囲《かこ》んでしまうのだ。それ、懸れッ」
 大江山課長は鮮《あざ》やかに号令を下した。が、そのとき塔の向うにフラフラ動いていた竜宮劇場専用の広告気球の綱が妙にブルブルと震《ふる》えたかと思うと、塔の上に痣蟹の姿が見えたと思う間もなく、彼の身体はスルスルと宙に上っていった。
「呀《あ》ッ。痣蟹が気球の綱を切ったぞオ」
 と誰かが叫んだが、もう遅かった。華《はなや》かな気球はみるみる虚空《こくう》にグングン舞いのぼり、それにぶら下る痣蟹の黒い姿はドンドン小さくなっていった。
「うん、生意気《なまいき》なことをやり居《お》った哩《わい》」と大江山捜査課長は天の一角を睨《にら》んでいたが「よオし、誰か羽田航空港《はねだこうくうこう》に電話をして、すぐに飛行機であの気球を追駈けさせろッ」と命令した。
 一同はいつまでも空を見上げていた。
 航空港からは、直ちに速力の速い旅客機と上昇力に富んだ練習機とが飛び上って、気球捜査に向ったという報告があった。それを聞いて一同は、広告気球の消え去った方角の空と羽田の空とを等分《とうぶん》に眺《なが》めながら、いつまでも立ちつくしていた。
 大江山課長は、傍《かたわら》を向いて、誰にいうともなく独《ひと》り言《ごと》をいった。
「覆面探偵がたしかに来て居ると思ったのに一向に見つからず、その代りに痣蟹を見つけたが、また取逃がしてしまった。この上はあすこで見掛けた西一郎を引張ってゆくことにしよう」
 しかし課長が下に下りたときには、その西一郎の姿もなくなっていた。


   パチノ墓穴《ぼけつ》の惨劇《さんげき》


 夜の幕が、帝都をすっかり包んでしまった頃、羽田航空港から本庁あてに報告が到着した。
「竜宮劇場の広告気球を探しましたが、生憎《あいにく》出発が遅かったので、三千メートルの高空まで昇ってみましたが、遂《つい》に見つかりませんでした。そのうちに薄暗《うすやみ》になって、すっかり視界を遮《さえぎ》られてしまったのでやむなく下りてきました。まことに遺憾《いかん》です」
 捜査本部に於《おい》ても、それはたいへん遺憾なことであった。せっかく屋上に追いつめた痣蟹を逃がしてしまったことは惜《お》しかった。しかしいくら不死身《ふじみ》の痣蟹でも、そんな高空に吹きとばされてしまったのでは、とても無事に生還することは覚束《おぼつか》なかろうと思われた。結局《けっきょく》それが痣蟹の空中葬であったろうという者も出て来たので、本部はすこし明るくなった。
「吸血鬼事件も、これでお仕舞《しま》いになるでしょうな。どうも訳が分らないうちにお仕舞いになって、すこし惜しい気もするけれど」
 それを聞いていた大江山捜査課長は、奮然《ふんぜん》として卓《テーブル》を叩いた。
「吸血鬼事件が片づいても、まだ片づかぬものが沢山ある。帝都の安寧《あんねい》秩序《ちつじょ》を保《たも》つために、この際やるところまで極《きま》りをつけるのだ。ここで安心してしまう者があったら、承知しないぞ」
 一座はその怒声《どせい》にシーンとなった。
 それから大江山課長は経験で叩きあげたキビキビさでもって、捜査すべき当面の問題を一々数えあげたのだった。
「第一に、生死《せいし》のほども確かでないキャバレー・エトワールの主人オトー・ポントスを探しだすこと。第二に、痣蟹の乗って逃げた竜宮劇場の気球がどこかに墜《お》ちてくる筈だから、全国に手配して注意させること。それと同時に痣蟹の屍体《したい》が、気球と一緒に墜ちているか、それともその近所に墜ちているかもしれぬから注意すること。但《ただ》し従来《じゅうらい》の経験によると四十八時間後には、気球は自然に降下してくるものであること。第三に、覆面探偵を見かけたらすぐ課長に報告すること。以上のことを行うについて、次のような人員配置にする。――」
 といってその担当主任や係を指名した。一同は何《なん》でも彼《か》でも、それを突きとめて、課長の賞讃《しょうさん》にあずかりたいものと考えた。
 そんな物騒《ぶっそう》な話が我が身の上に懸けられているとも知らぬ覆面探偵青竜王は、竜宮劇場屋上の捕物《とりもの》をよそに、部下の勇少年と電話で話をしていた。
「それで勇君が、ポントスの部屋の隠《かく》し戸棚《とだな》から発見した古文書《こもんじょ》というのはどんなものだネ」
「僕には判《わか》らない外国の文字ばかりで、仕方がないから大辻さんに見せると、これがギリシャ語だというのです。大辻さんは昔勉強したことがあるそうで、辞書をひきながらやっと読んでくれましたが、こういうことが書いてあるそうですよ。――明治二年『ギリシャ』人『パチノ』ハ十人ノ部下ト共ニ東京ニ来航シテ居ヲ構エシガ、翌三年或ル疫病ノタメ部下ハ相ツギテ死シ今ハ『パチノ』独リトナリタレドモ、『パチノ』マタ病ミ、命数ナキヲ知リ自ラ特製ノ棺ヲ造リテ土中ニ下リテ死ス――それからもう一つの文書《ぶんしょ》は比較的新らしいものですが、これには――『パチノ』ノ墓穴ハ頻々《ヒンピン》タル火災ト時代ノ推移ノタメニ詳《ツマビラ》カナラザルニ至リ、唯《タダ》『ギンザ』トイウ地名ヲ残スノミトハナレリ。マタ『パチノ』ガ『オスミ』と称スル日本婦人ト契リシガ、彼女ハ災害ニテ死シ、両人ノ間ニ生レタル一子(姓不詳)ハ生死不明トナリタリ。ソレト共ニ『パチノ』ノ墓穴ニ関スル重要書類ハ紛失シ、只本国ヘ送リタル二三ノ通信ト『パチノ』ノ墓穴|廓内《カクナイ》ノ建築図トヲ残スノミナリ――というのです。聞いてますか、青竜王《せんせい》」
「イヤ熱心に聴いているよ。それで分った。キャバレーの主人ポントスも、本国からそのパチノの墓穴探しに来ているのだ。その一方《いっぽう》、痣蟹もたまたまこの秘密を嗅《か》ぎだして、本国で墓穴の建築図などを手に入れ、日本へ帰って来たのだ。すべての秘密はそのパチノ墓穴に秘められているのだよ。パチノ墓穴の場所については、いささか存《ぞん》じよりがあるが、しかしパチノの遺族を捜し出すのはちょっと骨が折れるネ。しかし何事《なにごと》も墓穴の中に在ると思うよ。では勇君、――」
「待って下さい。青竜王《せんせい》はいま何処《どこ》にいるのです。これから何処へ行くのですか」
「僕のことなら、決して心配しないがいいよ。――」
 そういって青竜王は受話器をかけた。心配でたまらない勇少年は、電話局に問いあわせると、なんと不思議なことに、青竜王のかけた電話は、やはり竜宮劇場の中のものだった。彼は一体どこに姿を秘めているのだろう。
 それから空しく二日の日が過ぎた。
 事件は一向思うように解決しなかったが、その代り、新たな吸血鬼事件も起らなかった。とうとう吸血鬼は滅《ほろ》んだのであろうか。
 詳《くわ》しく云うと七日の午後になって、痣蟹の乗って逃げた気球が、箱根《はこね》の山林中に落ちているのが発見された。しかし変なことに、その気球は枯れ葉の下から発見されたのであった。そして問題の痣蟹の死体はどこにも見当らなかったという。――この報告に管下の警察は一斉に痣蟹の屍体発見に活動を開始した。
 同じくその夜のことであった。赤星ジュリアの楽屋に西一郎が来合せているとき、どこからともなく電話がジュリアの許に懸ってきた。電話口へ出てみると、相手は覆面探偵の青竜王だといった。
「青竜王ですって。まあ、あたくしに何の御用ですの」とジュリアは訝《いぶか》った。
 すると電話の声は、痣蟹の気球が発見されたが、屍体の見当らないこと、それから夕暮に箱根の山下である湯元《ゆもと》附近の河原《かわら》で痣蟹らしい男が水を飲んでいるのを見かけた者のあること、そして念のために後から河原へ行ってみると、紙片《かみきれ》が落ちていて、開いてみると血書《けっしょ》でもって「パチノ墓穴を征服」としたためてあったことを知らせた。
「パチノの墓穴を征服ですって」とジュリアはひどく愕《おどろ》いたらしく思わず声を高らげて問いかえした。
 電話の声は、そうです、なんのことか分らないが、確かにパチノと書いてありますよ、と返辞《へんじ》をして、その電話を切った。ジュリアは倒れるように、安楽椅子《あんらくいす》に身を投げかけた。
 西一郎は、電話の終るのを待ちかねていたように、ジュリアに云った。
「青竜王本人が電話をかけて来たんですか」
「ええ、そうよ。――なぜ……」
「はッはッ、なんでもありませんけれど」
 そういった一郎の態度には、明《あきら》かに動揺の色が見えたが、ジュリアは気がつかないようであった。
 青竜王の懸けた電話とは違って、本庁の方へは深更《しんこう》に及んでも「痣蟹ノ屍体ハ依然トシテ見当ラズ、マタ管下《カンカ》ニ痣蟹ラシキ人物ノ徘徊《ハイカイ》セルヲ発見セズ」という報告が入ってくるばかりで、大江山課長の癇癪《かんしゃく》の筋《すじ》を刺戟するに役立つばかりだった。
 その真夜中《まよなか》、時計が丁度《ちょうど》十二時をうつと間もなく、今は営業をやめて住む人もなく化物屋敷《ばけものやしき》のようになってしまったキャバレー・エトワールの地下室の方角にギーイと、堅《かた》い物の軋《きし》るような物音が聞えた。エトワールの表と裏とには、制服の警官が張りこんでいるのだったけれど、この地底の小さい怪音《かいおん》は、彼等の耳に達するには余りに微《かす》かであった。一体《いったい》誰がその怪《あや》しい音をたてたのだろう。
 このとき若《も》し地下室を覗《のぞ》いていた者があったとしたら、隅《すみ》に積《つ》んだ空樽《あきだる》の山がすこし変に捩《ね》じれているのに気がついたであろう。いやもっと気をつけて見るなれば、その空樽を支《ささ》えた壁体《へきたい》の隅が縦《たて》に裂《さ》けて、その割れ目に一つの黒影が滑《すべ》りこんだのを認めることができたであろう。
 そこは隠されたる秘密階段で、さらにまた深い地底へ続いていた。用心ぶかくソロソロと降りてゆく黒影の人物の手は休みなしに懐中電灯の光芒《こうぼう》の周囲《まわり》の壁体を照らしていた。そのうちにどうした拍子《ひょうし》かその反射光《はんしゃこう》でもって顔面《がんめん》がパッと照らしだされたが、それを見ると、この黒影の人物は、かなりがっちりした骨組《ほねぐみ》の巨人で、眼から下を黒い布《ぬの》でスッポリと覆い、頭には帽子の鍔《つば》を深く下げていた。覆面の怪漢――そういえば、これは例の問題男の青竜王と寸分ちがわぬ服装をつけていた。おお、いよいよ青竜王が乗りこんで来たのであろうか。
 彼は静かに階段を下りていった。下はかなり広いらしい。江戸時代の隠《かく》し蔵《ぐら》というのはこんな構造ではなかったか。――下では何をしているのか、ときどきゴトリゴトリという物音が聞えるばかりで、いつまで経《た》っても彼は出てこなかった。恐ろしい静寂《せいじゃく》、恐ろしい地底の一刻!
 そのとき、どこかで微かに口笛の音がしたと思った。それは気のせいだったかも知れないと人は疑《うたが》ったろう。しかしそれは確かに口笛に違いなかった。次第に明瞭《めいりょう》になる旋律《メロディ》。ああそれは赤星ジュリアの得意な「赤い苺の実」の旋律――しかしこの場合、なんという恐ろしい口笛であったろう。暗い壁が魔物のように、かの怪しい旋律を伴奏した。……と、突如――まったく突如として、魂切《たまぎ》るような悲鳴が地底から響いて来た。
「きゃーッ、う、う、う……」
 しかし、それきりだった。悲鳴は一度きりで、再び聞えてこなかった。
 戦慄《せんりつ》すべき惨劇が、その地底で行われたのだった。その現場《げんじょう》へ行ってみよう。
 これはまた何という無惨なことだ。――そこはもう行《ゆ》き止《どま》りらしい地底の小室《こべや》だった。一人の男が、虚空《こくう》をつかんでのけ反《ぞ》るように斃《たお》れている。その傍には大きな箱が抛《ほう》り出してある。蓋を明け放しだ。中から白いものがチラと覗いているが、よく見れば気味の悪い骸骨《が
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