い苺の実」の歌というのは実は「吸血鬼」の歌なのだ。第五節目の歌詞には「あなたの心臓をちょうだいな、あたしは吸血鬼」といったような文句があるではないか。竜宮劇場の舞台から艶《あで》やかな赤星ジュリアの歌を聴いているような気持で、あの悲鳴入りの口笛を聴き過ごすことはできない。吸血鬼の歌を口笛に吹いた奴が、あの殺人者に違いあるまい。ひょっとすると、あの妖しい歌に誘われ、蝙蝠《こうもり》のような翅《はね》の生えた本物の吸血鬼がこの黄昏の中に現われて、その長い吸盤《きゅうばん》のような尖《とが》った唇でもって、愛弟の血をチュウチュウと吸ったのではあるまいかと思った。とにかく悲鳴がしてから四五分経って駈けつけたのだから、まだその附近に、恐ろしい吸血鬼がひそんでいるかも知れない。
「よオし。愚図愚図《ぐずぐず》していないで、その吸血鬼を捉《とら》えてやらねばならん」
 西一郎は咄嗟《とっさ》に決心を固めた。そして彼は身を起すと、芝草を踏んで、小径の方へ駈けだした。
「こーら、出てこい。人殺し奴《め》、出てこい。……」
 彼は阿修羅《あしゅら》のようになって、ここの繁み、かしこの藪蔭に躍り入った。彼の上品な洋袴《ズボン》はところどころ裂け、洋杖《ケーン》を握る拳《こぶし》には掻《か》き傷《きず》ができて血が流れだしたけれど、一郎はまるでそれを意に留めないように見えた。
 公園の東の隅には、元の見附跡《みつけあと》らしい背の高い古い石垣が聳《そび》えていた。ここはあまりに陰気くさいので、いかに物好きな散歩者たちも近よるものがなかった。一郎は前後の見境《みさかい》もなく、石垣の横手から匍《は》いこんだ。そこには大きな蕗《ふき》の葉が生《は》え繁《しげ》っていたが、彼が猛然とその葉の中に躍りこんだとき、思いがけなくグニャリと気味のわるいものを踏みつけた。
「呀《あ》ッ――」
 と、彼は其の場に三尺ほど飛び上った。
 だが彼は、その叫び声に続いて、もう一つの驚きの声を発しなければならなかった。なぜなら、その密生した蕗の葉の中から、イキナリ一人の男が飛びだしたからであった。一郎が踏みつけたのは、その葉かげに寝ていたかの男の脚だったにちがいない。
「……」
 一郎は、呼吸《いき》をはずませて、相手の方を睨《にら》んだ。ああ、それは何という恐ろしい顔の男であったろう。背丈はあまり高くないが、肩幅の広いガッチリした体躯の持ち主だった。そして黝《くろ》ずんだ変な洋服を着ていた。その幅広の肩の上には、めりこんだような巨大な首が載っていた。頭髪は蓬《よもぎ》のように乱れ、顔の色は赭黒《あかぐろ》かった。しかしなによりも一郎の魂を奪ったものは、その男の赭顔の半面にチラと見えた恐ろしく大きな痣《あざ》であった。
「待て――」
 一郎は相手を見てとると、勇敢に突進していった。痣のある男はヒラリと身体をかわして逃げだした。
「オイ、待たないか――」
 その怪人は、はたして弟四郎を殺した彼の恐るべき吸血鬼であるのかどうかハッキリ分らない。しかし折も折、この夕暗《ゆうやみ》どきに人も通らぬ石垣裏の蕗の葉の下に寝ているとは、たしかに怪しい人物に違いなかった。追いついて、組打ちをやるばかりである。
 怪人は物を云わず、ドンドンと逃げだした。その行動の敏《すばや》いことといったら、どうも人間業とは思えなかった。高い石垣を見上げたと思うと、ヒョイと長い手を伸ばして、バネ仕掛けのように飛び越えた。まるで飛行機が曲芸飛行をしているような有様だった。一郎がようやく石垣を攀《よ》じのぼって、下の池の方を見下《みお》ろすと、かの怪人はもう池の向う岸にいた。池の水面には小さなモーターボートでも通ったように、二条の波紋が長くあとを引いていた。どうして彼が池を渉《わた》り越えたのやら分らなかった。
 一郎は池を大迂回しなければならなかった。しかし一郎の予想は当って、怪人はドンドン西の方に逃げてゆく。そっちの方には弟の惨殺屍体の転がっている竹藪があった。だから怪人はきっとその辺へ潜りこむつもりだろう。そうなれば怪人の正体もハッキリして来るというものだ。
「誰か、手を借して呉れーッ」
 一郎は声をかぎりに叫ぼうとしたが、咽喉がカラカラに乾いて、皺枯《しわが》れた弱い声しか出なかった。そのうちに怪人は、弟の死霊《しりょう》に惹《ひ》きよせられるもののように、問題の藪だたみの方に足を向けると、ガサガサと繁みを分けて姿を消してしまった。それを見て一郎はムラムラと復讐心の燃えあがってくるのを感ぜずにはいられなかった。
 彼は急に進路を曲げた。それは抜け道をして、弟の屍体の転がっている裏の方の繁みの中からワッと躍りでるつもりだった。それは怪人の不意を打つことになって、たいへん有利だと思ったからだった。
 間もなく一郎は、目的の繁みに出た。それは灌木の欝蒼《うっそう》とした繁みで、足の踏み入れるところもないほどだった。彼は下枝を静かにかきわけながら前進した。もう屍体のある場所は間近《まぢ》かの筈だった。
「うん、あすこだ」
 繁みの葉の間からは、向うに丸い芝地が見えた。近くに電灯がついているらしく、黄色く照し出されていた。その真中には、紛《まぎ》れもなく、力なく投げだされた青白い弟の腕が伸びていた。
 すると、そのときだった。奇怪なことにも、その屍体の腕が生き物のようにスルスルと芝草の上を滑《すべ》りだした。あの大傷を受けた弟が生きかえったのであろうか。いや絶対にそんなことがありよう筈がない。すると――
「あの怪人めが屍体にたかって、また破廉恥《はれんち》なことをやっているのだな。よオし、どうするか、いまに見ていろ!」
 彼の全身は争闘心に燃えた。こうなってはもう誰の救いも要らない。愛する弟のために、この一身を投げだして、力一杯相手の胸許にぶつかるのだッ。
「さあ来いッ」
 彼は一チ二イ三ンの掛け声もろとも、エイッと繁みの中から芝草の上へ躍りだした。
「さあ来いッ――」
 ……と躍りだしてはみたが、そこには思いもよらず――
「アレーッ」
 という若い女の悲鳴があった。
「おお、貴女《あなた》は……」
 一郎はあまりの意外に、棒のように突立ったまま、言葉も頓《とみ》には出なかった。意外とも意外、その芝草の上に立っていたのは誰あろう、いま都下第一の人気もの、竜宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアその人だったからである。


   裂《さ》かれた日記帳


「あら、驚いた。……まア、どうなすったの、そんなところから現われて……」
 ジュリアは唇の間から、美しい歯並を見せて叫んだ。
 しかし彼女は、それほど驚いているという風にも見えなかった。それが舞台度胸というのであろうか。高いところから得意の独唱をするときのように、黒いガウンに包まれたしなやかな腕を折り曲げ、その下に長く裾を引いている真赤な夜会着のふっくらした腰のあたりに挙げ、そしてまじまじと一郎の顔を眺めいった。
「僕よりも、赤星ジュリアさんが、どうしてこんなところに現われたんです」
 と、一郎は屍体に何か変ったことでもありはしないかと点検しながら訊《たず》ねた。
「あら、あたくしを御存知なのネ。まあ、どうしましょう」とジュリアは軽く駭《おどろ》いた身振りをして「あたくしは、いま劇場の昼の部と夜の部との間で、丁度身体が明いているのよ。一日中であたくしはそのときがいちばん楽しいの。……で、ドライヴしていたんですわ、ホラごらん遊ばせ、ここから見えるでしょう、あたくしの自動車《くるま》が……」
 なるほどジュリアの指《ゆびさ》す方に、一台の自動車が、小径を出たところに停っていて、座席には彼女の連れらしい、ずっと年の若い少女が乗っていた。それはジュリアの妹分にあたる矢走千鳥《やばせちどり》という踊り子であったけれど。
「貴女は自動車でここを通りかかったというのですか。よくこれが分りましたネ。……」
 と弟の死骸を指した。
「ええ、それは誰かが叫んでいたからですわ。なにごとか大事件が起ったような叫び声でしたわ。だもんで、自動車を停めて、ここまで来てみると、この有様なんですのよ。貴方《あなた》、たいへんだわ。この学生さん、死んでいましてよ」
「そうです。死んでいるというよりも、殺されているといった方がいいのです。これは僕の本当の弟なのです」
「ええ、なんですって。貴方がこの方の兄さんだと仰有《おっしゃ》るのですか」
「そのとおりです。僕は四郎の兄の一郎なんです」
「アラマアあたくし、どうしましょう」とジュリアは美しい眉《まゆ》を曇らせたが「とんだお気の毒なことになりましたわネ」
 といって目を瞑《と》じ、胸に十字を切った。
「そうだ、貴方はいまその辺に見なかったですか、怪しい男を……」
「怪しい男? 貴方以外にですか」
「ええ、もちろん僕のことではないです。こう顔の半面に恐ろしい痣《あざ》のある小さい牛のような男のことです」
「いいえ。あたくしは今、車を下りて、真直《まっすぐ》にここまで歩いたばかりですわ」
 ジュリアはまるでレビュウの舞台に立っているかのように、美しい台辞《せりふ》をつかった。側に立つルネサンス風の高い照明灯は、いよいよ明るさを増していった。
「その痣のある男がどうかしたのですか」
「いや、僕がいま追駈《おいか》けていたのです。もしや犯人ではないかと思ったのでネ」と一郎は云ってあたりの木立を見廻わした。夕闇はすっかり蔭が濃くなって、これではもう追駈けてもその甲斐《かい》がなさそうに見えた。
 そこへバラバラと跫音《あしおと》が入り乱れて聞えた。二人がハッと顔を見合わせる途端に、夕闇の中で定かに分らないが、十歳あまりの少年が駈けこんできた。そして後方《うしろ》をクルリとふりむいて大声に叫んだ。
「オーイ、早くお出でよ、大辻さーん」
 向うの方からも、別な跫音がバタバタと近づいてきた。
「待て待て、勇坊《いさぼう》、ひとりで駈けだすと、危いぞオ」
 そういう声の下《もと》に、大入道のような五十がらみの肥満漢が、ゼイゼイ息を切りながら姿を現わした。――どうやら二人は連《つれ》らしい。
「大辻《おおつじ》さん。赤星ジュリアの外に、もう一人若い男が殖《ふ》えたぜ」
 と、少年は小慧《こざか》しい口を利いた。
「ほう、そうじゃなア」
 そういうところを見ると、既に二人はジュリアが屍体のところへ来たのを知っていたらしい。
「皆さん。そこにある屍体を見るのはかまわないけれど、手で触っちゃ駄目だよ。折角の殺人の証拠がメチャメチャになると、警官が犯人を探すのに困るからネ」と少年は大真面目《おおまじめ》でいってから、大辻と呼ばれる大男の方に呼びかけた。「どうだい大辻さん。この殺人事件において、大辻さんは何を発見したか、それを皆並べてごらんよ」
「オイよさねえか、勇坊。みなさんが嗤《わら》っているぜ」
 と大辻は頭を掻いた。
「まあ面白いこと仰有るのネ。あなた方は誰方《どなた》ですの」
 ジュリアは、眼のクルクルした少年に声をかけた。
「僕たちのことを怪しいと思ってるんだネ、ジュリアさん。僕たちは、ちっとも怪しかないよ。僕たちはこれでも私立探偵なんだよ。知っているでしょ、いま帝都に名の高い覆面探偵の青竜王《せいりゅうおう》ていうのを。僕たちはその青竜王の右の小指なんだよ」
「まあ、あなたが小指なの」
「ちがうよ。小指はこの大辻さんで、僕が右の腕さ」
「青竜王がここへいらっしゃるの?」
「ううん」と少年は急に悄気《しょげ》て、かぶりを振った。「青竜王《せんせい》がいれば、こんな殺人事件なんか一と目で片づけてしまうんだけれど。だけれど、青竜王《せんせい》はどうしたものか、もう十日ほど行方が分らないんです。だから僕と大辻さんとで、この事件を解決してしまおうというの」
「オイオイ勇坊。つまらんことを云っちゃいけないよ」
「そうだ。それよりも早く結論を出すことに骨を折らなければ……」と勇《いさむ》少年は再び大辻の方を向いていった。「大辻さんには分っているかどうかしらないけれど、
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