この学生さんは始めその木の陰で向うを向いて腰を下ろしていたんだよ。するとネ、学生さんの背後《うしろ》の繁った葉の間から、二本の手がニューッと出て、細い針金でもって学生さんの首をギューッと締めつけたんだ。それでとうとう死んじゃったんだ」
「そのくらいのことは分っているよ」と大辻が痩せ我慢をいった。
「どうだかなア。――そこで犯人は、表へ廻って、この屍体の側に近よった。そして咽喉のところを喰《く》っ切って血を出してしまったのさ。こうすると全く生きかえらないからネ」
「それくらいのこと、わしにだって分らないでどうする」
「へーン、どうだかな。――殺される前に、学生さんは一人の美しい女の人と一緒に話をしていたのに違いない。その草の間にチョコレートの銀紙が飛んでいる中に、口紅がついたのが交《まじ》っている」
「ええ、本当かい、それは……」
「ほーら、大辻さんには分っていないだろう。――学生さんは女の人と話しているうちに、女の人はなにか用事が出来て、ここから出ていったのさ。すぐ帰ってくるから待っていてネといったので、学生さんはじっと待っていた。その留守に頸を締められちまったのさ」
「青竜王《せんせい》の真似だけは上手な奴じゃ」
「それからまだ分っていることがある……」
 勇少年の饒舌《じょうぜつ》は、まだ続いてゆく。赤星ジュリアは聞き飽きたものかスカートをひるがえして、待たせてあった自動車の方へ歩いていった。
 西一郎の方は、さっきから黙って、青竜王の部下だという大男と少年の話を聞いていたが、これもジュリアの跡を追って、その場を立ち去った。彼はまだ怪人の行方をつきとめたい気があるのかも知れなかった。
 勇少年と大辻とは、それに気づかない様子で、夢中になって饒《しゃべ》りつづけていた。しかし二人の男女が立ち去ってしまうと、思わず顔を見合わせてニッコリと笑った。
「だが勇坊、お前はいけないよ、あんな秘密なことまで喋《しゃべ》ったりして」
「あんなこと秘密でもなんでもありゃしない。僕はもっと面白いことを二つも知っているよ」
「面白いことって?」
「一つは赤星ジュリアの耳飾りのこと、それからもう一つは、いまのもう一人の男の顔にある変な形の日焼《ひや》けのことだよ」
「ほほう。早いところを見たらしいネ。だがそんなことが何の役に立つんだネ」
「それは大辻さんが発見した日記帳以上に役に立つかも知れない」
「ほう、日記帳!」大辻は何を思ったか、屍体のところへ飛んでいった。そして屍体の背中をすこし持ちあげると、その下に隠されていた小さな黒革の日記帳をとりだした。彼はその日記帳の頁をパラパラと繰《く》っていたが、突然|吃驚《びっくり》して、大声で叫んだ。
「ああ大変じゃ。――オイ勇坊、誰かこの日記帳から何十頁を切り裂いて持っていったぞ。先刻《さっき》調べたときには、こんなことがなかったのに……」


   奇怪な挑戦状


 その翌日の午《ひる》さがり、警視庁の大江山《おおえやま》捜査課長は、昨夜来《さくやらい》詰《つ》めかけている新聞記者団にどうしても一度会ってやらねばならないことになった。
 その日の朝刊の社会面には、どの新聞でもトップへもって来て三段あるいは四段を割《さ》き、
「帝都に吸血鬼現る?
  ――日比谷公園の怪屍体――」
 とデカデカに初号活字をつかった表題で、昨夕《ゆうべ》の怪事件を報道しているところを見ても、敏感な新聞記者たちは早くもこれが近頃珍らしい大々事件だということを見破ったものらしい。
 大車輪で活動を続けている大江山課長は五分間だけの会見という条件でもって、新聞記者団を応接室へ呼び入れた。ドヤドヤと入ってきた一同は、たちまち課長をグルッと取巻いてしまった。
「五分間厳守! あとは云わんぞ」
 と、課長は先手をうった。
「すると本庁では事件を猛烈に重大視しているのですネ」
 と、早速記者の一人が酬《むく》いた。
「犯人は精神病者だということですが、そうですか」
 と、他の一人が鎌《かま》をかけて訊《き》いた。
「犯人はまだ決定しとらん」
 課長は口をへの字に曲げていった。
「法医学教室で訊くと被害者の血は一滴も残っていなかったそうですね」
「莫迦《ばか》!」課長は記者の見え透いた出鱈目《でたらめ》を簡単にやっつけた。
「犯人は、被害者の実兄だと称している西一郎(二六)なのでしょう」
「今のところそんなことはないよ」
「西一郎の住所は?」
「被害者と同じ家だろう?」
「冗談いっちゃいけませんよ、課長さん。被害者は下宿住居《げしゅくずまい》をしているのですよ。本庁はなぜ西一郎のことを特別に保護するのですか」
「特別に保護なんかしてないさ」
 課長は椅子にふん反《ぞ》りかえった。
 しかし被害者の実兄の住所を極秘にしていることは、何か特別のわけがなければならなかった。課長がすこし弱り目を見せたところを見てとった記者団は、そこで課長の心臓をつくような質問の巨弾を放ったのだった。
「三年ほど前、大胆不敵な強盗殺人を連発して天下のお尋ね者となった兇賊《きょうぞく》痣蟹仙斎《あざがにせんさい》という男がありましたね。あの兇賊は当時国外へ逃げだしたので捕縛を免れたという話ですが、最近その痣蟹が内地へ帰ってきているというじゃありませんか。こんどの殺人事件の手口が、たいへん惨酷なところから考えてあの痣蟹仙斎が始めた仕業だろうという者がありますぜ。こいつはどうです」
「ふーむ、痣蟹仙斎か」課長は眉を顰《ひそ》めて呻《うな》った。「本庁でも、彼奴《あいつ》の帰国したことはチャンと知っている。こんどの事件に関係があるかどうか、そこまで言明の限りでないが、近いうち捕縛する手筈になっている」
 と云ったが、大江山課長は十分痛いところをつかれたといった面持だった。痣蟹仙斎の、あの顔半分を蔽《おお》う蟹のような形の痣が目の前に浮んでくるようだった。
「それでは課長さん。これは新聞には書きませんが、痣蟹の在所《ありか》は目星がついているのですね」
「もう五分間は過ぎた」と課長はスックと椅子から立ちあがった。「今日はここまでに……」
 課長が室を出てゆくと、記者連は大声をあげて露骨な意見の交換をはじめた。結局こんどの吸血事件と帰国した痣蟹仙斎のこととを結びつけて、本庁は空前の緊張を示しているが、実は痣蟹の手懸りなどが十分でなくて弱っているものらしいということになった。そしてこのことを今夜の夕刊にデカデカ書き立てることを申合せたのだった。
 夕刊の鈴の音が喧《やかま》しく街頭に響くころ、大江山課長はにがりきっていた。
「しようがないなア。こう書きたてては、痣蟹のやつ、いよいよ警戒して、地下に潜っちまうだろう」
 そこへ一人の刑事が入ってきた。
「課長さん。お手紙ですが……」
 と茶色のハトロン紙で作った安っぽい封筒をさしだした。
 課長は何気なくその封筒を開いて用箋をひろげたが、そこに書いてある簡単な文句を一読すると、異常な昂奮を見せて、たちまちサッと赭《あか》くなったかと思うと、直ぐ逆に蒼《あお》くなった。そこには次のような文句が認《したた》められてあった。
「大江山捜査課長殿
[#ここから2字下げ]
啓《けい》。しばらくでしたネ。しばらく会わないうちに、貴下《きか》の眼力《がんりき》はすっかり曇ったようだ。日比谷公園の吸血屍体の犯人を痣蟹の仕業《しわざ》とみとめるなどとは何事だ。痣蟹は吸血なんていうケチな殺人はやらない。嘘だと思ったら、今夜十一時、銀座のキャバレー、エトワールへ来たれ。きっと得心《とくしん》のゆくものを見せてやる。必ず来《きた》れ!
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]痣蟹仙斎」
 課長は駭《おどろ》いて、手紙を持ってきた刑事を呼びもどした。誰がこのような手紙を持ってきたのかを訊ねたところ、受付に少年が現れてこれを置いていったということが分ったが、探してみてももう使いの少年の行方は知れなかった。だがこれは痣蟹の手懸りになることだから、厳探《げんたん》することを命じた。そしてその奇怪な挑戦状を握って、総監のところへ駈けつけた。
 その夜のことである。
 銀座随一の豪華版、キャバレー・エトワールは日頃に増してお客が立てこんでいた。客席は全部ふさがってしまったので、已《や》むを得《え》ず、太い柱の陰にはなるが五六ヶ所ほど補助の卓子《テーブル》や椅子を出したが、これも忽《たちま》ちふさがってしまった。
 酒盃のカチ合う音、酔いのまわった紳士の胴間声、それにジャズの喧噪《けんそう》な楽の音が交《まじ》りただもう頭の中がワンワンいうのであった。
 この喧噪の中に、室の一隅の卓子を占領していたのは大江山捜査課長をはじめ、手練の部下の一団に、それに特別に雁金《かりがね》検事も加わっていた。いずれも制服や帯剣を捨てて、瀟洒《しょうしゃ》たる服装に客たちの目を眩《くら》ましていた。なお本庁きっての剛力刑事が、あっちの壁ぎわ、こっちの柱の陰などに、給仕や酔客や掃除人に変装して、蟻も洩らさぬ警戒をつづけていた。かれ等一行の待ちかまえているものは、奇怪なる挑戦状の主、痣蟹仙斎の出現だった。痣蟹はいずこから現れて、何をしようとするのであろうか。
 ところがその夜の客たちは、検察官一行とは違い、また別なものを待ちかまえていた。それは今夜十時四十分ごろに、このキャバレーに特別出演する竜宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアを観たいためだった。ジュリアの舞踊と独唱とが、こんなに客を吸いよせたのであった。
 夜はしだいに更《ふ》けた。屋外《そと》を行く散歩者の姿もめっきり疎《まば》らとなり、キャバレーの中では酔いのまわった客の吐き出す声がだんだん高くなっていった。時計は丁度十時四十五分、支配人が奥からでてきてジャズ音楽団の楽長に合図《あいず》をすると、柔かいブルースの曲が突然トランペットの勇ましい響に破られ、軽快な行進曲に変った。素破《すわ》こそというので、客席から割れるような拍手が起った。客席の灯火《あかり》がやや暗くなり、それと代って天井から強烈なスポット・ライトが美しい円錐《えんすい》を描きながら降って来た。
「うわーッ、赤星ジュリアだ!」
「われらのプリ・マドンナ、ジュリアのために乾杯だ!」
「うわーッ」
 その声に迎えられて、真黒な帛地《きぬじ》に銀色の装飾をあしらった夜会服を着た赤星ジュリアが、明るいスポット・ライトの中へ飛びこむようにして現われた。
 そこでジュリアの得意の独唱が始まった。客席はすっかり静まりかえって、ジュリアの鈴を転ばすような美しい歌声だけが、キャバレーの高い天井を揺《ゆ》すった。
「どうもあの正面の円柱が影をつくっているあたりが気に入りませんな」
 と大江山捜査課長が隣席の雁金検事にソッと囁いた。
「そうですな。私はまた、顔を半分隠している客がないかと気をつけているんだが、見当りませんね。痣蟹は顔半面にある痣を何とかして隠して現われない限り、警官に見破られてしまいますからな」
「イヤそれなら、命令を出して十分注意させてあります」
 ジュリアの独唱のいくつかが終って、ちょっと休憩となった。嵐のような拍手を背にして彼女がひっこむと、客席はまた元の明るさにかえって、ジャズが軽快な間奏楽を奏しはじめた。警官隊はホッとした。
「きょうは貴下の御親友である名探偵青竜王は現われないのですか」
 と大江山は莨《たばこ》に火を点《つ》けながら、雁金検事に尋ねた。
「さあ、どうですかな。先生この頃なにか忙しいらしく、一向出てこないです。しかし今夜のことを知っていれば、どこかに来てるかも知れませんな」
 覆面の名探偵は、検事の親友だった。覆面の下の素顔を知っているものは、少数の検察官に止まっていた。青竜王に云わせると、探偵は素顔を事件の依頼者の前でも犯人の前でも曝《さら》すことをなるべく避けるべきであるという。だから一度雑誌に出た彼の素顔の写真というのがあったが、あれももちろん他人の肖像だったのである。
 再び、トランペットの勇ましい音が始まって、
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