明けても駄目です。或る仕掛がしてあるので、今夜九時にならないと、文字が出て来ません。今|御覧《ごらん》になっても白紙《はくし》ですよ」
 チェッと雁金検事が舌打ちをした途端《とたん》に、相手の受話機がガチャリと掛った。
 その日の夕刻、丁度|黄昏《たそがれ》どきのこと、丸ノ内にある化物ビルといわれる廃墟《はいきょ》になっている九階建てのビルディングの、その九階の一室で、前代未聞《ぜんだいみもん》の奇妙な会見が行われていた。
 まずその荒れはてた部屋の真中には足の曲った一脚の卓子《テーブル》があり、それを挿《はさ》んで二人の人物が相対《あいたい》していた。
 入口に遠い方にいる人物は紛《まぎ》れもなく覆面探偵の青竜王だったが、彼は椅子に腰をかけた儘《まま》、身体を椅子ごと太い麻縄《あさなわ》でグルグルに締められていた。それに対する人物は、卓子を距《へだ》てて立っていたが、その人物は頭の上から黒い布《きれ》をスッポリ被《かぶ》っていた。そして右手には鋭い薄刃《うすば》のナイフを構《かま》えて、イザといえば飛び掛ろうという勢《いきお》いを示していた。――これが雁金検事に報告された青竜王と吸血鬼との会見なのであった。すると、黒い布を被った人物こそ、恐るべき殺人犯の吸血鬼なのであろう。
「案外智恵のない男だねえ――」と黒布の人物は皺枯《しわが》れ声でいった。皺枯れ声だったけれども、確かに女性の声に紛れもなかった。
「……」青竜王は無言で、石のように動かない。
「そうやって椅子に縛りつけられりゃ、生かそうと殺そうと、私の自由だよ。この短刀で、心臓をグサリと突くことも出来るし、お好《この》みなら、指一本一本切ってもいい。苦しむのが恐ろしいのなら、ここにある注射針で一本プスリとモルヒネを打ってあげてもいいよ」と憎々《にくにく》しげに云った。
「約束を違《たが》えるなんて、卑怯《ひきょう》だネ、君は」と青竜王は始めて口を開いた。
「お前は莫迦《ばか》だよ。――妾《わたし》の正体を知っている奴は、皆殺してしまうのだ。お前を今まで助けてやったのを有難いと思え。しかし今日という今日は、気の毒ながら生きては外へ出さないよ」
 と、まるで芝居がかりの妖婆《ようば》のような口調でいった。そして短刀を擬《ぎ》してジリジリと青竜王の方へ近づいてくるのであった。
「まあ待ち給え。何時でも殺されよう。だがその前に約束だけは果させてくれ。というのは、僕は君に云いたいことがあるんだ」
「云いたいことがある。有るなら最期の贈り物に聞いてやろう。但し五分間限りだよ。早く云いな――」
「僕はこれまで、かなり君を庇《かば》ってきてやったぞ。君は知らないことはないだろう。最近に玉川で矢走千鳥を襲ったのも君だった。僕が出ていって君を離したが。そのお陰で、君は吸血の罪を一回だけ重ねないで済《す》んだのだ。いや一回だけでない。いままでに君を邪魔《じゃま》して、吸血の罪を犯させなかったことが五度もある。それは君を呪いの吸血病から、何とかして救いたいためだった。……」
「なにを云う。……すると今まで、邪魔が飛びだしたのは、皆お前のせいだとおいいだネ」
 と、悪鬼《あっき》は拳《こぶし》を固めて、青竜王を丁々《ちょうちょう》と擲《なぐ》った。探偵は歯を喰い縛って怺《こら》えた。
「君に悔い改めさせたいばかりに、パチノ墓地からも君を伴って逃がしてやった」
 ああ、すると吸血鬼というのは、もしや……。
「お黙り」と悪鬼は、またもや探偵の胸を殴《なぐ》った。探偵はウムと呻《うな》って悶《もだ》えた。
「僕には君の正体が、もっと早くから分っていたのだよ。思い出してみたまえ。君が四郎少年を殺したとき、死にもの狂いで探していたものは何だったか覚えているだろう。それが官憲《かんけん》に知れると、立ち所《どころ》に君は殺人魔として捕縛《ほばく》されるところだった。僕はそれを西一郎の手を経《へ》て君の手に戻してやった」
「出鱈目《でたらめ》をお云いでないよ。妾は知らないことだよ。――さあ、もう時間は剰《あま》すところ一分だよ」
「君に悔《く》い改《あらた》めさせたいばかりに、僕は君の自由になっているのが分らないのか」
「感傷《かんしょう》はよせよ。みっともない」
「ああ、到頭《とうとう》僕の力には及ばないのか。……では僕は一切を諦《あきら》めて殺されよう。だが只一つ最後に訊《き》きたい。君はなぜ吸血の味を知ったのだ。なにが君を、そんなに恐ろしい吸血鬼にしたのだ」
「そんなことなら、あの世への土産《みやげ》に聞かせてあげよう。――それは先祖から伝わる遺伝なのだよ。パチノを知っているだろう。あれは九人の部下が死ぬと、一人残らず血を吸いとったのだよ。妾はそれを遺書の中から読んだ。……ああ、その遺書が手に入らなかったら、妾は吸血鬼とならずに済んだかもしれない。恐ろしい運命だ」
「そうか、パチノが先祖から承《う》けついだ吸血病か、そうして遂《つい》に君にまで伝わったのか、パチノの曾孫《そうそん》にあたる吾《わ》が……」
「お黙り!――」と、悪鬼は足を揚《あ》げて、青竜王の脾腹《ひばら》をドンと蹴った。
「ウーム」
 と彼が呻きながら、その場に悶絶《もんぜつ》した。
「ああ、それ以上の悪罵《あくば》に妾が堪えられると思っているのかい。約束の五分間以上|喋《しゃべ》らせるような甘い妾ではないよ。お前さんはよくもこの妾の邪魔をしたネ」と憎々しげに拳をふりあげながら「さあこれから久し振りに、生ぬるい赤い血潮をゴクゴクと、お前さんの頸笛《くびぶえ》から吸わせて貰おうよ」
 と云ったかと思うと、悪鬼の女は頭の上から被っていた黒布《こくふ》に手をかけるとサッと脱ぎ捨てた。すると、驚くべし、その下から現れたのは、髪も灰色の老婆かと思いの外《ほか》、意外にも意外、それは金髪を美しく梳《くしけず》った若い洋装の女だった。その顔は――生憎《あいにく》横向きになっているので、見定《みさだ》めがたい!
 毒の華《はな》のような妖女《ようじょ》の手が動いて、黄昏の空気がキラリと閃《ひか》ったのは、彼女の翳《かざ》した薄刃のナイフだったであろう。いまやその鋭い刃物は、不運なる青竜王の胸に飛ぶかと見えたが、そのとき何を思ったか、妖女は空いていた左手をグッと伸べて、青竜王の覆面に手をかけた。
「そうだ。誰も知らない青竜王の覆面の下を、今際《いまわ》の際に、この妾が見て置いてあげるよ……」
 そう独言《ひとりごと》をいって、彼女はサッと覆面を引き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》った。その下からは思いの外若い男の顔が現れた。両眼を力なく閉じているが、そのあまりにも端正《たんせい》な容貌!
「ああ、貴下は……西一郎!」
 そう叫んだのは同じ妖女の声だったが、咄嗟《とっさ》の場合、作り声ではなく、彼女の生地《きじ》の声――珠《たま》のように澄んだ若々しい美声《びせい》だった。――ああ、とうとう探偵の覆面は取り去られたのだった。いま都下に絶対の信用を博《はく》している名探偵青竜王の正体は、白面《はくめん》の青年西一郎だったのだ。そして吸血鬼に屠《ほふ》られた四郎少年こそは、彼と血を分けた愛弟《あいてい》だったのだ!
「ああ、あたしは……」と妖女は胸を大濤《おおなみ》のように、はげしく慄《ふる》わせた。思いがけない大きな驚きに全く途方《とほう》に暮れ果てたという形だった。
「やっぱり、刺し殺すのだ!」
 と叫んで、妖女は再び鋭いナイフをふりあげたが、やがて力なく腕が下りた。
「どうして貴下が殺せましょう。妾の運命もこれまでだ!」
 そういった妖女は、青竜王の身近くによると、戒《いまし》めの縄をズタズタに引き切った。しかし青竜王は覆面をとられたことさえ気がつかない。――妖女はいつの間にか、この荒れ果てた部屋から姿を消してしまった。
 かくて風前《ふうぜん》の灯《ともしび》のように危《あやう》かった青竜王の生命は、僅かに死の一歩手前で助かった。


   大団円《だいだんえん》、死の舞踊《ぶよう》


「――検事さん! 雁金さんは何処へ行かれた?」
 と、慌《あわ》ただしく、検事局の宿直室に飛びこんで来たのは、大江山捜査課長だった。
「おう、どうしたかネ、大江山君」
 検事は書見《しょけん》をやめて、大きな机の陰から顔をあげた。
「ああ、そこにおいででしたか。喜んで下さい。とうとうポントスを探しあてましたよ。そして――大団円です」
「ポントスを生捕りにしたのかネ」
「いえ仰《おっ》しゃったとおりポントスは死んでいました。やはりキャバレー・エトワールの中でした。ちょっと気がつかない二重壁の中に閉じ籠められていたのです」
「ほほう、それは出かしたネ」
「ポントスは素晴らしい遺品をわれわれに残してくれました。それは壁の上一面に、折《お》れ釘《くぎ》でひっかいた遺書なんです。彼は吸血鬼に襲われたが、壁の中に入れられてから、暫《しばら》くは生きていたらしいですネ」
「おや、すると彼は吸血鬼じゃなかったのだネ」
「吸血鬼は外にあります。――さあ、これが壁に書いた遺書の写しです。吸血鬼の名前もちゃんと出ています」
 といって大江山はあまり綺麗でない紙を拡げた。検事はそれを机の上に伸《の》べて、静かに読み下《くだ》した。
「ほほう、――」と彼は感歎《かんたん》の声をあげ「これでみると、吸血鬼はパチノの曾孫である赤星ジュリアだというのだネ。おお、するとあの竜宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアがあの恐るべき兇行の主だったのか」
 と検事は悲痛《ひつう》な面持《おももち》で、あらぬ方を見つめた。
「昨日、玉川で一緒にゴルフをしたジュリアがそうだったか。……」
 そこで課長はもどかしそうに叫んだ。
「キャバレーの主人オトー・ポントスはいつかの夜のキャバレーの惨劇《さんげき》で、ジュリアの殺人を見たのが、運のつきだったんですネ。ジュリアは夜陰《やいん》に乗《じょう》じてポントスの寝室を襲い、まずナイフで一撃を加え、それからあのレコードで『赤い苺の実』を鳴らしたんです。ポントスはジュリアの独唱《どくしょう》を聞かせられながら、頸部《けいぶ》から彼女に血を吸われたんです。それから秘密の壁に抛《ほう》り込まれたんですが、あの巨人の体にはまだ血液が相当に残っていたため、暫くは生きていた――というのですネ」
 検事は黙々《もくもく》として肯《うなず》いた。
「ではこれから、逮捕に向いたいと思いますが……」と課長はいった。
「よろしい。――が、いま時刻は……」
「もう三分で午後九時です」
「そうか。ではもう三分間待っていてくれ給え、儂《わし》が待っている電話があるのだから」
 大江山課長は、後にも先にも経験しなかったような永い三分間を送った。――ボーン、ボーンと遠くの部屋から、正《しょう》九時を知らせる時計が鳴りだした。
「遂《つい》に電話は来ない。――」と検事は低い声で呻《うめ》くように云った。「では不幸な男の手紙を開いてもよい時刻となったのだ」
 そういって彼は、机のひき出しから、白い四角な封筒をとりだし、封を破った。そして中から四つ折の書簡箋《しょかんせん》を取出すと、開いてみた。そこには淡い小豆色《あずきいろ》のインキで、
「赤星ジュリア!」
 という文字が浮きだしていた。
「それは誰が書いたのですか」大江山課長は不思議に思って尋《たず》ねた。
「これは青竜王が預けていった答案なのだ。君の答案とピッタリ合った。儂は君にも青竜王にも敬意を表《ひょう》する者だ!」
 といって検事は、大江山課長の手を強く握った。
「それで青竜王はどうしたんです」
 と大江山が不審がるので、雁金検事は一伍一什《いちぶしじゅう》を手短かに物語り、九時までに彼の電話が懸《かか》って来る筈だったのだと説明した。
「では青竜王は、吸血鬼の犠牲になったのかも知れないじゃないですか。それなら躊躇《ちゅうちょ》している場合ではありません。直《ただ》ちに私たちに踏みこませて下さい」
「うん。…
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