第一に、いつもの演習は、少壮気鋭《しょうそうきえい》の在郷軍人会の手で演じていたのが、本物の空襲のときには、その在郷軍人たちの殆んど全部が、召集されて、某国へ出征していたために、残っている連中だけでは、どうもうまく行かなかったこと。第二には、しっかりした信念がなくて、流言蜚語《りゅうげんひご》に、うまうまと捲きこまれ秩序が立たなかったこと。この二つの原因が混乱の渦巻を作ってしまった。
 鼻緒問屋、下田長造の三男で、防毒マスクの研究家だった弦三が、自作のマスクを背負って、新宿附近に住む長兄黄一郎親子に届けるために、花川戸を出たのは、敵の飛行隊が帝都上空に達するほんの直前のことだった。
 弦三は、なんのことはない、死の一歩を踏みだしたようなものだった。まず駈けつけた地下鉄の中で、彼は、避難群衆に、不穏《ふおん》の気が、みなぎっていることを、逸早《いちはや》く見てとったのだった。弦三の乗りこんだ地下電車が、構内を離れて間もなく、不穏分子の振舞《ふるまい》は、露骨《ろこつ》になって行った。
 兼《か》ねて、手筈ができていたものと見え、地下鉄の駅長は、避難してくる群衆を、無制限に地下構内へ入れす
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