に、立至った。
 司令官の顔は、紙のように蒼ざめて、唇がワナワナと震えて来た。
 参謀長は、満面《まんめん》朱《しゅ》を塗ったように怒張《どちょう》し、その爆発を、紙一枚手前で、堪えているようであった。
 コツ、コツ。
 扉《ドア》にノックの響があった。
 室内の、息づまるような緊張が、爆発の直前に、ちょっと緩《ゆる》んだという形であった。
 やがて、扉は、静かに開いた。
 高級副官、湯河原《ゆがわら》中佐の円い顔が、あらわれた。この室内の光景を見ると、駭《おどろ》くかと思いの外、ニヤリと、薄ら笑いを、口辺に浮べたのだった。
 中佐は、ツカツカと司令官の傍に近づいた。
「申上げます。唯今、御面会人で、ございます」
「面会人。誰だッ」
「はッ、唯今、御案内いたします」副官は、入口の方を向いて大声を張上げた。「閣下、どうか、おはいり下さい」
 扉の蔭から、閣下と呼ばれた人物の、カーキ色の軍服が、チラリと見えた。ガチャリと佩剣《はいけん》が鳴って、一人の将校が、全身をヌッと現わした。
「呀ッ」
「おお!」人々は、呆然《ぼうぜん》と、其の場に、立竦《たちすく》んだ。
 そこへ現われた人物は、紛れもなく、別府《べっぷ》司令官であった。
 ところが、別府司令官は、直前《ちょくぜん》まで、参謀長を、激しい語調で呶鳴《どな》っていた筈だった。おお、これはどうしたことだろう。参謀長の前には、たしかに、先刻から立っている別府司令官が居られるのだった。
 二人の、別府司令官。
 同じ服装の、同じ顔の、司令官。
 どっちかが、贋者《にせもの》であろうと思われる。
 二人の司令官の、相違した点は、湯河原中佐の案内した司令官は、軍帽の下から、頭部に捲いた、白い繃帯《ほうたい》が、チラリと見えている点だった。
「両手を、おあげ願いたい」
 中佐は、室内の司令官の背後に、軍用拳銃の銃口を、さしつけた。
「売国奴《ばいこくど》!」中佐の傍《かたわら》にいた将校が、イヤというほど中佐の横面を張り仆《たお》した。
 室内の司令官は、サッと身を、壁際に移した。
「中佐を、保護せい。向《むか》う奴は、射殺してよしッ」参謀長は、若い参謀に、早口で命令した。
 三人の将校と、二人の下士官とが、室内の司令官を、守った。
 若い参謀たちは、勇敢に、彼等に、飛びかかっていった。咄嗟《とっさ》の場合とて、ピストルよりも、肉弾が物を言った。
 大格闘の末、五人の者は、捉《とら》えられた。しかし肝心《かんじん》の贋司令官の姿は、いつの間にか見えなくなった。
「その壁が、怪しいぞ」
 贋司令官は、見ているうちに、そこの壁の中に、吸いこまれてしまったのだ。コツコツと叩いてみると、それは、たしかに空虚であった。
 司令部の人達が、誰も知らない脱《ぬ》け孔《あな》を発見するまでには、やや時間が、かかった。追跡して行ったものも、遂に得るところがなかった。
 頭部に、白い繃帯《ほうたい》を捲いた本物の別府司令官は、静かに、腰《こし》を下ろした。
「閣下」参謀長が、厳粛《げんしゅく》な表情をして云った。「どうなされましたのですかッ」
「うん、心配をさせたのう。夕方、放送局から帰り、この地下室へ到着してから、洗面所へ、手を洗いに行ったところを、やっつけられた。なっていないナ。別府にも、焼きが、まわったようじゃ」
「相手は、何者でありますか」参謀長は、畳《たた》みこむように、訊《き》いた。
「湯河原中佐に、聞け。G《ゲー》・P《ペー》・U《ウー》の仕業じゃということじゃ」
「なに、G《ゲー》・P《ペー》・U《ウー》!」
 G《ゲー》・P《ペー》・U《ウー》というのは、労農ロシアの警察隊のことだった。その峻辣《しゅんらつ》[#「峻辣」は底本では「峻竦」]なる直接行動と、驚歎すべき探訪組織《たんぼうそしき》とをもって有名な特務機関だった。日本国内に、G《ゲー》・P《ペー》・U《ウー》が、潜入しているという噂《うわさ》が、前々からあったけれど、まさか警備司令部までにその魔手《ましゅ》が伸びていようとは、何人《なんびと》も想像できないところだった。
 そこへ、伝令兵が、重要なる二通の暗合報告を持ってきて、司令官と参謀長の間へ、置いていった。
「いよいよ、筋書どおりですな」参謀長が、低く呻った。
「うん、早く読あげて、一同に聞かせてやれ」
「はッ」
 参謀長は、すっかり、冷静さをとり戻して幕僚《ばくりょう》を集めた。
「労農ロシア軍は、北満及び朝鮮の国境に於て日本守備隊へ発砲した。吾が守備隊は、直《ただち》に応戦し、敵を撃退中である」
 参謀たちは、めいめい肯《うなず》き合った。
「次に、アラスカ飛行聯隊は、午後十時、北海道、根室湾《ねむろわん》を、占領した。聯隊は、更に、津軽海峡《つがるかいきょう》を征服し、青森県|大湊要港《おおみなとようこう》を占拠《せんきょ》せんものと、機会を窺《うかが》っている模様である」
(ああ、内地までも、敵機の蹂躪《じゅうりん》に合うのか!)参謀たちは、唇を噛んだ。
「もう一つ、帝都を襲撃したマニラ飛行第四聯隊は、十七機を集結し、浦塩斯徳《ウラジオストック》に向け、引揚中である」
 一座は、興奮を越えて、水を打ったように静まり反《かえ》った。
 米国の太平洋、大西洋両艦隊は、圧倒的な大航空軍を、航空母艦に積みこんで、今や、舳艫相含《じくろあいふく》んで、布哇《ハワイ》を出航し、我が領海に近づきつつある。
 露国《ろこく》は、五ヶ年計画完成し、世界第一の大陸軍を擁《よう》して、黒竜江《こくりゅうこう》を渉り、日本の生命線満洲一帯を脅かそうとしている。
 第一次の帝都空襲に、予想以上の大痛手《おおいたで》をうけた祖国日本は近く第二次の大空襲を、太平洋と亜細亜《アジア》大陸両方面から、挟《はさ》み打《う》ちの形で受けようとしている。既に満身創痍《まんしんそうい》の観ある日本帝国は、果して跳《は》ねかえすだけの力があるだろうか。
 建国二千六百年の大日本の運命は、死か、はたまた生か!
 それは兎《と》も角《かく》として、今、帝都の空は、漸《ようや》く薄明りがさして来た。もう一時間と経たないうちに、空襲によって風貌《ふうぼう》を一変した重病者「大東京《だいとうきょう》」のむごたらしい姿が、曝露《ばくろ》しようとしている。白光《はっこう》の下に、その惨状《さんじょう》を正視《せいし》し得る市民は、何人あることであろうか。


   暁《あかつき》の偵察《ていさつ》


 昭和十×年五月十五日の夜、帝都は、米国軍《べいこくぐん》のために、爆撃さる――
 と、日本国民は、建国二千六百年の、光輝《こうき》ある国史《こくし》の上に、これはまた決して書きたくはない文句を、血と涙と泥を捏《こ》ねあわせて、記《しる》さねばならなかった。
 かくて、カレンダーは、ポロリと一枚の日附を落とし、やがて、東の空が、だんだんと白みがかってきた。あまりにも悽惨《せいさん》なる暁だった。生き残った帝都市民にとって、それは残酷以外の何物でもない夜明けだった。
 一夜のうちに、さしも豪華を誇っていたモダーン銀座の高層建築物は、跡かたもなく姿を消し、そのあとには、赭茶《あかちゃ》けた焼土《しょうど》と、崩れかかった壁と、どこの誰とも判らぬ屍体《したい》とが、到るところに見出された。その間に、彷徨《さまよ》う市民たちは、たった一晩のうちに、生色《せいしょく》を喪《うしな》い、どれを見ても、まるで墓石《はかいし》の下から出て来たような顔色をしていた。
 風が出てきて、余燼《よじん》がスーと横に長引くと、異臭《いしゅう》の籠った白い煙が、意地わるく避難民の行手を塞《ふさ》いで、その度に、彼等は、また毒瓦斯《どくガス》が来たのかと思って、狼狽《ろうばい》した。
 市街の、あちこちには、真黒の太い煙が、モクモクとあがり、いつ消えるとも判らぬ火災が辻から辻へと、燃え拡がっていた。
 射墜《うちおと》された敵機の周囲には、激しい怒《いかり》に燃えあがった市民が蝟集《いしゅう》して、プロペラを折り、機翼《きよく》を裂き、それにも慊《あきた》らず、機の下敷《したじき》になっている搭乗将校《とうじょうしょうこう》の死体を引張りだすと、ワッと喚《わめ》いて、打《う》ち懸《かか》った。「死屍《しし》を辱《はずか》しめず」という諺《ことわざ》を忘れたわけではなかったが、非戦闘員である彼等市民の上に加えられた昨夜来《さくやらい》の、米国空軍の暴虐振りに対して、どうにも我慢ができなかったのだった。
 戒厳令下《かいげんれいか》に、銃剣を握って立つ、歩哨《ほしょう》たちも、横を向き、黙々として、声を発しなかった。彼等にも、生死のほどが判らない親や、兄弟や、妻子があったのだ。
 次第に晴れあがってくる空に、プロペラの音が聞えてきた。素破《すわ》こそと、見上げる市民の瞳に、機翼の長い偵察飛行機の姿がうつった。
「なんだ、陸軍機か」
 彼等は、噛んで吐き出すように、云った。この帝都の惨状を、振りかえっては、あまりにも無力だった帝都の空の護りへの落胆《らくたん》を、その飛行隊の機影に向って抛《な》げつけたのだった。
 だが、しかし、その偵察機の上にも、同じ悲憤《ひふん》に、唇を噛みしめる軍人たちが、強《し》いて冷静を装《よそお》って、方向舵《ほうこうだ》を操《あやつ》っていた。
「おい、浅川曹長《あさがわそうちょう》!」操縦士の耳へ、将校の太い声が、響いた。
「はい。何でありますか」曹長は、左手で、胸のところに釣ってある伝声管をとりあげると、やや湿《しめ》っぽい声で返事をした。
「機首を左へ曲げ、隅田川《すみだがわ》に沿《そ》って、本所《ほんじょ》浅草《あさくさ》の上空へやれ。高度は、もっと下げられぬか」そう云ったのは、警備司令部付の、塩原参謀《しおばらさんぼう》だった。
「はいッ、では、もう二百メートル、下降《かこう》いたしましょう」
 浅川曹長は、左手を頭上に高くあげると、僚機の注目を促《うなが》し、それから腕を左水平《ひだりすいへい》に倒すと、手首を二三度振った。途端《とたん》に、彼の乗っている司令機は、下《さ》げ舵《かじ》をとって、静かに機首を左へ廻したのだった。あとに随《したが》う二機も、グッと旋回《せんかい》を始めたらしく、プロペラが重苦しい呻《うな》り声をあげているのが、聞えた。
「これは、ますます、ひどいな」そう云ったのは、側の湯河原《ゆがわら》中佐だった。
「敵の計画では、焼夷弾《しょういだん》と毒瓦斯弾《どくガスだん》とで一気に、帝都を撲滅《ぼくめつ》するつもりだったらしいですな。爆弾は、割に尠《すくな》い。弾痕《だんこん》と被害程度とを比較して、判ります」塩原参謀は、指先で、コツコツと窓硝子をつついた。
「なにしろ、帝都の市民は、今日になって、防空問題に、目醒《めざ》めたことだろうが、こんなになっては、もう既に遅い。彼等は、飛行機の飛んでくるお祭りさわぎの防空演習は、大好きだったが、防毒演習とか、避難演習のように、地味《じみ》なことは、嫌いだった。満洲事変や上海《シャンハイ》事変の、真唯中《まっただなか》こそ、高射砲や、愛国号の献金をしたが、半歳《はんとし》、一年と、月日が経つに従って、興奮から醒《さ》めてきた。帝都の防空施設は、不徹底のままに、抛《ほう》り出されてあった。雨が降れば、人間は傘をさして、濡れるのを防ぐ。が、帝都には、爆弾の雨が降ってこようというのに、これを遮《さえぎ》る雨具《あまぐ》一つ、備わっていないのだ……」湯河原中佐は、慨然《がいぜん》として、腕を拱《こまね》いた。
「そう云えば、防空演習にしても、遺憾《いかん》な点が多かったですね。東京の小さい区だけの、防空演習だって、なかなか、やるというところまで漕《こ》ぎつけるのに骨が折れた。市川《いちかわ》とか、桐生《きりゅう》とか、前橋とかいう小さい町までもが、苦しい町費《ちょうひ》をさいて、一と通りは、防空演習をやっているのに、大東京という帝都が、纏《まとま
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