、玉太郎をきっとにらんだ。玉太郎は、氷の雨を全身にあびたように、がたがたふるえ出した。
 が、ここで気絶しては、自分が背負っている重大な義務がはたせないと思いなおして、けんめいにこらえた。
「今だ。早くにげなさい。ツルガ博士。ネリーさーん」
 玉太郎は、全力をあげて、やっとそれだけのことをいった。
 と、恐竜はとつぜんどぼんと、沼の中に姿を消してしまった。
 沼の表面には、はげしい波紋が起って、岸のところへ波がざぶりとうちあげた。
 竪琴が急調《きゅうちょう》をふくんで鳴りひびいた。ツルガ博士の手が、竪琴の糸の上を嵐のようにはしっているのだ。
 ネリが、父親の博士にだきつくようにして、その耳に何かささやいている。
 そのとき玉太郎は、とつぜん大きな身体にだきつかれた。
「おお、玉太郎、玉太郎。よくここへもどってくれた」
 その大きな身体は、実業家のマルタンであった。ツルガ博士が腰をおろしていた大木のうしろで、ぶるぶるふるえていたマルタンであった。
「君は小英雄だ。恐竜をおっぱらってくれた」
 マルタンは、玉太郎へほめことばと感謝を、こういって投げつけた。
「いったい、どうしたのです」
 玉太郎が、たずねた。
「ツルガ博士が竪琴をひくから、恐竜がそれを聞きつけて襲撃してきたのだ。私は博士に、琴をひくのをすぐやめるようにいったのに、博士は頑《がん》としてきかない。君があのとおり恐竜をおっぱらってくれなかったら、私たち三人は次々に恐竜の餌食《えじき》になってしまったろう。ああおそろしや」
 マルタンは、もう一度はげしく身ぶるいして、沼の方をふりかえった。
 水面は、もう静かにもどって、しずまりかえっていた。岸のところに木の根の上には、ツルガ博士がネリをだいてやさしくネリの頭髪をなでていた。
「たいへんなことができたんですよ。マルタンさん。この奥の恐竜洞《きょうりゅうどう》へいった人たちが岩から落ちて、上ってこられなくなったんです。ラツールもやはり落ちていたのです」
「ええッ」
 それから玉太郎は、早口でそのいきさつをのべた。そしてすぐにロープを洞窟へはこんで彼らを救い出さないと、四人の人たちは恐竜に殺されてしまうであろうといった。
「それはたいへんだ。みんな力を合わせなくては。おーい、ツルガ博士。たいへんなことが出来たんです。恐竜が伯爵やケンやダビットやラツールをくい殺そうとしているそうです。あなたも力を貸して下さい」
 マルタンはそういって博士に呼びかけたが、博士はそれにたいして、頭を二つ三つ左右にふり、そのあとで、同じように手をふっただけであった。
 ネリの方はびっくりして立ち上り、博士の手をとって立たせようとした。だが博士は、お尻に根がはえたように、その位置から動かなかった。
「邪悪《じゃあく》な慾望を持った者たちの上に、おそろしい災難が落ちかかるのは、あたり前だ。わしは彼らに同情する気がおこらない。わしは恐竜の方に味方する。あの人たちが何をいおうと、かかわりあわないがいい」
 博士は、ネリにいった。
 ネリは苦しげに眉《まゆ》をよせて、父親と、玉太郎とマルタンの両人とを見くらべたが、やがて力なくその場にしゃがんだ。
 玉太郎は、ツルガ博士のたいどとことばをふかいに感じた。四人の人間の生命が失われそうなときに、博士は自分だけが正しいのだ、自分さえよければいいんだと思っているらしいのにたいし、いきどおりをおぼえた。
 だが、そのことで博士をとがめているひまはなかった。そんなことよりも、早く大ぜいの救援隊員をあつめ、それから長いロープをかついで、恐竜の洞窟へ一刻も早くかけつけなくてはならないのだ。
 マルタンも同じことを思っていたと見え、
「玉太郎君。あの人はほうっておいて、早く海岸へ行って、他の人たちに協力をもとめようではないか。その方が早い」
「ええ、それでは急いで、海岸へもどりましょう」
 と、二人は密林のなかへかけこんだ。


   海岸の乱宴《らんえん》


 太っちょのマルタン氏が、けんめいに密林の雑草をかきわけて、早く走ろうとするその姿は、こっけいでもあったが、そのまごころを思えば、玉太郎は笑えなかった。
 二人は、やけつくようなのどのかわきをがまんし、顔や手足にひっかき傷をこしらえて、密林を突破した。
 椰子《やし》の木のむこうに、まぶしい海が見えてきたとき、玉太郎は気がゆるんで、ふらふらと倒れそうになった。それをマルタンがうしろからかかえてくれた。
 しかしマルタン氏は声が出なかった。それで、声のかわりに玉太郎の肩をぱたぱたとたたき、彼の顔をハンカチであおいでやった。
 玉太郎もやはり声が出なかったので、身ぶりでもってマルタン氏に感謝した。つっ立っている二人の脚から腹へ、腹から胸へと、赤蟻《あかあり》がぞろぞろとはいあがってきた。
「もう一息だ。元気を出して……」
 マルタン氏が、やっと口をきいた。
「もう大丈夫。さあ行きましょう」
 玉太郎も、しゃがれ声を出して、マルタン氏の先に立って、また走りだした。
 さいごの椰子の木の林をとおりぬけ、二人は海岸にたっているテントめざしてかけた。
 小屋の前に、人々はあつまっていた。にぎやかに、歌をうたったり、手をあげたり、おどったりしている。酒宴《しゅえん》がはじまっているらしい。
 玉太郎とマルタンが近づくと、彼らは、酒によったとろんとした眼で、二人をよく見ようとつとめた。しかし首がぐらぐらして、はっきり見えないようすだ。
「だ、誰だ。こわい顔をするない。まあ、一ぱい行こう」
 そういったのは、水夫のフランソアであった。その横には、水夫のラルサンがよいつぶれて、テーブルがわりの空箱《あきばこ》に顔をおしつけたまま、なにやら文句の分らない歌を、豚のような声でうたっている。砂の上には、酒のからびんがごろごろころがり、酒樽《さかだる》には穴があいて、そこからきいろい酒が砂の上へたらたらとこぼれている。
 玉太郎もマルタンも、あきれてしまった。
 そのむこうの、大きなテーブルには、――テーブルといってもやはり空箱を四つばかりならべて、その上に布《きれ》をかぶせてあるものだが――巨漢《きょかん》モレロが、山賊の親方のように肩と肘《ひじ》とをはり、前に酒びんを林のようにならべて、足のある大きなさかずきで、がぶりがぶりとやっていた。彼の眼《ま》ぶたは下って、目をとじさせているようだったが、ときどきびくっと目をあいて、すごい目付で、あたりを見まわす。
「……おれが許すんだ。今日はのめ。……うんとのめ……文句をいう奴があったら、おれが手をのばして、首をぬいてやる。なあ、黄いろい先生」
 黄いろい先生といってモレロが首をまわした方向に、張子馬がしずかにテーブルについていたが、玉太郎とマルタンが、青い顔をしてかけこんで来たのを見ると、彼はさかずきをそっと下においてたち上った。そしてモレロの頭ごしに、玉太郎たちに声をかけた。
「なにか一大事件がおこったようですな。何事がおこりましたか」
 感情をすこしもあらわさないで、中国の詩人は、しずかにたずねた。
「たいへんです。恐竜の洞窟の中で、みんなが遭難《そうなん》してしまったんです」
「ロープが切れて、みんな崖《がけ》の中段のところに、おきざりになってしまったんだそうだ。すぐみなさん、救援にいって下さい」
「それは大事件ですね。ロープだけでいいのでしょうか」
 張は、冷静にたずねた。
「ロープと食糧とあかりと……それから薬がいる」と玉太郎がいった。
「ロープはいちばん大事なものだ。たくさん持っていく必要がある。そして早くだ」
 マルタンは、何が大切だか、よく心えていた。
 張子馬はうなずいた。そして水夫のところへ行って、
「おい、フランソア。ラルサン。もう酒もりは、おしまいだ。こんどはお前たち、出来るだけインチのロープを肩にかついで、あの密林の奥へ急行するんだ。分ったか、フランソアにラルサン」
 と、二人の肩を、いくどもたたいた。
 二人とも、首をぐらぐらしているだけで、張のいっていることが半分しか分らない面持《おももち》であった。
「やい、やい、やい、やい……」
 モレロが仁王《におう》のように立ち上った。
「おれをのけものにして、何をどうしようというんだ」



   慾《よく》の皮《かわ》


 玉太郎もマルタンも、気が気ではなかったが、救援隊はそれから一時間のちになって、出発した。
 そのときには、二人の話によって、留守隊の連中もだいぶんよいがさめかけてた。恐竜は一頭かと思ったのに、この島には五頭も六頭も集っていると聞いては、よいもさめるはずであった。
 密林をくぐりぬけて、沼のところへ出たときには、モレロも二人の水夫たちも正気にもどっていた。
「おや、学者親子が、あんなところで遊んでいるじゃないか」
 モレロが、けわしい目をして、沼畔の榕樹《ようじゅ》の根かたを、つきさすようにゆびさした。ツルガ博士とネリは、さっきからずっとそこにいたのだ。
 博士はモレロの声を聞くと、けいべつの色をうかべた。ネリはモレロのおそろしいけんまくにおびえて、父親の胸にすがりついた。
 玉太郎は、モレロに対していかりを感じ、大いにいってやろうと前へとび出そうとしたところ、張がそれをおさえた。
「相手がわるい。そして今は、大切な時だ」
 と、張は玉太郎にささやくようにいった。
 そうだ。ラツールやケン、ダビットたちを救うまでは、仲間われしては不利なのだ。それだけ救援力が小さくなるおそれがある。玉太郎は、いきどおりをぐっと胸の奥へのみこんで、ただネリの方へ同情の視線をおくった。
「あいつらにも、救援の仕事をさせないと、不公平だ。おれが引立ててやろう」
「まあ、待ちたまえ、モレロ君」とマルタンがとめた。そして葉巻を一本出してモレロにあたえた。「ツルガ博士はあのままでいい。いっしょに連れていっても、かえってわれわれの足手まといになるだけだ。なんにしろ、恐竜群にたいして、われわれはすばやく行動しないと、とりかえしのつかないことになるからね」
「ふん。じゃあ、このたびは見のがしてやるか」
 モレロは、にくにくしげにいった。よほど彼は、博士が、虫がすかぬらしい。
 断崖《だんがい》をのぼり、それから林の中をはいって地下道を通り恐竜の洞窟《どうくつ》へ入った。
 洞窟のものすごい光景。海水に身体をひたしてうずくまる四頭の恐竜の姿。洞窟の中へさしこむ陽《ひ》の光のまぶしさ。わわんわわんと反響する波の音。はじめてこの光景を見る四人の新来者たちは、みんな顔色をかえた。
「すごいところがあったもんだ」
「地球の上に、こんな別天地《べってんち》があろうとは、夢にも思わなかった」
「これは、地獄の入口かも知れない」
「恐竜の巣にとびこむなんて、契約になかったぞ」
 四人が四人、それぞれに恐怖につつまれてしまった。
 マルタンは指揮をとる。
「さあ、作業はじめだ。ロープを、まず四本は、下へおろさなくてはならない。そこらにしっかりした岩を見つけてロープの端をしばりつけるのだ」
「見物はあとにして、こっちへ集って下さい」
 と、玉太郎がさけぶ。
「いいきみだ。へいぜい、えらそうな口をきいた連中も崖の中段で小さくなっているじゃないか。うわはははは」
 モレロは毒舌《どくぜつ》をふるう。
「モレロ君。君は自分の分を、このロープでくくりつけたまえ」
「わたしはいやだよ。下に下りる気はない」
「ほんとかね。わしはかけをしてもいい。今に君は、きっと下へ下りるだろう」
「とんでもないことだ。しかしあの恐竜をたねに、なんとか金もうけを……うむ、むにゃむにゃむにゃ」
「では、張さん。あなたは身体がかるいから、水夫がおろしたロープで、先へ下りて下さい。なあに、下の連中に、元気のつくような話をしてくれれば、それでいいんですよ」
 マルタンは張にいった。
「伯爵の姿は見えんですね」
「そうです。張君。玉太郎君の話によると、一番下まで落ちたそうです」
「どうして彼ひとりが落ちたんですかな」
「それはね
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