恐怖の口笛
海野十三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)逢《お》う魔《ま》が時刻《とき》
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(例)東京|丸《まる》ノ内《うち》の
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(例)たちまち※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と
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逢《お》う魔《ま》が時刻《とき》
秋も十一月に入って、お天気はようやく崩《くず》れはじめた。今日も入日《いりひ》は姿を見せず、灰色の雲の垂《た》れ幕《まく》の向う側をしのびやかに落ちてゆくのであった。時折サラサラと吹いてくる風の音にも、どこかに吹雪《ふぶき》の小さな叫び声が交《まじ》っているように思われた。
いま東京|丸《まる》ノ内《うち》のオアシス、日比谷《ひびや》公園の中にも、黄昏《たそがれ》の色がだんだんと濃くなってきた。秋の黄昏れ時《どき》は、なぜこのように淋しいのであろう。イヤ時には、ふッと恐ろしくなることさえある。云い伝えによると、街の辻角《つじかど》や林の小径《こみち》で魔物に逢うのも、この黄昏れ時だといわれる。
このとき公園の小径に、一人の怪しい行人《こうじん》が現れた。怪しいといったのはその風体《ふうてい》ではない。彼はキチンとした背広服を身につけ、型のいい中折帽子を被り、細身の洋杖《ケーン》を握っていた。どうみても、寸分の隙のない風采《ふうさい》で、なんとなく貴族出の人のように思われるのだった。しかし、その上品な風采に似ずその青年はまるで落付きがなかった。二三歩いってはキョロキョロ前後を見廻わし、また二三歩いっては耳を傾け、それからまたすこし行っては洋杖《ケーン》でもって笹の根もとを突いてみたりするのであった。
「どうも分らない」
青年は小径の別れ道のところに立ち停ると吐きだすように呟《つぶや》いた。そして帽子をとり、額の汗を白いハンカチーフで拭った。青年の白皙《はくせき》な、女にしたいほど目鼻だちの整った顔が現れたが、その眉宇《びう》の間には、隠しきれない大きな心配ごとのあるのが物語られていた。――彼はさっきから、懸命になって、何ものかを探し求めて歩いていたらしい。
「どうして、こんなに胸騒ぎがするのだろう」
青年は心の落付きをとりかえすためであろうか、ポケットから一本の紙巻煙草《シガレット》をとりだすと口に銜《くわ》えた。マッチの火がシューッと鳴って、青年の頤《あご》のあたりを黄色く照らした。夕闇の色がだんだん濃くなってきたのだった。
いま青年の立っているところは、有名な鶴の噴水のある池のところから、洋風の花壇の裏に抜けてゆく途中にある深い繁みであった。小径の両側には、人間の背よりも高い笹藪《ささやぶ》がつづいていて、ところどころに小さな丘があり、そこには八手《やつで》や五月躑躅《さつき》が密生していて、隠れん坊にはこの上ない場所だったけれど、まるで谷間に下りたような気持のするところだった。――青年は何ともしれぬ恐怖に襲われ、ブルブルッと身を慄《ふる》わせた。気がつくと、銜えていた紙巻煙草《シガレット》の火が、いつの間にか消えていた。
そのとき、何処からともなくヒューッ、ヒューッ、と妖《あや》しき口笛が響いてきた。無人境《むにんきょう》に聞く口笛――それは懐《なつか》しくなければならない筈のものだったけれど、なぜか青年の心を脅《おびや》かすばかりに役立った。聞くともなしに聞いていると、なんのことだ、それは彼にも聞き覚えのある旋律《メロディ》であったではないか。それはいま小学生でも知っている「赤い苺《いちご》の実」の歌だった。この日比谷公園から程とおからぬ丸ノ内の竜宮劇場《りゅうぐうげきじょう》では、レビュウ「赤い苺《いちご》の実」を三ヶ月間も続演しているほどだった。それは一座のプリ・マドンナ赤星《あかぼし》ジュリアが歌うかのレビュウの主題歌だった。
「誰だろう?」
青年は耳を欹《そばだ》てて、その口笛のする方を窺《うかが》った。それは繁みの向う側で吹きならしているものらしいことが分った。
「……あたしの大好きな
真紅《まっか》な苺《いちご》の実
いずくにあるのでしょ
いま――
欲しいのですけれど」
青年は心配ごとも忘れて、その美しい旋律《メロディ》の口笛に聞き惚れた。まるでローレライのように魅惑的な旋律だった、そして思わず彼も、「赤い苺の実」の歌詞を口笛に合わせて口吟《くちずさ》んだのであった。……しかし、やがて、その歌の中の恐ろしい暗示に富んだ歌詞に突き当った。
「……別れの冬木立《ふゆこだち》
遺品《かたみ》にちょうだいな
あなたの心臓を
ええ――
あたしは吸血鬼……」
赤い苺の実というのは、実は人間の心臓のことだと歌っているのである。ああ、あたしは吸血鬼!
青年紳士はハッと吾れにかえった。賑《にぎ》やかな竜宮劇場の客席で聞けば、赤星ジュリアの歌うこの歌も、薔薇《ばら》の花のように艶《あで》やかに響くこの歌詞ではあったけれど、ここは場所が場所だった。黄昏の微光にサラサラと笹の葉が鳴っている藪蔭である。青年はその背筋が氷のようにゾッと冷たくなるのを感じた。
と、――
その刹那《せつな》の出来ごとだった。
キ、キャーッ。
突如、絹を裂くような悲鳴《ひめい》一声《いっせい》!
「呀《あ》ッ、――」
それを聞くと青年紳士は、その場に棒立ちになった。悲鳴の起った場所は、いままで口笛のしていたところと同じ方向だった。大変なことが起ったらしい。青年紳士の顔色は真青《まっさお》になった。
彼は突然身を躍らせると、柵を越えて笹藪の中に飛びこんだ。ガサガサと藪をかきわけてゆく彼の姿が見られたが、暫《しばら》くするとそのまま引返して来た。そしてまた小径に出て、こんどはドンドン駈けだした。どうやら竹藪の中は行き停りだったらしい。口笛はまだ微《かす》かに鳴っている。
随分遠まわりをして、彼はやっと口笛のしていた場所へ出ることが出来た。それは悲鳴を聞いてから四五分ほど経ってのちのことだった。
「……?」
さて此処ぞと思う場所に出たことは出たけれど、そこには葉のよく繁った五月躑躅《さつき》がムクムクと両側に生えているばかりで、小径はいたずらに白く続き、肝腎《かんじん》の人影はどこにも見当らなかった。彼はなんだか夢をみていたのではあるまいかという気がした。
しかし彼は確かに悲鳴を自分の耳底に聞いたのだった。そして悲鳴などは、いまの彼として聞いてはならぬものだった。なぜならこの青年紳士は、先刻《さっき》から一人の肉親の弟を探しまわっているのであったから。
なぜこの紳士は、弟を探廻《さがしまわ》らなければならなかったか? それは後に判ることとして、今作者は、この場を語るにもっと急であらねばならないのだ。
彼はすこし気が落ちついたのであろうか、こんどはしっかりした態度に帰って、あたりを熱心に探しだした。ここの繁み、かしこの繁みと探してゆくうちに、とうとう彼は一番こんもりと繁った五月躑躅の蔭に、悲しむべき目的物を探しあてたのだった。それは小径の方に向いてヌッと伸びている靴を履いた一本の足だった。
「おお、――」
青年紳士は、その場に化石のようになって、突立《つった》った。
二重《にじゅう》の致命傷《ちめいしょう》
青年紳士は暫くしてから気を取り直すと、静かに芝草の中へ足を踏みいれた。そして屍体《したい》の方に近づいて、その青白い死顔を覗《のぞ》きこんだ。
「おお、四郎……」
と、彼は腸《はらわた》からふり絞るような声で、愛弟《あいてい》の生前《せいぜん》の名を呼んだ。
ああ、何という無惨!
五月躑躅《さつき》の葉蔭に、学生服の少年が咽喉《のど》から胸許《むなもと》にかけ真紅《まっか》な血を浴びて仰向《おあむ》けに仆《たお》れていた。青年は芝草の上に膝を折って、少年の脈搏を調べ、瞼《まぶた》を開いて瞳孔《どうこう》を見たが、もう全く事切れていた。そして身体がグングン冷却してゆくのが分った。
兄は悲しげにハラハラと落涙《らくるい》した。
「死んでいる。……四郎、お前は誰に殺されたのだ」
屍体は肉親の兄|西一郎《にしいちろう》にめぐりあい、おのれを屠《ほふ》った恨深い殺人者について訴えたいように見えたが屍体はもう一と口も返事することができなかった。
兄の一郎は涙を拭うと、血にまみれた屍体を覗きこんだ。そのとき彼は屍体の頤《あご》のすぐ下のところに深い、溝《みぞ》ができているのを発見した。よく見ると、その溝の中には細い鋼《はがね》の針金らしいものが覗いていた。
「おや、これは不思議だ。絞殺されたのかしら」と一郎は目を瞠《みは》った。「それにしても、胸許を染めている鮮血《せんけつ》はどうしたというのだろう」
絞殺に鮮血が噴《ふ》きでるというのは可笑《おか》しかった。なにかこれは別の傷口がなければならない。一郎は愛弟四郎の屍体に顔を近づけた。そして注意ぶかく、屍体の頭に手をかけると首をすこし曲げてみた。
「ああ、これは……」
屍体の咽喉部は、真紅な血糊《ちのり》でもって一面に惨《むご》たらしく彩《いろど》られていたが、そのとき頸部《けいぶ》の左側に、突然パックリと一寸ばかりの傷口が開いた。それは何で傷《きずつ》けたものか、ひどく肉が裂けていた。その傷口からは、待ちうけていたように、また新しい血潮がドクドクと湧きだした。一郎はハッと屍体から手を離した。血潮は頸部を伝わって、スーッと走り落ちた。――何者かが頸動脈《けいどうみゃく》を切り裂いたのに違いなかった。
「なんという惨たらしい殺し方だ。頸を締めたうえに、頸動脈まで切り裂くとは……」
だが、これは随分御丁寧な殺し方である。それほど四郎は、人の恨《うら》みを買っていたのだろうか。いやそんな筈はない。誰にも好かれる彼に、そんな惨酷な手を加える者はない筈《はず》だった。――一郎は、不審にたえない面持で、もう一度|創傷《きりきず》を覗きこんだ。その結果、彼は屍体の頸部に恐ろしいものを発見した。恐ろしい人間の歯の痕《あと》を!
それは傷口に近い皮膚のうえに残っている深い歯の痕だった。一つ、二つ、三つと、三ヶ所についていた。もう一つの歯痕は見えなかった代りに、当然そこに歯痕のあるべき皮膚面が抉《えぐ》ったように切れこんでいた。恐らく上顎の糸切歯《いときりば》がここに喰いこんで、四郎少年の皮膚と肉とを破り、頸動脈をさえ喰い切ったのであろう。ああ、何者の仕業であろう。人間を傷つけるに兇器《きょうき》にこと欠《か》いたのかはしらぬが、歯をもって咬《か》み殺すとは何ごとであるか。まるで獣《けもの》のような殺し方である。大都会の真中にこんな恐ろしい獣人《じゅうじん》が出没《しゅつぼつ》するとは有り得ることだろうか。一郎は自分の眼を疑った。
「憎《にく》い奴、非道《ひど》い奴!――こんなむごたらしい殺し方をしたのは、何処の何者だッ」
このとき一郎は、さっき聞くともなしに聞いた口笛のことを思い出した。その口笛が弟の惨殺事件になにか関係のあるだろうということは、もっと早く思い浮べなければならなかったのだけれど、彼はあまりに悲しい場面に直面して、ちょっと忘れていたのであろう。
「そうだ、あの口笛は誰が吹いていたのだろう?」
「赤い苺の実」の歌――それは、ひょっとすると、殺された弟が吹いていたのかも知れないと思った。
「イヤ弟ではない――」
あの怪しい口笛は、弟の発したらしいキャーッという悲鳴の前にも聞えていたが、それからのち彼が繁みの小径を探そうとして一生懸命になっているときにも、どこからともなく耳にしたではないか。殺された人間が口笛を吹くはずがない。――では口笛を吹いていたのは何者だ。
「ウム、その口笛の主が、弟を殺した獣人に違いない!」
そうだ、あの「赤
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