いこつ》だった。そしてそのまわりには丸い金貨がキラキラと輝いている。金貨は地面にもバラバラと散乱している。その側《そば》には一片のひきちぎれた建築図が落ちている。それは痣蟹の秘蔵《ひぞう》の図面《ずめん》に違いなかった。――それ等の凄惨《せいさん》な光景は、一つの懐中電灯でまざまざと照らし出されているのであった。
懐中電灯は静かに動く。――そして函の陰へ隠れている斃死者《へいししゃ》の顔面を照らし出す。まず、目につくのは、鋭い刃物で抉《えぐ》ったような咽喉部《いんこうぶ》の深い傷口――うん、やっぱりさっき口笛が聞えたとき、残虐《ざんぎゃく》きわまりなき吸血鬼が出たのだ。帽子は飛んでしまっているが、グッと剥《む》きだした白眼の下を覆う黒い覆面の布。おお、これは先刻《さっき》この地底へ下っていった黒影の人物だった。そして知っている人ならば、誰でもこれがいま都下《とか》に名高い覆面探偵青竜王だと云い当てたろう。ああ、青竜王は殺されたのだ。なぜこんな地底でムザムザと殺されてしまったのだろう。
「いいですか。この覆面を取ってみましょう」
闇の中から男の声がした。それは懐中電灯を持っている人物の声だろう。
光芒の中に、一本の腕がヌッと出てきた。それは屍体の覆面の方に伸び、黒い布を握った。ずるずると覆面は剥《は》がれていった。そして果然《かぜん》その下から生色を失った一つの顔が出て来た。ああ、その顔、その顔、蝋《ろう》のようなその顔の、その頬には醜《みにく》い蟹の形をした痣《あざ》が……
「おお、これは痣蟹仙斎《あぎがにせんさい》……」
なんということだ。覆面探偵というのは、痣蟹仙斎だったのか。しかし不思議だ。そんなことが有り得るだろうか。だがここに無惨なる最期《さいご》を遂《と》げているのは、正に兇賊《きょうぞく》痣蟹に違いなかった。
「貴女《あなた》は失踪中のポントスのことを云うが、しかし誰でも貴女の釈明を要求しますよ」
と懐中電灯の男はいう。どっかで聞いた声音《こわね》である。
「いいえ、あたしは犯人じゃありません。このジュリアは貴方の電話でうまく此処《ここ》へ誘《さそ》いだされたのです。陥穽《わな》です、恐ろしい陥穽なんです。ああ、あたし……」
と、よよと泣き崩れる声は、意外にも今を時めく、龍宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアに違いなかった。
それで解った。ここはパチノの墓穴なのだ。この深夜《しんや》、一体何ごとが起ったというのであろう。ジュリアを責《せ》める男は誰人《だれ》? そして地底に現われた吸血鬼は、そも何処に潜《ひそ》める?
生か死か、覆面探偵
帝都の暗黒界からは鬼神《きしん》のように恐れられている警視庁の大江山捜査課長は、その朝ひさかたぶりの快《こころよ》い目覚《めざ》めを迎《むか》えた。それは昨夜《ゆうべ》の静かな雨のせいだった。それとも痣蟹仙斎が空中葬《くうちゅうそう》になって既に四日を経《へ》、それで吸血鬼事件も片づくかと安心したせいだったかもしれない。――課長は寝衣《ねまき》のまま、縁側《えんがわ》に立ち出でた。
「――手を腰に膝を半ば曲げイ、足の運動から、用意――始めッ!」
ラジオが叫ぶ一《イチ》イ二《ニ》イ三《サン》ンの号令に合わせて、課長は巨体をブンブンと振って、ラジオ体操を始めた。彼は何とはなしに、子供のような楽しさと嬉しさとが肚《はら》の底からこみあげて来るのを感じた。
「よしッ! この元気でもって、帝都市民の生活を脅《おびや》かすあらゆる悪漢どもを一掃《いっそう》してやろう」
課長はその悪漢どもを叩きのめすような手附きで、オ一《イ》チ二《ニ》イと体操を続けていった。しかしその楽しさも永くは続かなかった。そこには大江山捜査課長の自信をドン底へつき落とすようなパチノ墓地《ぼち》の惨劇《さんげき》が控えていたのであった。昨夜《さくや》起ったそのパチノ墓地事件の知らせは、雁金検事からの電話となって、ジリジリと喧《やかま》しく鳴るベルが、課長のラジオ体操を無遠慮《ぶえんりょ》に中止させてしまった。
「お早ようございます。ええ、私は大江山ですが……」
「ああ、大江山君か」と向うでは雁金検事の叩きつけるような声がした。――御機嫌がよくないナ、「君の部下はみんな睡眠病に罹《かか》っているのかネ。もしそうなら、皆病院に入れちまって、憲兵隊の応援を申請《しんせい》しようと思うんだが……」
検事の言葉はいつに似合わず針のように鋭かった。
「え、え、一体どうしたのでしょうか。私はまだ何も知らないんですが……」
「知らない? 知らないで済むと思うかネ。すぐキャバレー・エトワールの地下に入ってパチノ墓地を検分《けんぶん》したまえ。その上でキャバレーの出入口を番をしていた警官たちを早速《さっそく》、伝染病研究所へ入院させるんだ。いいかネ」
ガチャリと、電話は切れてしまった。こんなに検事が怒った例を、大江山は過去に於《おい》て知らなかった。エトワールの張番がどうしたというのだろう。パチノ墓地というのは何のことだろう?
彼は狐に鼻をつままれたような気持で暫《しばら》くは呆然《ぼうぜん》としていたが、やがてハッと正気《しょうき》にかえって、急いで制服を身につけ短剣を下げると、門前に待たせてあった幌型《ほろがた》の自動車の中に転がりこむように飛び乗った。
「オイ大急ぎだ。銀座のキャバレー・エトワールへ。――十二分以上かかると、貴様も病院ゆきだぞ!」
運転手は何故そんなことを云われたのか解《げ》せなかったが、病院へ入れられては溜《たま》らないと思って、猛烈なスピードで車を飛ばした。
キャバレーには雁金検事が既に先着《せんちゃく》していて、埃《ほこり》の白く積ったソファに腰を下ろし、盛んに「朝日」の吸殻《すいがら》を製造していた。そして大江山課長が顔を出すと、
「ああ大江山君、悦《よろこ》んでいいよ。儂《わし》たちはまた夕刊新聞に書きたてられて一段と有名になるよ。全《まった》く君の怠慢《たいまん》のお陰だ」
鬼課長はこれに応える言葉を持っていなかった。それで現場検分《げんじょうけんぶん》を申出でた。検事は点《つ》けたばかりの煙草を灰皿の中へ捨てながら、「儂は君が検分するときの顔を見たいと思っていたよ」と喚《わめ》いたが、そこで急に声を落して、日頃の雁金検事らしい口調になり、「全く、君のために特別に作られた舞台のようなのだ。しかし先入主はあくまで排撃《はいげき》しなけりゃいかん」
妙なことを云われると思いつつ、課長は雁金検事の先に立って、地下の秘密の通路から、地底に下りていった。地底には無限の魅惑《みわく》ありというが、その魅惑がよもやこのさんざん検《しら》べあげたキャバレーの地底にあろうとは思いもつかなかったことであった。――崩れかかったような細い石造《せきぞう》の階段が尽《つ》きていよいよ例のパチノ墓穴に入ると、そこには急設《きゅうせつ》の電灯が、煌々《こうこう》と輝いて金貨散らばる洞窟《どうくつ》の隅から隅までを照らし、棺桶の中の骸骨《がいこつ》も昨夜《さくや》そのまま、それから虚空《こくう》を掴《つか》んで絶命《ぜつめい》している痣蟹仙斎の屍体もそのままだった。ただ昨夜《ゆうべ》の場面に比べると、竜宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアと、それに寄りそって懐中電灯を照らしていた疑問の男とが、居ないところが違っていた。
「やっぱりそうだ!」
と、大江山課長はその場へ飛びこむなり叫んだ。
「覆面探偵の青竜王は、やはり痣蟹だったのだ」と倒れている痣蟹仙斎の服装を指しながら「どうですか検事さん。覆面探偵が怪しいと申上げておいたことも、無駄ではなかったですネ」
「いいや、やっぱり無駄かも知れない。これは痣蟹の屍体とは認めるけれど、青竜王の屍体と認めるのにはまだ早い。……君のために作られたような舞台だといったのは、実はこれなのだ。つまり青竜王の覆面を取れば痣蟹であるという誤《あやまり》が起るように用意されてある。……」
「では検事さんは、これを見ても、痣蟹が青竜王に化けていたとは信じないのですか」
「それはもちろん信じる。しかし真の青竜王が痣蟹だったということとは別の問題だ」
といった検事は、痣蟹を青竜王とは信じない面持《おももち》だった。
「大江山君、その問題は後まわしとして、この痣蟹は、明らかに吸血鬼にやられているようだが、君はどう思うネ」
「ええ、確かに吸血鬼です。この抉《えぐ》りとられたような頸《くび》もとの傷、それから紫斑《しはん》が非常に薄いことからみても、恐ろしい吸血鬼の仕業《しわざ》に違いありません」
「すると、痣蟹が吸血鬼だという君のいつかの断定《だんてい》は撤回《てっかい》するのだネ」
捜査課長は検事の面《おもて》を黙って見詰めていたが、しばらくして顔を近づけ、
「おっしゃる通り、痣蟹が吸血鬼なら、こんな殺され方をする筈《はず》がありません。吸血鬼は外《ほか》の者だと思います」
「では撤回したネ。――すると本当の吸血鬼はどこに潜《ひそ》んでいるのだ。もちろん大江山君は、吸血鬼が覆面探偵・青竜王だとはいわないだろう」
「もちろんです。――実をいえば、私は最初吸血鬼は痣蟹に違いないと思い、次に青竜王かも知れぬと思ったんですが、両方とも違うことが分りました。外に怪《あや》しいと睨んでいるのは、最初の犠牲者四郎少年の兄だと名乗る、西一郎だけになるのですが……」と、其処《そこ》まで云った課長は急に口を噤《つぐ》んで、あたりを見廻わした。それは冒険小説に出てくる孤島《ことう》の洞窟のような実に異様な光景だった。「このパチノ墓地とかが飛び出して来たのでは、見当もなにもつかなくなりましたよ。一体これはどうしたことですかな」
そこで雁金検事は、パチノ墓地について、既に記《しる》したとおりの伝奇的《でんきてき》な物語をして聞かせ、「つまりパチノは皇帝の命令をうけ、莫大《ばくだい》な財宝《ざいほう》を携《たずさ》えて、日本へ遠征してきたが、志《こころざし》半《なか》ばにして不幸な死を遂《と》げたというわけさ」
大江山課長は、あまりにも奇異なパチノ墓地の物語に、しばらくは耳を疑《うたが》ったほどだったが、彼の足許《あしもと》に転《ころ》がっている骸骨や金貨を見ると、それがハッキリ現実のことだと嚥《の》みこめた。
「その物語にある莫大な財産というのは、僅かこればかりの滾《こぼ》れ残ったような金貨だの宝石なのでしょうか」
と大江山課長は不審《ふしん》げに云った。
「そうだ、儂が来たときから、この通り荒らされているのだが、もちろん既に何者かが財宝を他へ移したのに違いない。そいつは吸血鬼か、それとも痣蟹の先生だかの、どっちかだろう」
「イヤまだ重大な嫌疑者《けんぎしゃ》があります」と大江山は叫んだ。
「誰のことかネ」
「それはこのキャバレーの主人オトー・ポントスです。あいつがやっていたのでしょう」
「ポントスはどこかに殺されているのじゃないか。いつか部屋に血が流れていたじゃないかネ」
「そうでした。でも私はあのときから別のことを考えていました。それが今ハッキリと思い当ったんですが、ポントスは殺されたように見せかけ、実はこの莫大な財産とともに何処かへ逐電《ちくでん》してしまったのじゃないでしょうか。悪い奴《やつ》のよくやる手ですよ」
「そういう説もあるにはあるネ」
と雁金検事は、冷《ひや》やかに云った。大江山は検事の反対らしい面持を眺めていたが、
「――それで検事さんは、この事件をどうして知られたのですか。それから今お話のパチノ墓地の物語などを……」
検事はそれを訊《き》かれるとニヤリと笑《え》みを浮べ、「それは今朝がた、もう死んだものと君が思っている青竜王が邸《やしき》へやって来て、詳《くわ》しい話をしていったよ」
「なんですって、アノ青竜王が……」
大江山は検事の言葉が信じられないという面持だった。青竜王すなわち痣蟹は、そこに死んでいるではないか。
「そうだよ。彼は昨夜《さく
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