ールとが触れるところから、青い火花が出て、それが敵機に発見される虞《おそ》れがあるからだった。
それは弦三の目算違《もくさんちが》いだった。彼は、雷門《かみなりもん》まで出ると、地下鉄の中に、もぐり込んだ。
地下鉄の中には、煌々《こうこう》と昼を欺《あざむ》くような明るい灯がついていた。だが、暗黒恐怖症の市民が、後から後へと、ドンドン這入《はい》りこんでいて、見動きもならぬ混雑だった。
「ここん中へ入っとれば、爆弾なんか、大丈夫ですよ」五十近い唇の厚い老人が、たった一人で、こんなことを喋《しゃべ》っていた。
「全《まった》くですネ。近頃のお金持は、てんでに自分の屋敷の下に一間や二間の地下室を持っているそうですが、儂《わし》たちプロレタリアには、そんな気の利いたものが、ありませんのでねえ」
そう云ったのは、長髪の、薄気味わるい眼付の男だった。
「お蔭さまで、助りますよ」歯の抜けたお婆さんが、臍繰《へそく》り金《がね》の財布を片手でソッと抑えながら、これに和した。
「だが、毒瓦斯《どくガス》が来ると、この孔《あな》の中は駄目になるぜ。駅長に云って、早く入口の鉄扉《てつど》を下ろさせようじゃないか」会社の帰りらしい洋服男が、アジを始めた。
「駅長、扉《ドア》を下ろせ!」
「扉を、し、め、ろッ」
そろそろ、空気は険悪《けんあく》になって来た。
片隅では、渋皮《しぶかわ》の剥《む》けた娘をつれた母親が眉を釣りあげて怒っていた。
「あなた、女連れだと思って、馬鹿にしちゃいけませんよ」
「いッヒ、ヒ、ヒ、ヒッ。こういう際です。仲よくしましょう。今に、えらい騒ぎになりますぜ、そのときは……」
酒を呑んでいるらしい羽織袴《はおりはかま》の代書人といったような男が、汚い歯列《はなみ》を見せて、ニヤニヤと笑った。
「皆さん。静粛《せいしゅく》にして下さい。さもないと、出ていって頂きますよ」
駅長が高いところから怒鳴った。
「出ろ! とはなんだッ」
「もう一度、言ってみろッ!」
「愚図愚図《ぐずぐず》ぬかすと、のしちまうぞ」
先刻《さっき》の怪しい一団が、駅長の声を沈黙させてしまった。
そこへ地下電車が、やっと来た。
弦三は、背筋になにか、こう冷《ひ》やりとするものを感じたが、其儘《そのまま》、車内の人となった。
新宿まで、この地下鉄で行けると思ったことも、誤《あやま》りだった。須田町《すだちょう》までくると、無理やりに下ろされちまった。コンクリートの、狭い階段をトコトコ上ってゆくと、地上に出た。
「横断する方は、こっちへ来て下さい」
「自動車は、警笛を鳴らしながら走って下さい。警笛は、飛行機に聞えないから、いくら鳴らしても、いいですよ」
「懐中電灯は、そのままでは明るすぎますから、ここに赤い布《きれ》がありますから、それを附けて下さァい」
あちこちに、メガフォンの太い声が交叉《こうさ》して、布を被せた警戒灯が、ブラブラと左右に揺れていた。すべて秩序正しい警戒ぶりだった。
(それにしても、さっき見たのは、あれは夢だったかしら。悪夢《あくむ》! 悪夢!)
弦三は、雷門の地下道に蟠《わだかま》る不穏《ふおん》な群衆のことを、この須田町の秩序正しい青年団に対比して、悪夢を見たように感じたのだった。しかし、それは果して夢であったろうか。いやいや弦三は、確かに、あの呪《のろ》いにみちた悪魔の声をきいたのだった。
弦三は、一つ自動車を呼びとめて、新宿の向うまで、走らせようと考えた。弦三は、二十一になる唯今まで、誰かに自動車に乗せて貰ったことはあるが、自分ひとりで、自動車を呼び止めた経験がなかったので、ちょっとモジモジしながら、須田町の広場に、突立っていた。
「呀《あ》ッ!」
「やったぞオ!」
突然に、悲鳴に似た叫声《きょうせい》が、手近かに起った。
ハッとして、弦三は空を見上げた。
鉄が熔けるときに流れ出すあの灼《や》けきったような杏色《あんずいろ》とも白色《はくしょく》とも区別のつかない暈光《きこう》が、一尺ほどの紐状《ひもじょう》になって、急速に落下してくる。
「爆弾にちがいない」
高さのほどは、見当がつかなかった。
見る見る、火焔の紐は、大きくなる。
爆弾下の帝都市民は、その場に立竦《たちすく》んでしまった。
悲鳴とも叫喚《きょうかん》ともつかない市民の声に交《まじ》って、低い、だが押しつけるようなエネルギーのある爆音が、耳に入った。
ぱッと、空一面が明るくなった。
弦三は、胆《きも》を潰《つぶ》して、思わず、戸を閉じた商店の板戸に、うわッと、しがみついた。
敵機の投げた光弾が、頃合いの空中で、炸裂《さくれつ》したのだった。
ドーン。
やや間を置いて、大きい花火のような音響が、あたりに、響き亙《わた》った[#「亙った」は底本では「互った」]。
光弾は、須田町の、地下鉄ビルの横腹に、真黄色な光線を、べたべたになすりつけた。
弦三は、商店の軒下《のきした》から飛び出して、万世橋《まんせいばし》ガードの下を目懸けて走っていった。
ガードの上と思われるあたりで、物凄い音響がした。
「ドッ、ドッ、ドッ、グワーン」それは紛《まぎ》れもなく、高射砲隊の撃ちだした音だった。悠々と天下《あまくだ》りながら、帝都の屋根を照らしていた光弾が、一瞬間にして、粉砕されてしまった。
帝都の空は、又もや、元の暗黒に還った。
と、思ったのは、それも一瞬間のことだった。
サッと、紫電一閃《しでんいっせん》! どこから出したのか、幅の広い照空灯が、ぶっちがいに、大空の真中で、交叉《こうさ》した。
「呀ッ、敵機だッ」
真白い、蜻蛉《とんぼ》の腹のような機影が、ピカリと光った。
そこを覘《ねら》って、釣瓶撃《つるべう》ちに、高射砲の砲火が、耳を聾《ろう》するばかりの喚声《かんせい》をあげて、集中された。
照空灯は、いつの間にか、消えていた。
その次の瞬間、弦三の眼の前に、瓦斯《ガス》タンクほどもあるような太い火柱《ひばしら》が、サッと突立《つった》ち、爪先から、骨が砕けるような地響が伝《つたわ》って来た。そして人間の耳では、測量することの出来ない程大きい音響がして、真正面から、空気の波が、イヤというほど、弦三の顔を打った。
爆弾が落ちたのだ!
イヤ、敵機が、爆弾を投げつけたのだった。
バラバラッと、礫《こいし》のようなものが、身辺《しんぺん》に降って来た。
照空隊の光芒《こうぼう》は、異分子《いぶんし》の侵入した帝都の空を嘗めまわした。
その合間、合間に、高射砲の音が、猛獣のように、恐ろしい呻り声をあげた。
それは、人間の反抗感情というのでもあろうか。爆弾の音を聞かされ、照空灯のひらめきを見せられた弦三は、自分の使命のことも何処へか忘れてしまい、
「畜生! 畜生!」と独《ひと》り言《ごと》を云いだしたかと思うと、矢庭に側の太い電柱にとびつき、危険に気がつかぬものか、
「わッしょい、わッしょいッ」と、背の高い、その電柱の天頂《てっぺん》まで、人技とは思われぬ速さで、攀《よじのぼ》っていった。
そこは、帝都のあっちこっちを見下ろすに、可也《かなり》いい場所だった。眺めると、帝都の彼方此方《かなたこなた》には、三四ヶ所の火の手が上っていた。
次の爆弾が、空から投げ落とされる度《たび》に、物凄い火柱が立って、それは軈《やが》て、夥《おびただ》しい真白な煙となって、空中に奔騰《ほんとう》している有様が、夜目にもハッキリと見えた。そして、その次に、浮び出す景色は、嘗《かつ》て関東大震災で経験したところの火焔の幕が、見る見るうちに、四方へ拡がってゆくのであった。
弦三は、地響きのために、いまにも振り落されそうになる吾が身を、電柱の上に、しっかり支《ささ》えている裡《うち》に、やっと正気《しょうき》に還ったようであった。
彼は、こわごわ、電柱を下りた。
地上に降り立ってみると、そこには又、先刻《さっき》と違った光景が展開しているのだった。
どこで、やられて来たものか、呻《うめ》き苦しんでいる負傷者が、ガードの下に、十五六人も寝かされていた。
「ヒューッ」どこからともなく、警笛《けいてき》が鳴った。
「毒瓦斯《どくガス》だ、毒瓦斯だッ!」
「瓦斯がきましたよ、逃げて下さい」
「風上《かざかみ》へ逃げてください。皆さん、××町の方を廻って××町へ出て下さい」
肝心《かんじん》の××町というのが、サッパリ聞きとれなかった。
広瀬中佐の銅像の向うあたりに、うち固って狂奔《きょうほん》する一団の群衆があった。
「やッ、ホスゲンの臭《にお》いだ!」
弦三は、腰をさぐって、彼の手製になる防毒マスクを外した。そのうちにも、ホスゲン瓦斯特有の堆肥小屋《たいひごや》のような悪臭が、だんだんと、著明《ちょめい》になってきた。彼は、防毒マスクをスッポリ被ると、すこしでも兄達の住んでいる方へ近づこうと、風下である危険を侵し、避難の市民群とは反対に、神保町《じんぼうちょう》から、九段《くだん》を目がけて、駈け出していった。
だが、神保町を、駈けぬけきらぬうちに、弦三は運わるく、近所に落ちた爆弾の破片を左脚にうけて、どうとアスファルトの路面に倒れてしまった。
「なに糞、こんなところで、死んでなるものか!」
彼は歯を喰いしばった。
路面に転っていると、群衆に踏みつぶされる虞《おそ》れがあるので彼は痛手《いたで》を堪《た》えて、じりじりと、商家《しょうか》の軒下へ、虫のように匍《は》っていった。
右手を伸ばして、傷口のあたりをさぐってみると、幸《さいわ》いに、脚の形はあったが、まるで糊壺《のりつぼ》の中に足を突込んだように、そのあたり一面がヌルヌルだった。湧き出した血の赤いのが、この暗さで見えないのが、せめてもの幸いだったと、弦三は思った。
「おお、これは――」
その家の窓下で、弦三は不思議な音楽を耳にした。
それは正《まさ》しく、この家の中から、しているのだった。
雑音のガラガラいう、あまり明瞭《めいりょう》でない音楽だったけれど、曲目《きょくもく》は正しく、ショパンの「葬送行進曲《ヒューネラル・マーチ》」
嗚呼《ああ》、葬送曲!
一体、誰が、いま時分「葬送行進曲《そうそうこうしんきょく》」をやっているのだろう。
彼は痛手《いたで》を忘れて、窓の枠《わく》につかまりながら、家の中を覗《のぞ》きこんだ。
おお、そこには蝋燭《ろうそく》の灯影《ほかげ》に照し出されて、一人の青年が倒れていた。その前には、小さいラジオ受信機が、ポツンと、座敷の真中に、抛《ほう》り出されていた。
音楽は、紛《まぎ》れもなく、そのラジオ受信機から出ているのだった。
(JOAKが、葬送曲をやっているのだろうか、物好きな!)
弦三は、むかむかとして、脚の痛みも忘れ壊れた窓の中へ、もぐり込んだ。
入って来た人の気配《けはい》に気付いたものか、死んでいると思った青年が、白い眼を、すこし開いた。
そして呻《うめ》くように言った。
「君、あれを聞きましたか。アメリカの飛行機のり奴《め》、飛行機の上から、あの曲を放送しているのですよ。無論、故意にJOAKと同じ波長でネ。しゃれた真似をするメリケン野郎……」
弦三は、それを聞くと、ムクムクッと起きあがって、諸手《もろて》で受信機を頭上高くもちあげると、
「やッ!」
と壁ぎわに、叩きつけた。
「うぬ、空襲葬送曲まで、米国のお世話になるものか、いまに見ておれ、この空襲葬送曲は、熨斗《のし》をつけて、立派に米国へ、返してやるから……」
死にかかっている青年にも、それが通じたものか、燃えのこった蝋燭の灯の蔭で、満足そうに、ニッと笑った。
爆撃下《ばくげきか》の帝都《ていと》
呻《うめ》きつつ、喚きつつ、どッどッと流れてゆく真黒の、大群衆だった。
彼等は、大きなベルトの上に乗りでもしたように、同じ速さで、どッどッと、流れてゆくのだった。
「やっと、新宿《しんじゅく》だッ」
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