いた。
「おい、どうしたのかと云ったら!」
 そういった友人の、情深い手は、紙洗大尉の肩にかけられた。
「うん、大したことでは無い」彼は遂《つい》に口を開いた。「唯《ただ》、天佑《てんゆう》というものが今度の場合にも、お互《たがい》に必要なのだ。いずれ判るだろうがね」
「ははァ、そんなことか」と、千手大尉。
「天佑は迷信ではない。忍耐と努力との極致《きょくち》じゃ」
 藤戸大尉は、帯剣を釣る手を憩《やす》めて何か重大命令を受けて来たらしい僚友に、哲学じみたことを言った。
 外へ出ると、大分風が出ていた。
 雲間からヌッと顔を出した弦月《げんげつ》の光に、高く盛りあがった濤頭《なみがしら》が、夜目にも白々と映った。
 僚艦も稍難航《ややなんこう》の体で、十度ほど傾斜しながら、艦首から、ひどい浪を被っていた。


   鹿島灘《かしまなだ》の護《まも》り


 いよいよ米国大空軍の来襲は、確かになった。
 早ければ今夕、遅くとも明日の夕刻までには、敵影が鹿島灘《かしまなだ》に現れることになろうと云うことであった。これは全国一斉に、ラジオによってアナウンスされた。新聞記者は、命懸けのテレヴィジョン送影機《そうえいき》を、モーターボートに積んで、沖合遥かに出て行った。それの後からはボコボコと、エンジンの音を立てて、幾百|艘《そう》となく、うす汚れた和船《わせん》が、同じ方角に出ていったが、これには各々、防空監視員が乗りこんでいた。防空監視員と云っても、完全な男子は出征して国内には居なかったので、四十過ぎの中老組か、二十歳以下の少年か、さもなければ、血気盛んなる妙齢《みょうれい》の婦人達であった。それは見るからに、重大任務をやりとげるのに充分な人達とは、お世辞にも、云えなかったが、壮年男子は、予備《よび》後備《こうび》といわず補充兵役にあるものまでが召集され、北満、極東方面に労農ロシア軍と戦い、或いはフィリッピン群島、東北地方北海道に、米国軍と対峙している今日、贅沢《ぜいたく》を云うわけにはゆかなかった。
 さて問題の、鹿島灘の、一番北の端に、磯節《いそぶし》で有名な三磯《みいそ》の一つ、磯崎町《いそざきまち》というところがあった。ここは、家数が四五十しかない、至って小さい町だった。町というのが多くは漁師の家で、その外には、数年前からジュラルミン工場が建てられたので、その職工達の家と、それ等の人々のために存在しているような感のあるお湯や、郵便局、荒物屋《あらものや》、味噌《みそ》醤油《しょうゆ》酒《さけ》を売る店、米屋などが、一軒ずつ細々と暮しを立てているだけだった。その中で、最も新しい店の一つとして、小さなラジオ店が一軒あった。
「浩さんは、居なさらぬかな」そういって、店先を覗《のぞ》きこんだのは、この小さな町の町長である吉田清左衛門《よしだせいざえもん》だった。
「あ、兄は先刻、平磯《ひらいそ》無線まで、出掛けたんでございますよ」そう云いながら顔を出したのは、ここの店をやっている夏目浩《なつめひろし》の妹にあたる真弓という若い女だった。記憶のよい読者は、彼女が神田のキャバレ・イーグルで、そこがG《ゲー》・P《ペー》・U《ウー》の秘密会合所と知らないで勤めているところを、団員を装《よそお》って入り込んでいた帆村探偵に助け出され、この国許《くにもと》の磯崎へ、送りかえしてもらったことを覚えていられるだろう。
「ああ、それでは――」と、町長の吉田老人は独りで合点《がってん》をしながら「防空監視哨の電話設備を、平磯無線へ借りにいって下すったのだね。いや、こんどは、浩さんが居なかったら、わし等《ら》は、どうしてよいやら、途方に暮れることじゃった」
「いよいよ防空監視哨が出来るんですの」
「お国のために、やらなけりゃならんことになりました哩《わい》。この磯崎は、鹿島灘の一番北の端を占め、しかも町全体が、ズーッと海の真中へ突き出ているから、監視哨には持ってこいの土地ですよ」
「場所は、どこなんですの」
「三ヶ所、作れというお達《たっ》しでナ、岬に一つ、磯崎《いそざき》神社の林の中に一つ、それから磯合寄《いそあいよ》りに一つ、と都合三ヶ所、作りましたよ。作ったのはよいが、監視哨に立つ人が、足りないので、弱っています哩《わい》」
「でも、ジュラルミン工場には、職工さん達が大勢いなさるから、一人や二人……」
「ところが、そうはならぬのですテ。ジュラルミンの工場は、なんでも国防用の機械を全速力で拵《こしら》えていましてナ、こっちを手伝って貰うことは、出来ないのですよ。監視哨をやってもらうことにすると、それだけ軍需品の補充が遅れることになるそうじゃ」
「まア、そうですの。皆さん、案外に呑気《のんき》にやっていらっしゃるようですが」真弓は、あの工場の職工たちが、勤務時間中でも、その辺をウロウロして、自分の顔をジロリと覗きにくることを思い出して云った。
「向うは何しろ軍需品工場ということだからこっちから無理に頼むことは出来ないのですテ」
「じゃ、あたしが、監視哨になりましょうか」
「ええッ、貴女が……」町長が驚いて云った。「貴女がなって下されば、勤《つと》まると思いますが、実は兄さんにもお願いしてあったのですが、むしろ貴女には、救護所の方でお手助けが願いたいのです。この方には、貴女のような気丈夫《きじょうぶ》な方が、是非必要です。監視哨は、高い櫓《やぐら》の上に、昼といわず夜といわず上って、眼と耳とを、十二分に働かしていなければならぬのです。誰かいい人を思付《おもいつ》かれたら、どうか教えて下さい。では、兄さんにはよろしく」
 そういって町長は、帰って行った。
(誰か、目と耳との鋭い人は居ないものかしら?)
 真弓は、そのまま奥の間にも引込まず、店先で、ぼんやり考えていた。
 すると、遠くで、自動車の警笛が聞えた。聞くともなしに聞いていると、どうやら、こっちへ近づいて来るらしい。この辺では、あまり見懸けない自動車らしい音色《ねいろ》だった。
「ほーン、ほーン」
 街道の砂煙りを、パッと一時に、濛々《もうもう》と立ち昇らせて、果せるかな、立派な幌型《ほろがた》自動車が、二台も続いて、家の前を通りすぎた。
「オヤ※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
 彼女は、首を振った。
「あれは、どうやら……」
 そこへ、往来《おうらい》から、七つばかりの男の子が駈けこんできた。
「お母ァちゃん。――」
「まア、三吉。お前、どこで遊んでいたの。いまみたいな自動車が通るところへ、出ちゃ駄目よ」
「ああ、僕出ないよ。――そいで、あの自動車、こんないいものを落としていったよ」
 そう云って三吉は、美しい外国製のチョコレートの函を母親の前に見せびらかした。
「あら、そんなものを拾ってきちゃ、いけませんよ」
 真弓は、チョコレートの箱を、子供の手から一旦とりあげたが、不図《ふと》気付いて、中をあけて検べた。中には、錫箔《すずはく》に包んだ丸いチョコレートが、たった一個、入っていたばかりだった。彼女は、その錫箔を剥《は》がしてみた。すると、錫箔の下に、栗色《くりいろ》のチョコレートは無くて、白い紙でもう一重《ひとえ》、包んであった。その白い紙を剥《は》がして、皺《しわ》を伸ばしてみると、果して其処《そこ》には、鉛筆の走り書がしてあった。
[#ここから2字下げ]
「東京警備司令部付、帆村荘六氏へ、次のことを、至急電報して下さい。三三二六九二七五、四三六八、四三二九、四八六九、四三二七、……紅子《べにこ》」
[#ここで字下げ終わり]
「ああ、矢張り紅子さんだったんだ!」
 真弓は頓狂《とんきょう》な叫び声をあげて、その小さい紙片を握りしめた。さっき、自動車の幌《ほろ》の裡《うち》に、チラリと見せた片面《かたおも》が、どうも紅子に似ていると思ったが、矢張《やは》りそうだったんだ。
「母アちゃん、紅子さんて、誰?」
「紅子さんて、母アちゃんのお友達なのよ」
 真弓は、紅子から帆村へ宛てた、訳のわからぬ暗号めいたものに、自分でも可笑《おか》しいほど、何だかイヤな気がしたが、次の瞬間、そんなものは何処かに吹きとばしていた。
 ひょっとすると、帆村の探しているものが紅子の手に入った報《しら》せなのかも知れないと思ったので、紅子の頼みどおり、一時も早く、東京の帆村へ知らせてやらなくてはなるまいと思った。
 そこへ兄の浩が、フウフウ云いながら、帰ってきた。真弓は手短かに、一部始終を兄に話し、紅子の手紙を東京へ電報することを相談した。
「そりゃ訳はないよ」浩は云った。
「丁度《ちょうど》いま、磯崎の防空監視哨と東京の中央電話局との直通電話を架設して来たばかりだ。あれで話せば、直ぐ東京が出る」
「じゃ、あたし直ぐに行ってみますわ」
「うん」
 真弓が外出の支度に、鳥渡《ちょっと》帯を締め直していると、奥の間から、
「鳥渡《ちょっと》、待ってくれんか」
 と声をかけたのは、浩と真弓との父親だった。やがて、建てつけの悪い障子を、ガタガタと開いて、ぎごちない恰好で現れたのは、今年五十九歳になる、両眼の不自由な老父だった。
「お父さん、危いわよ」
 真弓が立って、気の毒な父の手をとった。
「お祖父《じい》ちゃん。先刻《さっき》、大きな自動車が二つも続いて通ったよ。そいでネ、綺麗な箱を、おっことして行ったんだけど、母アちゃんがいけないって、とっちゃったよ」
「おお、そうか、そうか」盲目の祖父は、三吉の声のする方へ手を伸ばした。「三坊、お祖父さんのお膝の上へおいで」
「お父さん、どうかしましたか」浩が怪訝《けげん》な眼を見張って尋ねた。
「おお、浩も、真弓も、聞いて貰いたいことがあるんだ。外《ほか》でもないが、いよいよアメリカの飛行機が、この浜の上へ沢山攻めてくるということだが、聞けば、監視に立つ人数が足りないと、町長さんの話じゃ。何でも、防空監視哨というのは、眼と耳とが確かならば勤《つとま》るそうじゃが、其処で考えたことがある。お前達も知っているとおり、わし[#「わし」に傍点]は元、海軍工廠《かいぐんこうしょう》に勤めていたものの、不幸にもウィンチが切れ、灼鉄《しゃくてつ》が高い所から、工場の床にドッと墜ち、それが火花のように飛んで来て眼に入り、退職しなけりゃならなくなって、それからこっち、お前達にも、ひどい苦労を嘗《な》めさせた。おれはいつも済まんと思っているよ」
「お父さん、愚痴《ぐち》なら、云わん方がいいですよ」浩が心配して口を挿《はさ》んだ。
「いや、今日は愚痴ばかり並べるつもりじゃないのじゃ」老父《ろうふ》は強く首を振って云った。「そんなわけで、わしは、海軍工廠をやめたが、お国のために尽《つく》そうという気持は、更に変らないのじゃ。変らないばかりじゃあ無い。先刻《せんこく》のように、折角大事の防空監視哨に立つ人が無いと聞くと、残念で仕方がないのじゃ。そこでわしは考えた。何とかして自分がお役に立つ方法はないものかと。わしは眼こそ見えないが、耳は人一倍に、よく聞こえる。盲目になってから、特によく聞こえるような気持がするのじゃ。だがいくら耳が聞こえるからといって、盲目ではお役に立たない。そこでわしは、相談をするのじゃが、殊《こと》に真弓に考えて貰いたいと思うのじゃが、わしは孫の三吉を連れて監視哨の物見台へ上ろうと思うのだよ」
「ああ、お父さん、そんなこと、いけないわ」
「なあに、わしのことは、心配いらぬよ。こんな身体でお役に立てば死んでも本望《ほんもう》だ。ただ三吉を連れて行くのは、可哀想でもあるけれど、あれは案外平気で、行って呉れるだろうと思う」
「そうだよ。お祖父《じい》ちゃんとなら、どこへでも連れてって貰うよ」無心の三吉が、嬉しそうな声をあげた。
「三吉は、まだ七つだけれど、恐ろしく目のよく利く奴さ。三吉の目と、わしの耳とを一つにすると、一人前《いちにんまえ》の若者よりも、もっといいお役に立つかと思う位だよ」
「三吉は、小さいときから、父親のない不幸な子だ。それを又ここで苦しめるのは、伯父とし
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