れの家屋に落付いて、刻々にJOAKが放送してくる時事ニュースを一語のこらず聞いているせいだったであろう。
ラジオ受信機のない家こそ、惨《みじ》めであった。区役所の用務員、浅川亀之助一家は、その種類に入る家だった。
「おい、おつる」亀さんが、暗い露路《ろじ》から声をかけた。
「どうなったい、お前さん」勝手元に働いていた女房のおつるは、十|燭《しょく》の電灯を逆光線に背負って顔を出した。
「いま聞いたところによるとナ」亀さんは、はァはァ忙《せわ》しない呼吸をつきながら云った。
「いよいよアメリカの飛行機は静岡辺まで、やって来たらしいんだ。浜松の飛行隊で、追駈け廻しているけれど、敵の奴《やつ》を巧《うま》く喰止《くいとめ》ることが出来ないらしいんだ。それでも五つ六つ墜《お》っことしたらしいってことだ」
「まア、大変だわネ。ンじゃ、今夜のうちにも、東京へ飛んでくるかい」
「来るだろうッて話だ」そこで亀さんは、鼻の下をグイとこすりあげると、駈け出しそうにした。「じゃ、もっとラジオを聞いてくるからな」
「ちょいと、待っとくれよ、お前さん」おつるは遽《あわ》てて、亭主を呼びとめた。「お舟は、ダンスホールがお休みになったといって帰って来たけれど、笛坊《ふえぼう》の方は、まだ電話局から戻ってこないんだよ。いつもなら、もう疾《と》くに帰って来てなきゃならないんだがね」
「うむ」亀さんは首を傾けて、去年の秋、交換手をしている娘の案内で見に行った東京中央電話局の建物を思いうかべていた。「ひょっとすると、忙しいのかも知れねえぜ」
「波二も、少年団へ出かけたっきりで、うちには、おばァさんとお舟としか居なくて不用心だから、なるたけ早く帰ってきとくれよ、お前さん」
「あいよ、判ってるよ」
亀さんは、また、あたふたと、町角《まちかど》のパン屋の高声器を目懸けて、かけ出して行った。
パン屋の軒先は、附近の下層階級の代表者が、黒山のように、だが水をうったように静粛《せいしゅく》に、アナウンサーの読みあげる臨時ニュースに耳を傾けていた。
「唯今《ただいま》午後七時三十分、米国空軍の主力は、伊豆七島の南端、三宅島の上空を通過いたして居ります旨《むね》、同島の防空監視哨から報告がございました。以上」
高声器の前の群衆は、流石《さすが》に興奮して、ザワザワと身体を動かした。
「次に、いよいよ帝都に於きましては、空襲警報が発せられる模様であります。敵機の帝都空襲は、全く確実となり、帝都との距離は最早二百キロメートルに短縮せられましたので、東京警備司令部では、いよいよ『空襲警報』を出す模様であります。空襲警報が布告されますと同時に、兼《か》ねて御知らせ申上げてありましたように、当JOAKの放送は、戦闘終了の時期まで、一《ひ》と先《ま》ず中断いたすことになって居りますので、左様《さよう》ご承知下さいまし」
人々の顔には、次第に不安の色が深く刻まれて行った。
「尚《なお》、くりかえして申上げますが、空襲警報が出ました節は、兼ねての手筈によりましていつでも灯火《あかり》を外に洩《も》れなくすることが出来るよう準備をし、消防及び毒瓦斯《どくガス》防護係の方は、直ちに、その持ち場持ち場に、おつき下さることを御忘れないように願います。そして、いよいよ敵機が襲来して参りますと、非常管制警報が発せられまするからして、その時は、即刻《そっこく》、灯火《あかり》を御始末下さいまし。呀《あ》ッ、いよいよ空襲警報が発せられる模様であります」
杉内アナウンサーの声は、ぱたりと、杜断《とぎ》れた。
愛宕山《あたごやま》の山顛《さんてん》には、闇がいよいよ濃くなって来た。月のない空には、三つ四つの星が、高い夜の空に、ドンヨリした光輝《こうき》を放っていた。やや冷え冷えとする、風のない夜だった。
警報隊長の四万《しま》中尉は、兵員の間に交って、いつもは東京全市に正午の時刻を報せる大サイレンの真下《ました》に立っていた。
「中尉殿、報告」
傍《かたわ》らの松の木の蔭に、天幕《テント》を張り、地面に座っている一団から、飛び出して来た兵士だった。小さい鐘を横にしたような中に、細いカンテラの灯が動いている、その微《かす》かな灯影《ほかげ》の周囲に三四人の兵士が跼《すわ》っていた。よく見ると一人は真黒な函に入った器械の傍で卓上電話機のようなものを、耳と口とに、圧しあてていた。これは司令部との間を繋《つな》ぐ有線電話班の一隊に、違いなかった。
「おう」
四万中尉が、声をかけた。
「司令部より命令がありました。空襲警報用意! 終り」
「うん。鳥渡《ちょっと》待て」中尉は、つかつかと、サイレンの開閉器のところへ歩みよって、そこに立っている兵士に訊いた。「空襲警報用意があった。準備はいいようだな」
「はッ。用意は、よいであります」
中尉は軽く肯《うなず》くと云った。「よいか、ぬかるな」
「おい佐島一等兵。電話で司令部へ、報告せい。空襲警報用意よし!」
「はいッ」一等兵は身を翻《ひるがえ》して、天幕《テント》のところへ帰った。「空襲警報用意よし」
天幕の中の通信員は、送話器の中に、歯切れのよい声を送りこんだ。
「愛宕山警報所。空襲警報用意よゥし!」
やがて、一分、二分。
電話機のある天幕から、大サイレンの間までには、ズラリと兵員が立並んで、いずれも及び腰で、報告が電話機の上に来れば、直ちに警報が出せるように身構えた。
そして、突如――
「空襲警報ゥ!」
電話機を掴《つか》んでいる兵士が、大声で怒鳴った。
「空襲警報!」
「サイレン鳴らせィ!」
命令の声が、消えるか消えない内に、
「ンぶうッ――う、う、う」
と愛宕山《あたごやま》の大サイレンが鳴り出した。雄壮《ゆうそう》というよりも、悲壮な音響だった。
東京市内の電灯という電灯は、パッと消えて、全市は暗黒になった。
「呀《あ》ッ」
覚悟をしていた人でさえ、驚きの声をあげた。
「十五秒して、又電灯が点いたら、空襲警報なんだよ」
小学生たちは、学校の先生に教わったとおりに、電灯が消えたので、面白がっていた。
電灯が消えると、俄《にわ》かに聴力が鋭敏になったのだった。いままで聞こえなかった半鐘《はんしょう》の音が、サイレンに交って、遠近《えんきん》いろいろの音色をあげていた。
「ジャーン、ジャンジャンジャン」
「ボーン、ボンボンボン」
下町の木工場の、貧弱なサイレンも、負けず劣らず、喚《わめ》きつづけていた。
「呀ッ、電灯が点いたッ」
誰の目も、電灯の光を見上げて、嬉しそうに笑った。ほんとに光りは、人間にとって、心強いものだった。
下町の表通りを、バラバラと駈け出す一隊があった。
「火を消す用意をして下さい。不用な灯は消して下さい。空襲警報ですよォ」
竿竹と、メガフォンと、赤い布を捲きつけた懐中電灯とで固めた一隊が、町の辻々を、練りまわった。
今、帝都は、敵機の襲撃をうける!
浜松の戦闘機隊は、どうしたであろうか。
追浜《おっぱま》の海軍航空隊は、既に上空めがけて、舞いあがったであろうか。
立川の飛行聯隊の用意は、整《ととの》ったであろうか。
東京市民が、醵金《きょきん》をし合って献納《けんのう》した十五機から成る東京愛国飛行隊は、どうしているであろうか。
嵐の前の静寂《せいじゃく》!
帝都の夜空は、漆《うるし》のように、いよいよ黝々《くろぐろ》と更《ふ》けていった。
空襲葬送曲《くうしゅうそうそうきょく》
非常管制の警報が出たのは、それから三十分ほど、後《あと》のことだった。
一等速く、民家に達したのは、電灯による警報だった。
「おい、お妻」と鼻緒問屋の主人、長造は暗闇の中で云った。
「お前、今、時計を見なかったか」
「いいえ、暗くなったんで、判りませんわ」
「非常管制の警報らしいが、何分位消えているんだっけな」
「お父さんは、忘れっぽいのね。三十秒の間消えて、また三十秒つき、それからまた三十秒消えて、それからあと、ずっと点《つ》くのですよ」
「感心なもんだな、覚えているなんて――」
三十秒経ったのか、電灯がパッとついた。
「今度は時計を見てるよ。これで三十秒経って消えたら、いよいよ本物だ」
「呀《あ》ッ、消えましたわ」
お妻の声には恐怖の音調が交っていた。
間もなく、電灯は再び点いた。
「ほうら、見なさい。いよいよ非常管制だ。ははァ」
「誰か、表の電灯を消して下さい」
「もう消しましたよオ」真暗な店の方から、返事があった。
「お父さん。ここの電灯も消して、ちょうだい。あたし、怖いわ」長女のみどりが、奥の間へやってきた。
「ここは見えやしないよ」
「だって、戸の隙間《すきま》から、見えちまうじゃないの」
「じゃ、こうしとこうかな。手拭《てぬぐい》を、姐《ねえ》さん被《かむ》りにさせて」
「ああ、それで、いいわ」あとから附いて来た紅子《べにこ》が云った。
「家の中を皆、真暗にしてしまうんですもの。暗くちゃ、怖いわ」
そこへ、店の方から、ドカドカと上《あが》りこんで来た者があった。
「お父さん」
「おお、弦三か。よく帰って来た」
「この前、お父さんにあげた防毒マスクが、いよいよ役に立ちますよ」
「うん」長造は感慨探《かんがいふか》そうに云った。「あまりいいことじゃない。それにマスクは一つじゃなア」
「お父|様《さん》」弦三は、電灯の下へ、大きな包みをドサリと置いた。
「いよいよ、皆の分を作ってきましたよ。姉さんはいますか、姉さん」
「あい、此処《ここ》よ」後に下っていたみどりが顔を出した。
「ここに、鉛筆で使用法を書いときましたから、大急ぎで、消毒剤を填《つ》めて、皆に附けてあげて下さい」
「弦三、お前まだどっかへ行くのかい」
母親が尋ねた。
「僕は直ぐ出懸けます」
「この最中に、どこにゆくんだ」長造が問いかえした。
「淀橋《よどばし》の、兄さんのところへ、マスクを持ってゆくんです」
「なに、黄一郎のところへか」
「ほら、御覧なさい。この大きい二つが、兄さんと姉さんとの分。この小さいのが、三《み》ツ坊《ぼう》の分」
「なるほど、三ツ坊にも、マスクが、いるんだったな」
「よく気がついたね」母親が、長男一家のことを思って、涙を拭いた。
「それにしても今頃、危険じゃないか。いつ爆弾にやられるか、しれやしない。あっちでも、相当の用意はしてるだろうから、見合わしたら、どうだ」
「いえ、いえ、お父さん」弦三は、首を振った。
「僕は、もっと早く作って、届けたかったのです。だが、お金もなかったし、僕の腕も進んでいなかった……」
長造は、弦三のことを、色気《いろけ》づいた道楽者《どうらくもの》と罵《ののし》ったことを思い出して、暗闇の中に、冷汗《ひやあせ》をかいた。
「それが、今夜になって、やっと出来上ったのです」弦三は嬉しそうに呟《つぶや》いた。「僕は、東京市民の防毒設備に、サッパリ安心が出来ないのです。行かせて下さい。いつも僕のこと想っていてくれる兄さんに、一刻《いっこく》も早く、この手製のマスクを、あげたいんです」
感激の嗚咽《むせび》が、静かに時間の軸の上を走っていった。
「よォし。行って来い」長造がキッパリ云った。「いや、兄さん達のために、行ってやれ。だが、気をつけてナ……」
あとには言葉が無かったのだった。
「じゃ、行ってまいります」
これが、弦三と一家との永遠の別れとなったことは、後になって、思い合わされることだった。
「弦――」
母親のお妻が、我児を呼んだときには、弦三の姿は、戸外《そと》の闇の中に消えていた。
非常管制の警報は、いつしか熄《や》んでいた。
外は咫尺《しせき》を弁《べん》じないほど闇黒《まっくら》だった。
弦三は、背中に、兄に贈るべきマスクを入れた包みを、斜に背負い、自分のマスクは、腰に吊し、歩きづらい道を、どうかして早くすすみたいと気を焦《あせ》った。
市内電車は、路面に停車し、車内の電灯は真暗に消されていた。これは、架空線《かくうせん》とポ
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