伯爵がしゃがれ声でさけんだ。しかしそのことばの意味は、玉太郎には通じなかった。玉太郎は、老伯爵がいよいよきみょうなうなり声をあげるので気味がわるくなり、どうしたのですかと、又たずねた。
「どうもしない。どうもしない。君、君なんかには絶対に関係ないことだ」
 伯爵は、口ごもりながら、そうべんかいして、玉太郎をぐっとにらみつけた。
「そんならいいですが、あなたはなぜ、さっきから昂奮していらっしゃるんですか、伯爵」
 玉太郎は、そういわないで、いられなかった。
「伯爵? あ、そうか。なに、わしが昂奮しているって、……あははは、とんでもない。わしは北氷洋の氷魂《ひょうかい》のように冷静だ」
 なんだかわけのわからぬことを伯爵はさけんで、やっぱり昂奮していた。しかし彼は自分の昂奮を極力《きょくりょく》他人に知られたくないようすであった。とにかく、そのとき以来、伯爵は急にじょうきげんにかわったことはたしかであった。いったい何がこの老人を、こんなにうれしがらせているのであろうか。
「伯爵。その望遠鏡を、ちょっとぼくにかして下さいな」
「この望遠鏡を!」伯爵は、起きなおって例の望遠鏡をしっかり胸にだいた。「とんでもない。これは大事なものだ。貸すことはできない。ぜったい出来ない」
 伯爵のようすは、いよいよただごとではなかった。玉太郎は、自分の方の味方をふやすために、あたりを見まわして、ケンとダビットの姿をもとめた。
 と、その二人は、岩頭からのりだすようにして、しきりに恐竜の生態《せいたい》を映画にとっていて、ほかのことはぜんぜん注意をはらっていなかった。それもむりではない。さっき第一回の撮影に大失敗し、そのあと突然ふってわいたすばらしい恐竜洞の光景をつかまえ、今こそすばらしい機会だ、思う存分フィルムへとってしまえと、二人の映画人は夢中になっているのだった。
 玉太郎は急に自分ひとりがそこにとりのこされているような気がして、おもしろくなかった。
 彼は、愛犬ポチのことを思い出した。ポチを呼ぶために、口笛を吹こうとしたが、その直前に思いとどまった。恐竜は口笛がきらいなんではなかったか。口笛を吹いて、せっかくおとなしくしている恐竜をよび、巨獣《きょじゅう》どもを怒らせてはたいへんだ。
 口笛を吹くのをやめたかわりに、玉太郎は岩鼻から前半身をのりだして、崖の下をながめた。
 下はすごい岩壁《いわかべ》であり、そしてやはりひたひたと海水に洗われていた。
「おや、あそこの岩に、人が倒れている」
 玉太郎は、重大なることを発見した。その岩壁はまん中あたりでちょっと段になっていたが、その段の上に、誰か倒れているのであった。
「あ、ラツールさんだ。ラツールのおじさんだ。みんな来て下さい」
 玉太郎は昂奮した。下をさしながら、彼はどなった。その声は、わんわんと大きく洞窟をゆすぶってひびきわたった。四頭の恐竜が、鎌首《かまくび》をもたげて、じろりと、こっちを見た。


   冒険|救助作業《きゅうじょさぎょう》


 撮影監督のケンもカメラマンのダビットも、撮影ちゅうししてそばへとんできた。
「あそこです。崖のとちゅうに人間がかかっているでしょう。あれがラツール記者なんです。やっとラツールさんのいどころが分りました。早く救って下さい。なんとかして生命をたすけてあげて下さい」
 玉太郎は泣かんばかりに熱心を面《おもて》にあらわして、ケンやダビットにたのんだ。きょとんとしている老伯爵にもたのんだ。
「よし。ロープを下してたすけよう」
 ケンもダビットも、義侠心《ぎきょうしん》が強かったから、すぐこの人命救助にのりだした。玉太郎はうれしくて、胸がいっぱいになった。
「これでまに合うかな」
「大丈夫、あそこまでとどきますよ」
「とどくことは分っているが、このロープはすこし古いからね。切れやしないかと思う」
「大丈夫でしょう、こんなに太いんだから」
 ケン監督は、大胆《だいたん》の中にもこまかい注意をはらう男だった。ロープは、撮影のときカメラマンのダビットをつりさげたりするために、とちゅうで手に入れたものだったが、すこし古びていた。一人の身体をささえるにはだいじょうぶだろうが、救助作業のときは二人いっしょにこのロープへぶら下る場合が予想されるので、そのときのことをケンは心配したのだ。
 ダビットの方は、そんなことを気にもとめていなかった。
「ダビット。君が先へおりてくれ」
「よろしい」
 ダビットはすぐロープを自分の腰にぐるぐるとむすびつけた。ケンはロープの他のはしをにぎって、伯爵と玉太郎に、それをしっかりにぎってうしろへ下がり、腰をおとすように命じた。
 ケンは岩鼻のところに立ち、ダビットが岩をこえてそろそろ下へおりていくのをちゅうい深く手つだった。ダビットは、こういうことにはなれていると見え、要領《ようりょう》よく身軽に、しずかにするすると下りていった。
 ラツールの倒れている中段の岩までは、上から測《はか》って十四五メートルあった。ダビットはついにそこへおりつくことに成功した。彼はさっそくラツールの身体を調べにかかった。
「ダビット。どうだ。生きているか。けがをしているか」
 ケンは手をメガホンのようにして、下にいる同僚にたずねた。
「……大丈夫だ、生きている。大したけがはない。しかし弱っている。なんか注射でもしてやりたい。それから多分水と食物だろう」
 ダビットは下から報告してきた。
 玉太郎はラツールが生きていると聞いて、たいへんうれしかった。大したけがをしていないとは幸運だ。たぶん彼は、永いあいだ食物も何もとらないので弱り切っているのだろう。
「やっぱり、ぼくが下りていかないとだめだな。それではと……」
 ケン監督は、注射薬とその道具を持っていたので、下へおりていく決心をした。そこで上でロープをひっぱっている人数が二人になるので、それでは力が足りないから、伯爵と玉太郎をうながして、ロープのはしの方を、後方《こうほう》にとび出している手頃な岩にぐるぐるぐるとかたく巻きつけた。これならもう大丈夫だ。
「わしが下りよう」
 伯爵がケンをおしのけていった。
「とんでもない。ぼくが下ります。注射もしなくてはならないのです」
「いや、わしだって注射はできるぞ」
「まあまあ。ここでまっていて下さい」
「そうかね。それでは行って来たまえ。そしてすんだらすぐ上ってくれ。下でぐずぐずしたり、余計なよそ見をするんじゃないよ」
「なにをいうんですかい、おじいちゃん」
 そのとき、ケンは伯爵の気持を知らなかったので、笑いでうち消した。
 ケンはするするとロープをつたわって下へおりた。そしてダビットを手にして[#「ダビットを手にして」はママ]ラツールの身体にいく本かの注射をうった。ラツールの顔が赤い色にもどった。心臓も強くうちはじめ、呼吸もしっかりして来た。
 もうだいじょうぶと思われた。


   悲劇は来《きた》る


 だが、ラツールはひとりで立っている力はまだなかった。たいへん衰弱《すいじゃく》していたのだ。
「どうするかね、ケン」
 と、ダビットは、救った男のしまつについて相談した。
「どうするのが一番いいかな」
 二人はラツールのそばで協議を始めた。その間、ケンとダビットは煙草に火をつけ、相談しながら、ものめずらしげに下をじろじろと見まわしていた。
「おや、あれはなんだ。あの岩の上に、ぴかぴか光っているものがある」
 ケン監督がゆびさした。それは、さっき恐竜がはいあがっていた平らな一つの岩の上であった。
「洞窟の宝もの。金貨にダイヤモンドに、その他いろいろの高価な宝石……じゃないかな」
 ダビットは、おどけた調子でそういった。彼はじょうだんをいったのである。
「はり倒すぜ。お伽噺《とぎばなし》じゃあるまいし。さあお伽噺より現実の方がだいじだ。君はこのラツール君を背中にしばってこのロープをつたわってあがれるかい」
「オー・ケー。大いに自信がある」
 ケンはぐにゃぐにゃのラツールをダビットの背にしばりつけた。ダビットは上から下っているロープへぶら下った。そしてぐうっと胸をちぢめてロープをのぼりはじめた。
 そのとき、崖の上で、気がへんになったような人の声がした。玉太郎の声だ。
 ケンは上をあおぎ見た。
「あッ、伯爵、なにをするんです。早くのいて下さい」
 セキストン伯爵が、どういうつもりか、下へたれているロープをつたわって下りようとしているのだった。ケンはおどろいた。玉太郎も、とっさのこととて伯爵をとめるひまがなかったものと見える。
 悲劇は、次のしゅんかんにやってきた。
 ぷつり!
 ロープは、岩鼻の角《かど》にこすれたところから、もろくも切断した。
 めいめいの悲鳴。
 ケン監督がロープの下へかけよって、両手を上へつきだしたのと、その腕の中へラツールとダビットの重い身体がどさりと落ちて来たのとがほとんど同時であった。三人は餅《もち》のように重なって岩の上にたおれた。
 それにつづき、ほんのちょっとのあいだをおいて、はるか下の方で、どぼーンという大きな水音が聞え、そのあとには、わんわんと、気味のわるい反響が長くつづいた。
 伯爵がもんどりうって海水の中に落ちたのであった。
 上の岩鼻には、玉太郎がひとりいた。
 玉太郎はとほうにくれてしまった。
 ロープは切れた。そして下におちた。三人は岩壁《いわかべ》の中段に残った。セキストン伯爵は海中に落ちこんだ。どうすればいいだろう。
 まず老伯爵の安否《あんぴ》が気づかわれたので、玉太郎は岩鼻からのびあがって、一生けんめいに老人の姿をさがしもとめた。だがとちゅうに岩がとび出していて、伯爵が落ちたあたりは見えなかった。
 それでは中段にとりのこされたケンとダビットと衰弱しているラツールを救うために、玉太郎は手もとにのこっていたロープをといて、下にたらしてみた。だがロープは短すぎて、その高さの半分もとどかなかった。
「ああ、こまった。どうすればいいだろう」
 四人の生命があやういのだ。玉太郎だけが自由をもっている。そして四人の生命があやういことを知っているのは、玉太郎だけであった。
「ぼくは責任重大だ。おちつかなくちゃ……」
 と、彼は自分の心をげきれいした。
 もうこうなれば、うしろへひきかえして隊員を呼んでくるほかない。玉太郎は、そこでケンたちとれんらくをとり地下道を急いで元来た方向へとってかえした。
「そうだ。多分、あの沼のところに、ツルガ博士とマルタン氏がいるはず……」
 地下道をついに抜け、崖をすべり下りて、沼の畔《ほとり》まで来た。
 と、彼はそこに、なんともわけの分らないきみょうな光景にお目にかかった。
 その沼畔《ぬまほとり》に、ツルガ博士親子が身体をぴったりよせあっている。そして小さい竪琴《たてごと》を、ぽろんぽろんとしずかに弾いているのだった。それはいいが、二人の前には、恐竜のおそろしい首があった。この恐竜は沼の中から首だけを出して、博士親子をひとのみにしようとしているらしく思われた。
 マルタン氏の姿が見えない。
 いや、いた。氏は博士親子がもたれている太い樹のうしろに、腰をぬかさんばかりにがたがたとふるえていた。紙のように白い顔、丸い頭といわず額といわずくびといわずふきだしている大粒の汗は、水をかぶったようであった。
 玉太郎は、気が遠くなりかけて、はっとわれにもどった。
 いったいこれはどうしたのか。


   奇蹟《きせき》の博士親子《はかせおやこ》


「うわーッ」
 玉太郎は、その場の光景に気絶《きぜつ》しそうになり、自分でもどうしてそんな声が出たかと思うほどのすごい金切《かなき》り声を発した。
 でも、誰だって、これを見れば、金切り声を出さずにはいられないだろう。だって、沼の中からぬっと恐竜が長い首をつきだして、もう一息でツルガ博士やネリをぱくりとのんでしまう姿勢をとっているのだった。
 そこへ玉太郎が金切声を発したものであるから、恐竜の耳にもとどいたと見え、恐竜はくるっと首を横にまげて
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