きだそうと、その火の子の落ちたところが濡れていれば、あたりに燃えひろがる心配はなかったのだ。
 焼夷弾の防ぎ方をハッキリ心得ている人が少かったばかりに、焼夷弾を全町にくらった直江津の町には、敵機の注文どおりに一時にドッと火の手があがった。
 行方をくらました一機が直江津の上空にしのびこんだので、スパイは三箇所に火事を起して、直江津の町がここだと敵機に知らせたわけだった。だから焼夷弾は、町の上にちゃんと正しく落ちた。
「姉さん、逃げましょう――」
 旗男は火が迫ったのを見て、姉をうながした。このとき姉はゴソゴソ押入を探していた。
「ちょっと、旗男さん。……逃げるにしても防毒面がなければね。もう一つあったはずだが……ああ、あった。旗男さん。早くこれをかぶんなさい」
 さすがに軍人の家庭は用意がよかった。
 旗男は、非常な感激とともに、その防毒面を情ぶかい姉の手からうけとった。
「……旗男さん。あんた、この町にぐずぐずしていちゃいけないわ。きっと東京は、もっとひどい空襲をうけていてよ。家はお父さまもお母さまも御病気なんでしょ。竹ちゃんや晴ちゃんでは小さくて、こんなときには頼みにはならないわ。こっちは大丈夫だから、あんたは急いで東京へ帰ってよ、ね、お願いするわ」
「ええ……」
 旗男もさっきから、そのことを心配していたのだ。早く帰らないと申分《もうしわけ》ない。
 そのとき裏手から、また焼けつくような煙がふきこんできた。
「さァ、姉さん、はやく……」
 姉と坊やとを押しだすようにして庭へとびおりた。そのとき猛火はもう羽目板に燃えうつっていた。
 廂《ひさし》からといわず、窓からといわず息づまるような黒煙が濛々《もうもう》と渦をまいて追ってくる。……旗男は渡された防毒面をかぶろうとしたが、一体、姉たちの用意はいいのかしらと心配になって、後をふりかえった。
「おお……」
 旗男は、姉とその愛児の正坊とが、それぞれの頭にピッタリ合った防毒面をかぶっているのを見て感心した。――そこで旗男もあわててスポリとかぶった。煙がその吸収缶に吸われて、とたんに息がらくになった。姉たちは、その間に旗男のそばをぬけて、スルリと門外にとびだした。
 真向こうの大きな二階建の家には、焼夷弾が落ち、階下で燃えだしたと見え、家ぜんたいが、まるでしかけ花火のような真赤な炎に包まれていた。すさまじい火勢が、家ぜんたいをグラグラとゆすぶった。旗男はハッと立ちすくんだ。
「あッ、姉さん、あぶないッ!」
 と、叫んだが……それは残念にも、すでに遅かった。とたんに家はものすごい大音響をあげて、ドッと道路の上に崩れおちてきた。――ああ、いましも正坊を抱いた姉が駈け出したばかりのその道路の上に……。


   避難民


 どこをどう逃げてきたか、よくわからなかった。とにかく気のついたときには、旗男は、まっくらな畦道《あぜみち》をまるで犬かなんかのように四ンばいになり、ハアハア息を切りながら先を急いでいる自分自身を見出《みいだ》した。
(なぜ、僕はこんなに急いでいるのだろう?)
 そういう疑いが、ふと彼の頭のなかを掠《かす》めたとき、彼はとつぜん[#「とつぜん」に傍点]気がついた。今まで何をしていたのか、ハッキリはしないけれど、とにかく、焼け落ちた家の下じきになったはずの姉と正坊の名を、あらんかぎりの声をしぼって呼びまわっている時、救護団の人たちが駈けつけたこと、そのうち逃げてくる人波に押しへだてられてしまったことだけが残っていた。それから先、どうして逃げたかわからない。
 どうやらあまりの惨事に、しばらく気が変になっていたものらしい。
(ああ、姉さんや正坊はどうしたろう。これもみな、町のひとたちが、焼夷弾が落ちたらどうすればいいかを知らなかったせい[#「せい」に傍点]だ。敵機も恐ろしいには違いないけれど、防護法を知っていたらこんなにはならなかったであろう?)
 旗男は心配と口惜《くや》しさで、腸《はらわた》がちぎれるように感じた。
 あたりをみまわすと、後にしてきた直江津の町は、まだ炎々と燃えさかっていた。しかし、さっきまでは活発に聞えていた高射砲のひびきは今は聞えない。僅《わず》かに高田市あたりと思われる遠空に、たった一本の照空灯がピカリピカリと揺れているばかりだった。――どうやら敵機はさったらしい。だが非常管制はそのまま続けられているらしい。
「元気を出さなきゃあ……」
 と、旗男は自分自身にいいきかせた。そして、四ンばいをよして、二本の足で立ちあがった。
 畦道がおしまいになって、暗いながらも、火炎の明るさでそれとわかる街道へ出てきた。
(これでやっと歩きよくなる――)
 と思って、彼は悦《よろこ》びながら、街道を歩きだしたが、わずか十メートルほどゆくと、道路の上に倒れている人間にドーンとぶつかった。
(オヤ、どうしたんだろう?)
 旗男はこわごわ傍《そば》へよってみた。道路の上に倒れている人数は、一人や二人ではなかった。誰もみな、身体をつっぱらして死んでいた。そして、いいあわせたように、両手で咽喉《のど》のあたりを掴《つか》んでいた。
「ああ、敵機はやっぱり毒瓦斯を撒《ま》きちらしていったんだ」
 旗男も、姉から防毒面を貰《もら》わなかったら、この路傍にころがっている連中と同じように、今ごろは冷たく固くなっていたことだろう。
 それにしても、なんという憎むべき敵!
 ふり落ちる涙をおさえおさえ、旗男はようやく街道に出ることができた。そこで彼は、たいへん夥《おびただ》しい避難者の列にぶつかってしまった。狭い路上には、どこから持ちだしてきたのか車にぎっしりと積んだ荷物が、あとからあとへと続いていた。その車と車との間に、避難民が両方から挟《はさ》みつけられて、キュウキュウいっていた。それも一方へ進んでいるうちはよかったけれど、そのうちに誰かが流言を放ったらしく、先頭がワーッというと、われさきに引きかえしはじめた。とたんに、どこから飛んできたのか火の子が、荷物の上でパッと燃えだしたので、さわぎは更にひどくなった。
「オイ、女子供がいるんだ……押しちゃ、怪我する。あれこの人は……」
「さあ、逃げないと生命がたいへんだ。どけ、どかぬか……」
「うわーッ」
 蜂《はち》の巣《す》をついたようなさわぎになった。そうさわぎだしては、助かるものも、助からない。群衆は、ただわけもなくあわて、わけもなく争い、真暗な街道には、あさましくも同士うちの惨死者が刻々ふえていった。
「あわてちゃいかん」
「流言にまどうな。落着けッ!」
 声をからして叫ぶ人があっても、いったん騒ぎだした人たちを鎮《しず》める力はなかった。日本国民として、この上もなく恥ずかしい殺人が、十人、二十人、三十人と、数を増していった。ああ、このむごたらしい有様! これが昼間でなかったのが、まだしもの幸いだった。あわてた人間には大和魂なんて無くなってしまうものなのか?
 旗男は、命からがら、この殺人境からのがれ出た。いくたびか転びつつ前進してゆくほどに、やがて新しい道路に出たと思ったら、いきなり前面に、ピリピリピリと警笛が鳴ったので、おどろいて立ちどまった。
「さあ、いま笛の鳴っている方角に歩いて下さい。この方角は駅の前へ出ます。……さあ、皆さん元気で、頑張って下さい。祖国のために……」
 群衆のざわめく姿が、火事を照り返した空のほの明るさで、それと見られたが、かなり集っている。それだのに、これはさっきの群衆とちがって、なんという静粛な人たちだろう。落ちついているのと、あわてているのは、こうも違うものかとおどろいた。
 旗男は、暗夜の交通整理のおかげで、思いがけなく駅の前に出ることができた。それは春日山《かすがやま》駅といって、直江津と高田との中間にある小駅だった。ちょうど東京方面へゆく列車が出ようという間ぎわだった。町を守らねばならぬ義務をわすれて逃げだすような人たちは断られたが、旗男のように、東京方面へ帰るわけがある人たちは、プラットホームへ入れてくれた。
 旗男は、思いがけないほど都合よく汽車に乗りこむことができた。
 ――東京はどうだろう? 病身の両親や、幼い弟妹《ていまい》などが、恐ろしい空襲をうけて、どんなにおびえているだろうか。


   疾走《しっそう》する暗黒列車


 空襲をうけたといって、すぐ交通機関が停《とま》るようでは、ちょうど、手術にかかったとたん[#「とたん」に傍点]にお医者さまが卒倒したのと同じように、たいへんなことになる。
 空襲下でも、交通機関は、できるだけ平常どおり動かさねばならぬ――と、鉄道大臣は、大きな覚悟をいいあらわした。
 それは全くむつかしい仕事のうちでも、ことにむつかしい仕事であるのに、鉄道省は、見事にそれをやってのけた。……黒白《あやめ》もわかぬ暗黒の夜に、蛍火《ほたるび》のような信号灯一つをたよりに、列車でもなんでも、ふだんと変わらぬ速さと変わらぬ時間で運転するなんて、神さまでも、ちょっとやれるとおっしゃらないだろう。
 ――これを実際にやってのけたのだから、日本の鉄道の人たちは天晴《あっぱれ》なものだった。踏切や町かどの交通整理を引受けて、働いた青年団員も、実に偉かった。
「おどろきましたねェ、まったく……」
 と、辻村という商人体の乗客が口を開いた。列車の内はすべて電灯に紫布《むらさきぎれ》の被《おおい》がかけられていた。
「国がどうなるかというドタン場に、こうも落ちつきはらって、自分の職場を守りつづけるなんて、イヤ、どうも日本人という国民はえらいですな」
「いや全く、そのとおりでさあ」
 と職工らしいガッチリした身体の男があいづちをうって答えた。
「われわれの先祖が、神武天皇に従って東征にのぼったときからの大和魂ですよ。大和魂は現役軍人だけの持ものじゃない。われわれにだってありまさあ」
「われわれにも、チャンとありますかなァ。わたしなんかにゃ、どうも大和魂の持合せが少いんで恥ずかしいんですよ……」
 といって頭をかいたが、
「どうです、親方。この汽車は今夜中このとおり、鎧戸《よろいど》をおろし、まっくらにして走るんですかね」
「いや、いまに非常管制がとけて、警戒管制にかえれば、窓もあけられますよ」
「警戒管制になるのはいつでしょうな」
「いまに車掌さんが知らせに来ますよ。それまでは、すこし蒸暑《むしあつ》いが、我慢しましょうや」
「我慢しますが、わしはどうも暑いのには……いやどうも弱い日本人だ。……どうです、親方。暑さしのぎに、暗いけれど一つ将棋を一番、やりませんか」
「えッ、将棋!」
 親方は太い眉《まゆ》をビクンと動かした。
「この空襲警報の中で将棋ですか。いやおどろいた。あんたも弱い日本人じゃない。おそれいったる度胸。これァ面白い。さしあたり用もないから、じゃ生死の境に一番さしましょうか。これァ面白い。はッはッはッ」
 辻村商人氏が、トランクから小さい将棋盤を出してきた。トランクを向かいあった二人の膝の上に渡し、その上に盤をおいた。そして駒《こま》をパチパチ並べはじめた。そのときまでの、この車内の光景ときたら、婦人や子供といわず、堂々たる若者たちまでが、本物の爆弾投下のものすごさにおびえて、すっかり度を失っていたのだ。ある大学生はブルブル慄《ふる》えながらナムアミダブツを唱え、三人づれの洋装をした女たちは恐怖のあまり、あらぬことを口走っていた。列車の窓から外へ飛び出そうとする母親を子供たちが引留めようと一生けんめいになっていた。まるで動物園の狐のように車内をあっちへいったり、こっちへいったり、ウロウロしている会社員らしい男もあった。
「ああ呆《あき》れた。あそこを見なよ。この騒《さわぎ》のなかに呑気《のんき》な顔をして将棋をさしている奴がいるぜ。ホラ、あそこんとこを見てみろ……」
 登山がえりらしい学生の一団の中から、頓狂《とんきょう》な声がひびいた。――「将棋をさしている奴がいる」
 その声に、室内の人々はあッとおどろいて、学生の指さす方角を覗きこん
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