筆紙につくされないほど、ひどかった。とても、ここに書きしるす勇気がない。どうしてそんなにひどいことになったかというと、結局、その車室の目張が、言訳《いいわけ》的におそまつにしてあり、それも力を合わせず、めいめい勝手にやったための失敗だった。彼等は、毒瓦斯をあまりにも馬鹿にしていたのだった。
七勇士は、できるだけ彼等を助けたけれど、結局、すぐ元気にかえったものはごくわずかだった。多くは、もう胸にひどい炎症が起り、苦悶はひどくなってゆく一方だった。
壜をくわえた勇士たちが、やがて部屋へ帰ってきて、口から壜を放したときには、皆いいあわせたように顔をしかめ、歯をおさえて、口をきく者もなかった。
「どうもつらい防毒面だ……」
やっと一人が口をきいた。他の勇士は、いたみとおかしさとの板ばさみになって、苦しそうに笑った。
「何しろ、我輩が発明したばかりの防毒面だからこたえたんだよ」
と鉄造は口の上から歯をもみながらいった。
「皆さん、お互に今後は、せめて直結式の市民用防毒面ぐらいはもっていることにしましょう。あれなら、この五倍ももつ。今くらいの薄いホスゲンなら五十時間の上、大丈夫だ」
「そいつは、どの位出せば買えるかね」
「安いものですよ。たしか、六、七円だと思ったがね」
「六、七円? そりゃ安い。山登を一回やめれば買えるんだ」
「僕は、さっきこのおじさんに教わったように炭と綿とを使って、もっと楽に口につけられるような防毒面を自分で作るよ。断然、その方が安いからな」
「でも、保つ時間が短いよ」
「なァに、換えられるような式にして、三つか四つ炭と綿の入った缶《かん》を用意しておけばいいじゃないか」
「僕はその上、水中眼鏡をかけて、催涙瓦斯を防げるようにしようかな」
若い人たちの間には、防毒面の座談会が始まった。同室の人たちは、横から熱心にそれを聞いていた。そしてめいめいの心の中に思った。――
(今度東京へ帰ったら、まっ先に防毒面を手に入れよう……)と。
それから間もなく、毒瓦斯地帯を無事に通過することができた。
「篠《しの》ノ井《い》、篠ノ井……」
と駅夫のよぶ声が聞えてきた。もう毒瓦斯がない証拠だ。窓は明けはなたれた。そとから涼しい、そして林檎《りんご》のようにおいしい(と感じた)空気がソヨソヨと入ってきて、乗客たちに生き返った思《おもい》をさせた。
車内の死者と中毒者とは、この篠ノ井でおろした。駅夫の話によると、夥《おびただ》しい毒瓦斯弾のお見舞をうけた長野市附近は、相当ひどいことになったらしかった。そこでも、平生《へいぜい》の用意が足りなかったわけだ。
列車は、また警戒管制の夜の闇のなかにゴトゴト動きだしていった。――安心したのか、それとも活動に疲れたのか、例の勇士をはじめ、車中の人たちは、枕をならべて深い睡《ねむ》りにおちていった。高崎駅を過ぎるころ、夜が明けた。
しかし車中の人たちは、上野駅ちかくになって、やっと眼を覚ました。
車窓から眺める大東京!
帝都の風景は、見たところ、どこも変っていなかった。焼夷弾や破甲弾、さては毒瓦斯弾などにやられて、相当ひどい有様になっていることだろうという気がしていたが、意外にも帝都は針でついたほどの傷も負っていなかった。昨夜、悪戦苦闘した乗客たちは、何だか、まだ夢を見ているのではないかという気がしてならなかった。
だが本当のところ、帝都は昨夜、遂に敵機の空襲を迎えずにすんだのであった。帝都の四周を守る防空飛行隊と、高射砲の偉力とは、ついに敵機の侵入を完全に食いとめることができたのだった。
しかし、世界第一を誇るS国の大空軍を果していつまでも、完全に食いとめられるものであろうか、どうか。
? ?
東部防衛司令部
東部防衛司令部は、防空令がくだされると、直ちに麹町《こうじまち》区某町にある地下街にうつった。
それは空中からどんな爆撃を受けても、完全に職務をなしとげられるような十分安心のできる場所であった。そこには近代科学のあらゆる粋《すい》をあつめて作った通信設備や発電機や弾薬や食糧や戦闘用兵器などがそろっていた。
その日の午前中に、各地からの知らせが集ってきた。東部防衛司令官香取中将は作戦室の正面に厳然と席をしめ、鹿島《かしま》参謀長以下、幕僚を大|卓子《テーブル》のまわりにグルリと集め、秘策をねっていた。
「……さような次第でありますから……」
と参謀長は報告書を見ながらいった。
「昨夜、S国の空軍が行いました第一回の夜間空襲は、主として○○海沿岸の都市に相当の恐怖と被害とを与えましたようでありますが、遠征してまいった敵の超重爆撃機は、一機をのぞきましてことごとくわが高射砲のために射落されました。その損害は、そうとう大なるものであります」
香取将軍は大きくうなずいた。
「しかるに、S国はその痛手には一向参る様子もなく、チ市にあらかじめ待機させてあった超重爆撃機七十機を、○○○○の北方ス市に移しました。この目的はもちろん、わが国土内に深く入りこんで空襲をやるためでありますが、その飛行場出発はいつになりますやら不明と報道されています。とにかく、これが最も恐るべき相手であります」
香取将軍は、また大きくうなずいた。そして口を開いた。
「又、U国の有名な空軍も、いま○○○○半島に集っているそうじゃな。S国とU国との世界の二大空軍が握手しそうな様子に、大分心配しているむきもあるが本官は、それほど憂慮はしていない。たとえ、全世界の空軍が一つになっても、戦争となると、おのずから順序がある」
と、将軍の太い眉がピクリと動いた。
「さっき、C国の局外中立宣言(どちらにもつかぬということ)が一両日のびるという情報が入りました。やはり昨夜の空襲が原因しているものと見えます」
と、高級副官がいった。
「C国の態度はなかなか決まらんだろう。決まらんところがあの国の国がらなのだ。日本が強ければ、日本につこうとするし、日本が弱りかけたとみると、日本を離れようとする。東洋の平和のためには、わが帝国がどうしても強くなければいけないのじゃ」
「閣下のお言葉の通りです、C国はずいぶん優秀な軍用機をもっているのに、はっきりした行動をとれない。S国やU国が飛行根拠地を貸せといって迫っても、断るだけの力がないのです。あわれな厄介な国ですね」
「わが陸軍の主力がほとんど○○とC国とにでかけているのも、一つはこの弱い国を正しく導いてやって、東洋の平和に手落なからしめるためだ。平和を乱す国などに、むやみに飛行根拠地などを借りられるようなときには、わが国は、代って物もいってやらねばならぬ。東洋に於《お》ける帝国の使命は実に重いのだ」
そのとき、若い大将参謀が、書類をもって入ってきた。
「司令官閣下、昨夜の空襲によってわが国土のうけましたる被害について御報告いたします」
「ほう、御苦労」
「○○海を越えてきました敵の超重爆四機が、攻撃いたしましたのは、大体に於て、本州中部地方の北半分の主要都市でございました。焼夷弾が十トン毒瓦斯弾が四トン、破甲地雷弾が三トンぐらい、他に照明弾、細菌弾などが若干ございますものと推測いたします」
「十七トンの爆弾投下か。――敵ながらよくも撒いたものじゃ」
「軍隊の損害は、戦死は将校一名、下士官兵六名、負傷は将校二名、下士官兵二十二名、飛行機の損害は、戦闘機一機墜落大破、なお偵察機一機は行方不明であります。破壊されたものは高射砲一門、聴音機一台であります。他に照空灯、聴音機等若干の損害を受けましたが、爾後《じご》の戦闘には、支障なき程度でございます」
「軍隊以外の死傷は」
「死者約七十名、重傷者約二百名、生死不明者約千名であります。この原因はおもに混乱によるもので、大部分は避難中、度を失った群衆のようであります」
「ウン、恐るべきは爆弾でもなく毒瓦斯でもない。最も恐ろしいのは、かるがるしく流言蜚語《りゅうげんひご》(根のないうわさ)を信じ、あわてふためいて騒ぎまわることだ。国民はもっと冷静にして落ちつくべきである」
「はッ、閣下の仰せの通りであります。……圧《お》しつぶされて死んだ者についで、死者の多かったのは毒瓦斯にやられた者で、約二十名。これはふだんから、毒瓦斯とはどんなものか、どうすれば防ぐことができるかをよく心得ておかなかったためだと存じます……」
そのとき、通信係の曹長が、いそぎ足で部屋に入ってきた。
「お話中でございますが、司令官閣下、只今《ただいま》、T三号の受信機に至急呼出信号を感じました。秘密第十区からの司令官|宛《あて》の秘密電話であります」
警報|出《い》づ
その日の午後四時、真夏の太陽はギラギラと輝いていたが、帝都には突如として警戒警報が発令された。
品川区五反田に、ささやかな工場を持つ鍛冶屋《かじや》の大将こと金谷鉄造は、親類の不幸を見舞いにいった帰り、思いがけぬひどい目にあったが、その疲《つかれ》を休めるいとまもなく、もう仕事場に出て、荷車の鉄輪を真赤にやいて、金敷の上でカーンカーンと叩いていた。そこへ防護団本部から急ぎの使がやってきて、「至急集合!」を知らせてきたので、仕事はあともう一息だったけれど、そのまま鎚《つち》をなげだして、団服を着るのももどかしく、往来へ走りでた。
「やあ鉄造さん。よく帰ってきてくれたね」
と、分団長の丸福酒店の主人、神崎《かんざき》後備中尉は、嬉《うれ》しそうに、鉄造の手をとった。
「おお、分団長。……昨夜は汽車のなかで、どんなに気をもんだか知れやしない。なにしろ、ふだんの防空演習と違って、いつも先に立って働いてくれた在郷軍人の連中の大部分が、戦地へ召集されて出ていっている。残るは、わし等のような老ぼれと、少年達とばかりだ、それじゃ、とても手が足りなくて困っているだろうと思ったよ」
「ウン、そのとおりだ。全く弱っている。いまラジオでも聞いただろうが、突然また警戒警報が出た。ところが、この小人数になった防護団では、とても手が廻りゃしないことがわかっている」
「一体、人員はどのくらいに減ったのかい」
「とても話にならぬ。半分ぐらいに減っちまったんだよ。その上、頼みになるような若者達がいないと来ている。……これだけで、警護に、警報に、防火に、交通整理に、防毒に……といったところが、とても、やりきれやしない。まさか、こんなに防護団が貧弱になろうとは思わなかったよ」
神崎分団長は、心配の眉をひそめ、途方にくれたという顔附《かおつき》で鉄造の方を見た。
「仕方がないよ。防護団も、戦時にはこうなることが初からわかっていたのだ。愚痴《ぐち》をならべたって仕方がない。とにかく御国のために、ぜひ完全に防護してみせなきゃならない。困っているのは、この五反田防護団だけじゃない。日本全国で、みなこの通り手が足りなくて困っているのだ。……よし、俺《おれ》たちは二倍の力を出すことにしよう。そうすれば、どうにかなるよ」
「他の防護団へ交渉してみようか」
「駄目駄目。それよりも、この際、少年達に大いに働いてもらう方がいい」
「少年達なんて、爆弾がドカーンと鳴るのを聞いたとたんに腰をぬかしたり、泣きだしたりするだろう」
「なんのなんの、そんなことはない。日本の少年の強いことは、むかしから、証明ずみだ。少年時代の頼朝《よりとも》の胆力、阿新丸《くまわかまる》の冒険力、五郎十郎の忍耐力など日本少年は決して弱虫ではない。ところが、この頃では子供だ、かわいそうだと、ただ訳もなくかわいそうがるから、子供たちは昔の少年勇士のような、勇ましい働きを見せましょうと思っても、見せる時がないのだ。今も昔もかわりはない。日本少年の胆力は、今もタンクのように大きい!」
「タンクのように?」
分団長は、鍛冶屋の大将の大袈裟《おおげさ》ないい方におどろいて顔を見た。
「そうだ。タンクだ。だからこの際、少年たちに重大な任務を与えるのがいいのだ。きっと彼等は、頼朝や阿新丸や五郎十郎などのように、困難を乗りきって手柄をたてるよ。心配
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