道《トンネル》のように拡がっているのだった。そして部屋の外には、可也《かなり》広いアスファルト路面の廊下が、どこまでも続いていて、なにが通るのか、軌道《レール》が敷いてあった。地面を支《ささ》える鉄筋コンクリートの太い柱は、ずっと遠くまで重なり合って、ところどころに昼光色《ちゅうこうしょく》の電灯が、縞目《しまめ》の影を斜に落としているのが見えた。どこからともなく、ヒューンと発電機の呻《うな》りに似た音響が聴こえているかと思うと、エーテルの様《よう》な芳香《ほうこう》が、そこら一面に漂《ただよ》っているのだった。時々、大きな岩石でも抛《ほう》り出したような物音が、地響《じひびき》とともに聞えて来、その度毎に、地下道の壁がビリビリと鳴りわたった。
このような大仕掛けの地下室というよりは、寧《むし》ろ地下街というべきところは、いつの間に造られ、一体どこをどう匍《は》いまわっているのであるか、仮りに物識《ものし》りを誇る東京市民の一人を、そこに連れこんだとしても、決して言いあてることは出来ないであろうと思われた。――この地下街こそは、東京警備司令部が、日米開戦と共に、引移った本拠だった。
この地下街については、詳しく述べることを憚《はばか》るが、大体のことを云うと、丸の内に近い某区域にあって、地下百メートルの探さにあった。この地下街に入るには、東京市内で六ヶ所の坑道入口《こうどういりぐち》が設けられてあった。いずれも、偽装《ぎそう》をこらした秘密入口であるために、入口附近に居住している連中にも、それと判らなかった。唯一つ、日本橋の某百貨店のエレベーター坑道の底部《ていぶ》に開いているものは、エレベーター故障事件に発して、炯眼《けいがん》なる私立探偵|帆村荘六《ほむらそうろく》に感付かれたが、軍部は逸早《いちはや》くそれを識《し》ると、数十万円を投じたその地下道を惜気《おしげ》もなく取壊《とりこわ》し、改めて某区の出版会社の倉庫の中に、新道を造ったほど、喧《やかま》しいものだった。
この地下室の中には、地上と連絡する電話も完成していた。食糧も弾薬も豊富だった。大きくないが精巧な機械工場も設けられてあった。
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