たわ。ほんとにあたし感謝しますわ。でもこのことは、誰にも云わないで下さいネ」
「ええ、大丈夫です。その代《かわ》り、何か犯人らしいものを見なかったか、教えて下さい」
「犯人? 犯人らしいものは、誰もみなかったわ――」
 といっているところへ、電話がかかってきた。それは出てきた支配人が、直《す》ぐ西一郎に会おうという電話だったのである。
 それから一郎は、支配人の室に行った。ジュリアの口添《くちぞ》えがあったから、すべて好条件で話が纏《まとま》った。今日は見習かたがた「赤い苺の実」の三|場《ば》ばかりへ顔を出して貰いたいということになった。そして大部屋《おおべや》の人たちに紹介してくれた。
 一郎はそれを報告のために、ジュリアの部屋に行ったが、鍵がかかっていた。それも道理《どうり》で、ジュリアはいま舞台に出て喜歌劇《きかげき》を演じているところだった。舞台の横のカーテンの陰には批評家らしい男が二人、肩を重《かさ》ねんばかりにして、ジュリアの熱演に感心していた。
「ジュリアはたしかに百年に一人出るか出ないかという大天才だ。見給え、どうだい、あの熱情《ねつじょう》とうるおいとは……。今日はことに素晴らしい出来栄《できば》えだ」
「僕も全く同感だ。どこからあの熱情が出てくるんだろう。ちょっと真似手《まねて》がない。――」
「ジュリアには非常に調子のよい日というのがあるんだネ。今日なんか正にその日だ。見ていると恐《こわ》い位《くらい》だ」
「そうだ。僕もそれを云いたいと思っていた。僕は毎日ジュリアを見ているが、調子のよい日というのをハッキリ覚えているよ。この一日に三日、それから今日の四日と……」
「よく覚えているねえ」
「いやそれには覚えているわけがあるんだ。それが不思議にも、あの吸血鬼《きゅうけつき》が出たという号外《ごうがい》や新聞が出た日なんだからネ」
「ははア、するとああいう事件が何かジュリアを刺戟《しげき》するのかなア。だが待ちたまえ、今日は何も吸血鬼が犠牲者《ぎせいしゃ》を出したという新聞記事を見なかったぜ。はッはッ、とうとう君に一杯《いっぱい》担《かつ》がれたらしい。はッはッはッ」
「はッはッはッ」
 一郎は批評家に嫌悪《けんお》を催《もよお》したのか、怒ったような顔をして、そこを去った。


   痣蟹《あざがに》の空中葬《くうちゅうそう》


 丁度《ちょうど》その頃、捜査本部では、雁金検事と大江山捜査課長とが六《むつ》ヶ|敷《し》い顔をして向いあっていた。机の上には、青竜王が痣蟹の洋服の間から見付けた建築図の破片《はへん》が載《の》っていた。
「雁金さんはそう仰有《おっしゃ》るですが、どうしてもあの覆面探偵は怪しいですよ」と大江山はまたしても、青竜王|排撃《はいげき》の火の手をあげているのであった。「第一あの覆面がよろしくない。本庁《ほんちょう》の部下の間には猛烈な不平があります。このままあの覆面を許しておくということになると、統制上《とうせいじょう》由々《ゆゆ》しき一大事が起るかもしれません」
「気にせんがいいよ。そうムキになるほどのことではない。たかが私立探偵だ」
「いまも電話をかけましたが、青竜王《やつ》は所在《しょざい》が不明です。その前は十日間も行方が分らなかった」
「まアいい。あれ[#「あれ」に傍点]は悪いことの出来る人間じゃないよ」
「それから所在不明といえば、あの西一郎という男ですネ。彼奴《きゃつ》は犠牲者の兄だというので心を許していましたが、イヤ相当《そうとう》なものですよ。彼奴は無職で家にブラブラしているかと思うと、どこかへ行ってしまって、幾晩もかえって来ない。留守番《るすばん》のばあやは金を貰っていながら、気味《きみ》わるがっています。昨夜《ゆうべ》もそうです。蝋山教授を騙《だま》して、不明の目的のために四郎の屍体《したい》を解剖させているうちに、怪漢《かいかん》を呼んで屍体を奪わせた。そのくせ当人は、痣蟹が屍体を盗んでいったと称しています。あれは偽《に》せの兄ですよ。本当の兄なら、屍体を取返そうと思って死力《しりょく》をつくして追駈《おいか》けてゆきます」
「イヤあれは本当の兄だよ」
「私は随分《ずいぶん》部下や新聞記者の前を繕《つくろ》ってきましたが、今日かぎりそれを止めて、本当の考えを発表します。第一今日はキャバレー・エトワールの事件で、青竜王《きゃつ》のところのチンピラ小僧にうまうませしめられて、面白くないです」
 といっているところへ、給仕が入ってきて、雁金検事に電話が来ていると伝えた。
「はアはア、私は雁金だが、――」
 と電話に出てみると、向《むこ》うは噂《うわ》さの主《ぬし》の覆面の探偵青竜王からだった。
「今日何か新しい吸血鬼事件があったでしょう」
「ほい、もう嗅《か》ぎつけたか。あれは絶対秘密にして置いたつもりだが、実は――」
 と、検事は大江山との今の話を忘れてしまったように、秘密事件について話しだした。それは今日|昼《ひる》すこし前、例の事件について調べることがあって迎《むか》えのために警官をキャバレー・エトワールへ振出《ふりだ》してみると、雇人《やといにん》は揃っているが、主人のオトー・ポントスが行方不明であるという。そこでポントスの寝室《しんしつ》を調べてみると、ベッドはたしかに人の寝ていた形跡《けいせき》があるが、ポントスは見えない。尚《なお》もよく調べると、床《ゆか》の上に人血《じんけつ》の滾《こぼ》れたのを拭いた跡が二三ヶ所ある。外《ほか》にもう一つ可笑《おか》しいことは、室内にはポータブルの蓄音器《ちくおんき》が掛け放しになっていたが、そこに掛けてあったレコードというのがなんと赤星ジュリアの吹きこんだ「赤い苺の実」の歌だったという。いまもってポントスの行方《ゆくえ》は分らない。――
 その話をして、雁金検事は青竜王の意見をもとめたところ、彼は電話の向うで、チェッと舌打ちをして云った。
「雁金さん、ポントスは昨夜《ゆうべ》から今日の昼頃までに殺されたんですよ」
「そう思うかネ。誰に殺された。――」
「もちろん吸血鬼に殺されたんですよ。屍体はその近所にある筈《はず》ですよ。発見されないというのは可笑しいなア」
「やっぱり吸血鬼か。そうなると、これで三人目だ。これはいよいよ本格的の殺人鬼の登場だッ。――ところで君はいま何処にいるのだ。勇が探していたが、会ったかネ」
「場所はちょっと云えませんがネ。そうですか、勇君は何を云っていましたか。――」
 と其処《そこ》までいったとき、何に駭《おどろ》いたか、青龍王は電話の向うで、
「ウム、――」
 と呻《うな》った。そして、
「検事さん、また後で――」
 といって、電話はガチャリと切れた。
「午後四時十分。――」
 と、検事は静かに時計を見た。すると待っていたように、大江山課長が声をかけた。
「青竜王のいるところが分りました。いま電話局で調べさせたんです。青竜王《せんせい》、いま竜宮劇場の中から電話を掛けたんです。私は青竜王に一応|訊問《じんもん》するため、職権《しょっけん》をもって拘束《こうそく》をいたしますから……」
「午後四時十分。――」
 と検事は大江山の言葉が聞えないかのように、静かに同じ言葉を繰《く》り返《かえ》した。
 丁度そのすこし前、竜宮劇場の赤星ジュリアの室ではまるで何かの劇の一場面のような、世にも恐ろしい光景が演ぜられていた。
 赤星ジュリアは喜歌劇に出演中だったが、彼女の持ち役である南海《なんかい》の女神《めがみ》はその途中で演技が済み、あとは終幕が開くので彼女を除《のぞ》く一座は総出《そうで》の形となって、ひとりジュリアは楽屋に帰ることができるのであった。彼女は自室に入って、女神の衣裳《いしょう》を外《はず》しにかかった。いつもなら、矢走千鳥《やばせちどり》が手伝ってくれるのだが、彼女は臨時に終幕に持ち役ができて舞台に出ているので、ジュリアは自《みずか》ら扮装《ふんそう》を脱《ぬ》ぐほかなかった。
 彼女は五枚折りの大きな化粧鏡の前で、まず女王の冠《かんむり》を外した。それから腰を下ろすと下に跼《しゃが》んで長い靴と靴下とをぬぎ始めた。演技がすんで、靴下を脱ぎ、素足《すあし》になるときほど、快《こころよ》いものはなかった。彼女は透きとおるように白いしなやかな脛《すね》を静かに指先でマッサージをした。そして衣裳を脱ごうとして、再び立ち上ったその瞬間、不図《ふと》室内に人の気配を感じたので、ハッとなって背後《うしろ》を振りかえった。
「静かにしろ。動くと撃つぞ。――」
 気がつかなかったけれど、いつの間に現れたか、一人の怪漢がジュリアを睨《にら》んでヌックと立っていた。左手には古風な大型のピストルを持ち、その形相《ぎょうそう》は阿修羅《あしゅら》のように物凄かった。彼の片頬《かたほほ》には見るも恐ろしい蟹《かに》のような形をした黒痣《くろあざ》がアリアリと浮きでていた。これこそ噂《うわ》さに名の高い兇賊《きょうぞく》痣蟹仙斎《あざがにせんさい》であると知られた。
 ジュリアはすこし蒼《あお》ざめただけだ。さして驚く気色《きしょく》もなく、化粧鏡をうしろにして、キッと痣蟹を見つめたが、朱唇《しゅしん》を開き、
「早く出ていってよ。もう用事はない筈よ」
「うんにゃ、こっちはまだ大有《おおあ》りだ」と憎々《にくにく》しげに頤《あご》をしゃくり「貰いたいものを貰ってゆかねば、日本へ帰ってきた甲斐がねえや。――」
「男らしくもない。――」
「ヘン何とでも云え。まず第一におれの欲しいのはこれだア。――」
 痣蟹はジリジリとジュリアに近づくと、彼女が頸《くび》にかけた大きいメタルのついた頸飾りに手をかけ、ヤッと引きむしった。糸が切れて、珠《たま》がバラバラと床の上に散った。痣蟹はそれには気も止めず、メタルを掌《てのひら》にとって器用にも片手でその裏を開いた。中からは何やら小さい文字を書きこんだ紙片がでてきた。痣蟹はニッコリと笑い、
「やっぱり俺のものになったね。――」
「出ておゆき。ぐずぐずしていると人が来るよ」
「どっこい。もう一つ貰いたいものが残っているのだ。うぬッ――」
 痣蟹はピストルを捨てると、猛虎《もうこ》のように身を躍《おど》らせてジュリアに迫った。その太い手首が、ジュリアの咽喉部《いんこうぶ》をギュッと絞めつけようとする。
「アレッ――」
 と叫ぶ声の下に、化粧鏡がうしろに圧《お》されて窓硝子《まどガラス》に当り、ガラガラと物凄い音をたてて壊《こわ》れた。
 その途端《とたん》だった。入口の扉《ドア》をドンと蹴破って、飛びこんで来た一人の、青年――
「ああ、一郎さん、助けてエ――」
「曲者《くせもの》、なにをするかア、――」
 青年は西一郎だった。彼はジュリアに返事をする遑《いとま》もなく、彼に似合わしからぬ勇敢さをもって、いきなり痣蟹の背後《うしろ》から組みついた。
「なにを生意気な小僧《こぞう》め!」
 痣蟹は落ちつき払って一郎を組みつかせていた。
「ジュリア、いまに思い知るぞオ」
 という声の下に、彼はエイッと叫んで身体を振った。その鬼神《きじん》のような力に、元気な一郎だったが、たちまち※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と振りとばされてしまった。
「さあ皆で懸《かか》れ、警官隊も来ているから、大丈夫だ」と声を聞きつけて、応援隊が飛びこんで来た。痣蟹は警官隊と聞くと舌打ちをして、入口に殺到《さっとう》した劇場の若者を押したおし、廊下へ飛びだした。アレヨアレヨという間に、階段から下へ降りようとしたが、下からは駈けつけた大江山課長等がワッと上ってきたのを見ると、
「やッ」
 と身を翻《ひるがえ》してそこに開いていた窓を破って屋上へ逃げた。
「それ、逃《の》がすなッ」
 一同はつづいて、屋上に飛び出した。痣蟹は巨大な体躯《たいく》に似合わず身軽に、あちこちと逃げ廻っていたが、とうとう一番高い塔の陰に姿を隠してしまった。
「さあ、三方《さんぽう》から彼奴《きゃつ》を
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