からギョロリと光る二つの眼だけを見せていた。
「さあこの柱の根元をごらんなさい。ここに見えるのが痣蟹の左足です。またこっちに挟《はさま》っているのが彼の黄色い皮製の服です。始め痣蟹は、人知れずこの仕掛けのある柱から忍び出たのですが、いま再びこの仕掛け柱へ飛びこんでここから逃げようとしたのが運の尽きで、自ら廻転柱に挟まれてしまったんです。もう大丈夫です」
なるほどこの円柱は廻転するらしく、合《あわ》せ目《め》があった。そして根元に近く、黄色い皮服と、変な形の左足の靴とがピョンと食《は》みだしていた。
大江山捜査課長は飛びあがるほど悦んだ。
「さあ、早くあの足を持って、痣蟹を引張りだせ!」
と命令した。
多勢《おおぜい》の警官たちはワッとばかりに柱の方へ飛びつくと、痣蟹の足を持ってエンヤエンヤと引張った。また別の警官は、黄色い皮服を引張った。――だが暫くすると、警官たちは云いあわせたように、呀《あ》ッと悲鳴をあげると、将棋だおしに、後方《うしろ》へひっくりかえった。そして彼等の頭上に、途中から切断した皮服と左の長靴とがクルクルと廻ったかと思うと、ドッと下に落ちてきた。
「なアんだ、服と靴とだけじゃないか」
と捜査課長は叫んだ。
「ウーム」
と流石《さすが》の覆面探偵も呻った。痣蟹に一杯喰わされたという形であった。
そのときであった。警官の一人が、顔色をかえて、捜査課長の前にとんできた。
「た、大変です、課長さん、あの舞台横の柱の陰に、一人のお客が殺されています」
「なんだ、いまの機関銃か拳銃《ピストル》でやられたのだろう」
「そうじゃありません。その方の怪我人は片づけましたが、私の発見したそのお客の屍体は惨《むご》たらしく咽喉笛を喰い破られています。きっとこれは、例の吸血鬼にやられたんです。そうに違いありません」
「ナニ、吸血鬼にやられた死骸が発見されたというのか」
「そういえば、先刻《さっき》暗闇の中で『赤い苺の実』の口笛を吹いていたものがあった……」
人々は驚きのあまり顔を見合《みあわ》せるばかりだった。
果してこれは痣蟹の仕業だろうか。それなれば検察官や覆面探偵はまんまとここまで誘《おび》きだされたばかりでなく、吸血の屍体をもって、拭《ぬぐ》っても拭い切れない侮辱を与えられたわけだった。
自分は吸血鬼でないという痣蟹の宣言が本当か、それとも今夜のこの惨劇が、皮肉な自白なのであろうか。
赤星ジュリアは無事に引きあげたろうか。覆面の名探偵青竜王は雪辱《せつじょく》の決意に燃えて、いかなる活躍を始めようとするのか。
そのうちに、どこからともなく、あの「恐怖の口笛」が響いてくるような気配がする。
吸血鬼の正体は、そも何者ぞ!
怪しい図面《ずめん》
大胆不敵の兇賊《きょうぞく》痣蟹仙斎《あざがにせんさい》が隠れ柱の中に逃げこもうとするのを、素早く覆面探偵青竜王がムズと掴《つかま》えたと思ったが、引張りだしてみると何のこと、痣蟹の左足の長靴と、そして洋服の裂けた一部とだけで痣蟹の身体はそこに見当らなかったではないか。これには痣蟹|就縛《しゅうばく》に大悦《おおよろこ》びだった雁金検事や大江山捜査課長をはじめ検察官一行は、網の中の大魚を逃がしたように落胆した。
しかし痣蟹はまだそんなに遠くには逃げていない筈だった。総指揮官の雁金検事は逡《たじ》ろぐ気色もなく直ちに現場附近の捜査を命じたのだった。警官隊はキャバレー・エトワールの屋外と屋内、それから痣蟹の逃げこんだ隠れ柱との三方に分れて、懸命の大捜査を始めたのだった。
「おお、青竜王は何処へいったのか」
と、雁金検事は始めて気がついた様子で左右を見廻わした。
「青竜王?」
検事につきそっていた首脳部の人たちも同じように左右を顧《かえり》みた。だが彼の姿はどこにも見えなかった。
「さっきまでその辺にいたんだが、見えませんよ」と大江山課長は云った。
「また何処かへとびだしていったんだろう」
「イヤ雁金検事どの」課長は改まった口調で呼びかけた。「貴官《あなた》はあの青竜王のことをたいへん信用していらっしゃるようですが、私はどうもそれが分りかねるんです」
と、暗に覆面探偵を疑っているらしいような口ぶりを示した。
「はッはッはッ。あの男なら大丈夫だよ」
「そうですかしら。――そう仰有《おっしゃ》るなら申しますが、さっき暗闇の格闘中のことですが、いくら呼んでも返事をしなかったですよ。そして唯、あの『赤い苺の実』の口笛が聞えてきました。それから暫くすると、急に青竜王の声で(痣蟹はここにいますぞオ)と喚《わめ》きだしたではありませんか。その間《かん》、彼は何をしていたのでしょう。なにしろ暗闇の中です。何をしたって分りゃしません」
人殺しだって出来るとも云いかねない課長の言葉つきだった。
「あれは君、青竜王のやつが痣蟹に組み敷かれていたんで、それで声が出せなかったのだろう。それをやッと跳ねかえすことが出来て、それで始めて喚いたのだと思うよ」
「そうですかねえ。――第一私は青竜王のあの覆面が気に入らないのです。向こうも取ると都合が悪いのでしょうが、私たちは捜査中気になって仕方がありません。あの覆面をとらない間、青竜王のやることは何ごとによらず信用ができないとさえ思っているのです」
「それは君、思いすぎだと思うネ」
と検事は困ったような顔をして大江山捜査課長の顔を見た。
「ですから私は――」と課長は勝手に先を喋《しゃべ》った。「あの柱に服の裂けた一片と靴とが挟まっていましたが、あれは痣蟹が逃げこんだのではなくて、予《あらかじ》め痣蟹が用意しておいた二つを柱に挟んで、その中へ逃げたものと見せかけ、自分は覆面をして誰に見られても解るその痣を隠し、青竜王だと云っているかもしれないと思うのです」
「はッはッはッ。君は青竜王が覆面をとれば痣蟹だというのだネ。いやそれは面白い。はッはッはッ」
「私は何事でも、疑わしいものは証拠を見ないと安心しないのです。またそれで今日捜査課長の席を汚さないでいるんですから……」
「じゃ仕方がないよ。僕の身元引受けが役に立たぬと思ったら遠慮なく彼の覆面を外《はず》してみたまえ、僕は一向構わないから」
「イヤそういうわけではありませんが……。しかし今夜はもう青竜王は出て来ませんよ。彼は逃げだせば、それでもう目的を達したんですから」
流石《さすが》は捜査課長だけあって、誰も考えつかないような疑点を示したのだった。だがそのときだった。例の隠れ柱が音もなくパックリと口を開き、その中から飛びだしてきたのが誰あろう、覆面の探偵だったから、気の毒な次第だった。
「うむ――」
と捜査課長は驚きのあまり、思わず呻《うな》った。
青竜王は検事たちの姿をみつけると、ズカズカと走りよった。
「雁金さん。痣蟹の逃げ路が、とうとう分りましたよ。このキャバレーの縁《えん》の下を通って、地階の物置の中へ抜けられるんです。そこからはすぐ表へとびだせます。貴方《あなた》の号令がうまくいっていないのか、その物置の前には警官が一名も立っていないので、うまく逃げられた形ですよ」
「ナニこの柱から物置へ抜けて、表へ逃げちまったって」
検事は肯《うなず》きながら大江山課長の方を向いて「そんな逃げ路のあることを何故前もって調べておかなかったのかネ、君。早速《さっそく》キャバレーの主人を呼んできたまえ」
「はア――」
課長は面目ない顔をして、部下にキャバレーの主人を引張ってくることを命じた。
間もなく、奥から身体の大きなキチンとしたタキシードをつけた男が現れた。彼はどことなく日本人離れがしていた。それも道理だった。彼はオトー・ポントスと名乗るギリシア人だったから。
「わたくし、ここの主人、オトーでございます。――」
西洋人の年齢はよくわからないが、見たところ三十を二つ三つ過ぎたと思われるオトー・ポントスはニコやかに揉《も》み手《で》をしながら、六尺に近い巨体をちょっと屈《かが》めて挨拶《あいさつ》をした。
「君が主人かネ」と検事はすこし駭《おどろ》きの色を示しながら「怪しからん構造物があるじゃないか。この円柱《まるばしら》が二つに割れたり、それから中に階段があったり、物置に抜けられたり、一体これは如何《いか》なる目的かネ」
「それはわたくし、知りません。この仕掛はこの建物をわたくし買った前から有りました」
「ナニ前からこの仕掛があった? 誰から買ったのかネ」
「ブローカーから買いました。ブローカーの名前、控《ひか》えてありますから、お知らせします」
「うむ、大江山君。そのブローカーを調べて、本当の持ち主をつきとめるんだ。――それはいいとして何故こんな抜け路をそのままにして置いたのかネ。何故痣蟹に知らせて、利用させたのだ」
「わたくし痣蟹と称《よ》ぶミスター北見仙斎《きたみせんさい》を信用していました。あの人、わたくし故国《くに》ギリシアから信用ある紹介状もってきました」
「ギリシアから紹介状をもってきたって。ほほう、痣蟹はギリシアに隠れていたんだな。イヤよろしい。君にはゆっくり話を聞くことにしよう。しかしもし痣蟹から電話でも手紙でも来たら、すぐ本庁へ知らせるのだ。いいかネ。忘れてはいけない」
「よく分りました」
そこでオトー・ポントスはまた恭《うやうや》しげに敬礼をして下《さが》ろうとしたとき、
「ああ、ちょっと待って下さい」
と声を掛けた者があった。それは先刻《さっき》から痣蟹の遺留《いりゅう》した品物をひねくりながら、この場の話に耳を傾けていた覆面探偵《ふくめんたんてい》青竜王《せいりゅうおう》だった。
「ポントスさん。これは貴方のものではありませんかネ」
といって、青竜王は何か小さい紙片《しへん》を見せた。キャバレーの主人はそれを手にとってみたが、それは何か建築図の断片らしく、壁体《へきたい》だの階段だの奇妙な小室《しょうしつ》だのの符合が並んでいたが、生憎《あいにく》ごく端《はし》の方だけを切取ったものらしく、何を示してある図か、この断片《だんぺん》だけでは分らなかった。
「これ、何ですか。とにかく、わたくしのでは有りません」
ポントスは腑《ふ》に落ちぬ顔をして、紙片を青竜王に返した。
「もう一つ、お尋ねしますが、赤星ジュリアは昨夜《ゆうべ》ここへ来たのが始めてですか」
「いえ、たびたび来て、歌わせました。もう七、八回も頼みました」
「たいへん御贔屓《ごひいき》のようですね」
「そうです。ジュリア歌う――お客さま悦びます。わたくしも悦びます。なかなかよい金儲《かねもう》けできますから、はッはッはッ」
ポントスは露骨な笑いを残して出てゆくと、大江山捜査課長は青竜王の腕をムズと捉《とら》えた。
「いまの建築図のようなものを出し給え。君はそれを何時《いつ》の間にどこから手に入れたんだい」
青竜王は課長の手を静かに払いながら、
「これですか。これを御存知なかったんですネ。なアに、痣蟹の裂けた洋服の裏に縫いつけてあったんですよ」と事もなげに云うと、その紙片を恭しく差し出しながら「では確かに貴方様にお手渡しいたしますよ」
不可解なる紙片! 一体それはいかなる秘密を物語るものであろうか。
消えた屍体《したい》
何のためか十日間あまり、事務所を留守にしていた青竜王は、キャバレー・エトワール事件の次の日の昼ごろ、ブラリと探偵事務所に姿を現わしたのだった。覆面探偵の帰還《きかん》!
その気配《けはい》を知って、奥から飛ぶように出て来たのは勇敢な少年探偵勇だった。
「ああ。青竜王《せんせい》。――僕は今日きっと青竜王《せんせい》が帰って来ると思ったんです」
といって、相《あい》も変らず頭部にはピッタリ合った黒い頭巾《ずきん》を被《かぶ》り、眼から下を三角帛《さんかくぎぬ》で隠した覆面探偵を迎えたのだった。探偵は少年の肩を両手で優しく叩いた。
「昨夜《ゆうべ》は青竜王《せんせい》、素敵でしたネ。だけど、もう僕たちを呼んで下さるかと思っていた
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