つまずにすべて蜂矢につたえた。そしてそのあとで、なにか蜂矢のほうで質問があれば、それに答えるといった。
それに対して蜂矢はつぎのことを聞いた。
「第二研究室の爆発が起こるまえ、針目博士が皆さんを案内して、その部屋にはいったときのことですがね、博士の態度に、なにか変ったことはありませんでしたか」
「さあ、かくべつ変ったということも――いや、ひとつあったよ」
と検事はぽんと手のひらをたたき、
「すっかりわすれていたが、いま思いだした。それはね、あの第二研究室にはいると、博士はきゅうにおとなしくなったんだ。その前までは博士は気が変ではないかと思ったほど、ごう慢《まん》な態度でわたしを叱《しか》りつけ、悪くいい、からみついてきた。しかるにあの第二研究室へはいると同時に、博士はまるで別人のように、おとなしい人物になってしまったのだ」
「ふーむ、それは興味ぶかいお話ですね。しかしどういうわけで、そんなに態度が一変《いっぺん》したのでしょうか」
「それはわたしにはとけない謎だ」
「あなたはあの部屋へはいると、きゅうにはげしい頭痛におそわれたのでしたね」
「部屋へはいってすぐではなかった。すこしたってからだ。五分もしてからだと思う。それにさっきもいったように、この頭痛はわたしだけでなく、あとからきくと他の同僚たちも、みんなおなじように頭痛におそわれたそうだ。これと博士の態度とに、なにか関係があるのかな。いや、それほどにも思われないが……」
「そのとき博士のほうはどうだったでしょう。やっぱり頭痛になやんでいたようすでしたか」
「ちょっと待ちたまえ」
と検事は腕ぐみをしたが、まもなく首を左右にふって、
「いや、針目博士は頭痛になやんでいるような顔ではなかったね」
「それはどうもおかしいですね」
このちょっとしたことがらが、後になってこの事件解決のかぎになろうとは、気のつかないふたりだった。
大学生、雨谷《あまたに》君
せっかく蜂矢探偵の登場を、みなさんにお知らせしたが、ここで蜂矢探偵のことをはなれて、べつの事件についてお話しなくてはならない。それというのが、まことに前代未聞《ぜんだいみもん》の珍妙なる事件がふってわいたのである。
東京も、中心をはなれた都の西北|早稲田《わせだ》の森、その森からまだずっと郊外へいったところに、新井薬師《あらいやくし》というお寺がある。そこはむかしから目《め》の病《やまい》に、霊験《れいけん》あらたかだといういいつたえがあって、そういう人たちのおまいりがたえない。
しかし筆者は、いまここにお薬師《やくし》さまの霊験をかたろうとするものではなく、そのお薬師さまの裏のほうにある如来荘《にょらいそう》という、あまりきれいでないアパートの一室に、自炊生活《じすいせいかつ》をしている雨谷金成《あまたにかねなり》君をご紹介したいのである。
雨谷君は大学生であった。
だがその時代は、学生生活はたいへん苦しいときであったうえに、雨谷君の実家は大水《おおみず》のために家屋《かおく》を家財《かざい》ごと流され、ほとんど、無一物《むいちぶつ》にひとしいあわれな状態になっていた。しかしかれの両親とひとりの兄は、この不幸の中から立ちあがって、復興《ふっこう》のくわ[#「くわ」に傍点]をふるいはじめた。二男の雨谷金成君も、今は学業をおもい切り、故郷にかえって、ともにくわ[#「くわ」に傍点]をふろうと思って家にもどったところ、
「金成《かねなり》や、おまえは勉強をつづけたがいいぞ。そのかわりいままでみたいに学資や生活費をじゅうぶん送れないから、苦学《くがく》でもしてつづけたらどうじゃ」
と皆からいわれ、それではというので、その気になってまた東京へひきかえした金成君だった。
金成君は、それから友人たちにもきいて歩いたけっか、にぎやかな新宿へ出、鋪道《ほどう》のはしに小さな台を立て、そのうえに、台からはみだしそうな、長さ二尺の計算尺を一本よこたえ、それからピンポンのバットぐらいもある大きな虫めがねを一個おき、その横に赤い皮表紙の「エジプト古墳小辞典《こふんしょうじてん》」という洋書を一冊ならべ、四角い看板灯《かんばんとう》には、書きも書いたり、
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――古代エジプト式手相及び人相鑑定
三角軒ドクトル・ヤ・ポクレ雨谷狐馬《あまたにこま》。なやめる者は来たれ。
クレオパトラの運命もこの霊算術《れいさんじゅつ》によりわり出された。エジプト時代には一回に十五日もかかった観相《かんそう》を、本師は最新の微積分計算法《びせきぶんけいさんほう》をおこない、わずかに三分間にて鑑定す。
見料《けんりょう》一回につき金三十円なり。ただしそれ以外の祝儀《しゅうぎ》を出さるるも辞退せず。
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