客席の灯火《あかり》はまたもや薄くなった。いよいよこんどこそは、痣蟹が現れるだろう。
「もう十一時に五分前です」
課長は卓子《テーブル》の下で、拳銃《ピストル》の安全装置を外した。
検察官一行の緊張を余所《よそ》に、客席ではまた嵐のような拍手が起った。美しい光の円錐の中に、ジュリアを始め三人の舞姫たちが、絢爛《けんらん》目を奪うような扮装して登場したのであったから。カスタネットがカラカラと鳴りだした。一座の得意な出しもの「赤い苺の実」のメロディが響いてくる。……
「こいつはいかんじゃないですか。三人の女優が、みな覆面をしとる」
と雁金検事が隣席の大江山課長に囁いた。
「これは舞台でもこの通りやるんです。それに真逆《まさか》痣蟹があの美しい女優に化けているとは思いませんが……」
「だが見給え。この夜の十一時という問題の時刻に、女優にしろ、あのような覆面が出てくるのはよくないと思いますよ。それにあの長い衣裳は、女優の頤と頸のあたりと、手首だけを出しているだけで、殆んど全身を包んでいますよ。よくない傾向です」
「じゃあ命じて女優の覆面を取らせましょうか」
そういった瞬間だった。予告なしに、突然室内の灯火《あかり》が一せいに消えて、真暗闇となった。客席からはワーッという叫びがあがった。そのとき出口の闇の中から、大きな声で呶鳴《どな》る者があった。
「皆さん、われ等は警官隊です、危険ですから、すぐに卓子《テーブル》の下に潜って下さアい!」
その声が終るが早いか、叫喚《きょうかん》と共に卓子と椅子とがぶつかったり、転ったりする音が喧しく響いた。
(なにかこれは大事件だ!)
客の酔いは一時に醒めてしまった。
すると、こんどは騒ぎを莫迦《ばか》にしたようにパーッと室内の電灯が煌々《こうこう》とついた。
室内の風景はすっかり変っていた。客の多くは卓子《テーブル》の下に潜りこみ、ただすっかり酔っぱらって動けない連中が椅子の上にダラリとよりかかっていた。出口にはどこから現れたのか、武装した三十名ほどの警官隊がズラリと拳銃《ピストル》を擬《ぎ》して鉄壁《てっぺき》のように並んでいる。
「頭を出すと危い!」
警官が注意した。
「あッはッはッはッ」
思いがけない高らかな哄笑《こうしょう》が、円柱の影から聞えた。
素破《すわ》! 雁金検事も大江山課長も、卓子を小楯《こだて》にとって、無気味な哄笑のする方を注視した。
正面の太い円柱の陰から、蝙蝠《こうもり》のようにヒラリと空虚な舞台へ飛び出したものがあった。皮革《かわ》で作ったような、黄色い奇妙な服を着た痩せこけた男だった。グッと出口の警官隊を睨みつけたその顔の醜怪さは、なにに喩《たと》えようもなかった。左半面には物凄い蟹の形の大痣がアリアリと認められた。ああ、遂に痣蟹が現れたのだ!
意外な犠牲《ぎせい》
待ちに待たれていた大胆不敵な挑戦状の主は、とうとう皆の前に姿を現わしたのだった。怪賊痣蟹は二た目と見られない醜悪な面をわざと隠そうともせず、キッと武装警官隊の方を睨《にら》みつけた。
武装隊を指揮しているのは金剛《こんごう》部長だったが、ヌックと立って部下に号令した。
「あの怪物がすこしでも動いたら、撃ち殺してしまえッ」
痣蟹はそれを聴くと、薄い唇をギュッと曲げて冷笑した。そして突然、背後《うしろ》に隠しもった彼の手慣れた武器をとりだした。それは恐るべき軽機関銃だった。彼が和蘭《オランダ》にいたとき、そこの秘密武器工場に注文して特に作らせたという精巧なものだった。――その機関銃の銃口《つつ》が、警官たちの胸元を覘《ねら》った。
「急ぎ撃てッ」
武装隊長は咄嗟《とっさ》に射撃号令をかけた。
ドドーン。ドドーン。
カタ、カタ、カタ、カタ。
どっちが先へ撃ちだしたのか分らなかった。忽《たちま》ち室内の電灯はサッと消えて、暗黒となった。阿鼻叫喚《あびきょうかん》の声、器物の壊れる音――その中に嵐のように荒れ狂う銃声があった。正面と出口とに相対峙《あいたいじ》して、パッパッパッと真紅な焔が物凄く閃《ひらめ》いた。猛烈な射撃戦が始まったのだ。
警官隊は銃丸《たま》を浴びながら、ひるまず屈せず、勇敢に闘った。前方に火竜が火を噴いているような真赤な火の塊の陰に痣蟹がいる筈だった。それを目標に、拳銃《ピストル》の弾丸《たま》の続くかぎり覘いうった。ときどき警官たちは胸のあたりを丸太ン棒で擲《なぐ》りつけられたように感じた。それは防弾衣に痣蟹の放った銃丸が命中したときのことだった。防弾チョッキがなかったら、彼等はとうの昔に、全身蜂の巣のように穴が明いてしまったであろう。
だが軽機関銃の偉力は素晴らしかった。物凄い速さで飛びだしてくる銃丸は、大部分防弾衣で防ぎとめられはしたものの、だんだんに防弾鋼の当っていない肘《ひじ》を掠《かす》めたり手首に流れ当ったりして、さすがの警官隊もすこしひるみ始めた。卓子《テーブル》の陰から、眼ばかり出してこの猛烈な暗黒中の射撃戦を凝視していた雁金検事や大江山捜査課長などの首脳部一行は、早くも味方の旗色の悪いのを見てとった。
「大江山君、この儘《まま》じゃあ危いぞ。警官隊に突撃しろと号令してはどうだ」
「突撃したいところですが、駄目です。卓子だの椅子だの人間だのが転がっていて、邪魔をしているから突撃できません」
「でもこのままでは……」と検事は悲痛な言葉をのんだ。
と、そのときだった。誰か、検事の腕をひっぱる者があった。
「雁金さん、雁金さん――」
「おう、誰だッ」
「落付いて下さいよ、僕です。分りませんか」
「ナニ……そういう声は」
と雁金検事は相手の男の腕をグイと握ってひきよせて、低声《こごえ》で囁《ささや》いた。
「――青竜王だナ」
青竜王! それはかねて雁金検事の親友として名の高い覆面探偵青竜王だったのである。どうしたわけか、このところ十日ほど、所在の不明だった探偵王だった。彼のところへやった通信が届いて、このキャバレーへやってきたものらしい。
青竜王は闇の中で雁金検事と何事かを低声《こごえ》で囁きあった。その揚句《あげく》、話がすんだと見えて、
「じゃ、しっかり頼むぞ」
という検事の激励の言葉とともに、青竜王はコソコソとまた闇の中に紛れこんでしまった。――検事はこんどは大江山課長を引きよせると、何かを耳打ちした。
「よろしい。命令しましょう」
課長はそういって、卓子《テーブル》の陰から匍《は》いだした。彼は銃丸《たま》の中をくぐりぬけながら、力戦している警官隊の方へ進んでいった。
間もなく何か号令が発せられて、武装警官隊の射撃は更に猛烈になった。天井から何かガラガラと墜《お》ちてくる物凄い音がした。
「前面《まえ》を注視していろ!」
隊長が叫んでいる――
と、正面に怪物のように火を吐いていた痣蟹の軽機関銃が、どうしたものか急に目標を変えた。ダダダダダッと銃丸《たま》は天井に向けられ、シャンデリアに当って、硝子《ガラス》の砕片がバラバラと墜ちてきた。
「おや?」と思う間もなく、ワッという悲鳴が聞えて、いままで呻《うな》りつづけていた機関銃の音がハタと停った。そしてドサリという重い機械が床上に叩きつけられる音がした。――これは勇敢な青竜王が、ひそかに痣蟹の背後《うしろ》にまわり、機関銃を叩き落したのだった。痣蟹は正面から警察隊の猛射を受けていたので、その撃退に夢中になっていたところをやっつけられたのであった。しかし本当は警官隊は猛射をしていたことに違いないけれど、天井ばかり撃っていたのであった。それは突入した青竜王に怪我をさせることなく、しかも痣蟹を牽制《けんせい》するためだった。すべては名探偵青竜王の策戦だったのである。
気味のわるい機関銃の響がハタと停った。警官隊の激しい銃声もいつの間にか熄《や》んでいた。暗黒の室内は、ほんの数秒であったが、一転して墓場のような静寂が訪れた。
「灯りを、灯りを……」
青竜王の呶鳴る声がした。
それッというので、室内の電灯スイッチをひねったが、カチリと音がしただけで、電灯はつかなかった。警官たちは懐中電灯を探ったが、いまの騒ぎのうちに壊れてしまったものが多かった。それでも二つ三つの光芒《こうぼう》が、暗黒の室内を慌《あわ》ただしく閃《ひらめ》いたが、青竜王に近づいたと思う間もなく、ピシンと叩き消されてしまった。暗黒のなかには、物凄い呻《うな》り声を交えて、不気味な格闘が行われていることだけが分った。
警官隊は、倒れた卓子や、逃《に》げ惑《まど》っているキャバレーの客たちを踏み越え掻き分けて、呻り声のする方へ近づいていった。が、また捲き起る混乱のために、その呻り声がどこかへ行ってしまった。
「どこにいるのだ、青竜王!」
「青竜王、声を出して下さーい!」
雁金検事たちは、大声で探偵の名を呼んだが、その応答は聞こえなかった。
「オーイ皆、ちょっと静かにせんかッ」
大江山課長が破《わ》れ鐘《がね》のような声で呶鳴った。
その声が皆の耳に達したものか、一座はシーンとした。
「オイ、青竜王、どこにいるのだッ」
検事は暗黒の中に再び呼んだ。――
だが、誰も応《こた》えるものはなかった。一同は闇の中に高く動悸《どうき》のうつ銘々《めいめい》の心臓を感じた。
(どうしたのだろう?)
そのとき正面と思われる方向の闇の中から軽い口笛の音が聞えだした。
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「あたしの大好きな
真紅な苺の実
とうとう見付かった
おお――
あなたの胸の中……」
[#ここで字下げ終わり]
ああ、いま流行の『赤い苺の実』の歌だ。竜宮劇場のプリ・マドンナ赤星ジュリアの得意の歌だった。――
「こら、誰だ。――」と大江山課長は叫んだ。「こんなときに呑気《のんき》に口笛を吹く奴は、あとで厳罰に処するぞ」
呑気な口笛――と捜査課長は云ったけれど、それは決して呑気とは響かなかった。なぜなら口笛は、警官の制止の声にも応じないで、平然と吹き鳴っていた。墓場のような暗黒と静寂の中に……。
「こら、止《や》めんか。止めないと――」
と大江山課長が火のようになって暗がりの中を進みいでたとき、呀《あ》ッという間もなく、足許に転がっている大きなものに突当り、イヤというほど足首をねじった。その途端に、足許に転がっていたものが解けるようにムクムクと起き上って、激しい怒声と共に格闘を始めたから、捜査課長は胆《きも》を潰《つぶ》してハッと後方《うしろ》へ下った。
「青竜王はここにいるぞッ」と格闘の塊《かたまり》の中から思いがけない声が聞えた。
「なにッ」
「痣蟹を早く押《おさ》えて――」
雁金検事はその声に活路を見出した。
「明りだ、明りだ。明りを早く持ってこい」出口の方から、やっと手提電灯《てさげでんとう》が二つ三つ入ってきた。
「そっちだ、そっちだ」
すると正面の太い円柱のあたりで、ひどく物の衝突する音が聞えた。それから獣のような怒号が聞えた。
「捕《とら》えた捕えた。明りを早く早く」
それッというので、手提電灯が束になって飛んでいった。
「痣蟹、もう観念しろッ」
まだバタバタと格闘の音が聞えた。するとそのときどうした調子だったか、室内の電灯がパッと点いた。射撃戦に被害をのがれた半数ほどの電灯が一時に明るく点いた。――人々は悪夢から醒めたようにお互いの顔を見合わせた。
「痣蟹はここにいますぞオ」
それは先刻《さっき》から、暗闇の中に響いていた青竜王の声に違いなかった。警官隊もキャバレーの客も、言いあわせたようにサッとその声のする方をふり向いた。おお、それこそ覆面の名探偵青竜王なのだ。
「とうとう掴《つかま》えたかね」
と検事は悦《よろこ》びの声をあげて、青竜王に近づいた。
「青竜王!」
人々はそこで始めて、覆面の名探偵を見たのであった。彼はスラリとした長身で、その骨組はまるでシェパードのように剽悍《ひょうかん》に見えた。ただ彼はいつものように眼から下の半面を覆面し、鳥打帽の下
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