…それでは儂も一緒に出かけよう」
そういって雁金検事は椅子から立ち上った。
検察官は重大な決心を固めて、奮《ふる》い立った。――そして丸ノ内の竜宮劇場へ――。
一行の自動車が日比谷の角《かど》を曲ると、竜宮劇場はもう直ぐ目の前に見えた。その名のとおり、夜の幕の唯中《ただなか》に、燦然《さんぜん》と輝《かがや》く百光を浴びて城のように浮きあがっている歓楽の大殿堂《だいでんどう》は、どこに忌《い》むべき吸血鬼の巣があるかと思うほどだった。その素晴らしく高く聳《そび》えている白色の円い壁体《へきたい》の上には、赤い垂れ幕が何本も下っていて、その上には「一代の舞姫《まいひめ》赤星ジュリア一座」とか「堂々|続演《ぞくえん》十七週間――赤き苺の実!」などと鮮《あざや》かな文字で大書《たいしょ》してあるのが見えた。ああ真に一代の妖姫《ようき》ジュリア!
大江山捜査課長の指揮下に、整然たる警戒網が張りまわされた。こうなれば如何に戦慄《せんりつ》すべき魔神《まじん》なりとも、もう袋の鼠同様だった。
「赤星ジュリアは、ちゃんと居るのかい」
と、雁金検事は入口にいた銀座署長に尋ねた。
「はア、すこし元気がないようですが、ちゃんと舞台に出ています。一向逃げ出す様子もありません」
「そうかネ、フーム……」
と検事は大きな吐息《といき》をした。そして秘《ひそ》かに覗《のぞ》き穴から、舞台を注視した。なるほど、ギッシリと詰《つま》った座席の彼方《かなた》に、見覚えのある「赤い苺の実」の絢爛《けんらん》たる舞台面が展開していた。扉《ドア》の隙間を通じて、
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「あたしの大好きな
真紅《まっか》な苺の実
いずくにあるのでしょう
いま――
欲しいのですけれど……」
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と、豊潤《ほうじゅん》な酒のような歌声が響いてくるのであった。――ジュリアは確かにいた。同じような肢体をもったダンシング・チームの中央で一緒に急調《きゅうちょう》なステップを踏んでいた。
「幕を締めさせましょうか。そして舞台裏から一時に飛び掛《かか》るんですか……」
「うん、――」と、雁金検事は覗き穴から目を離さなかった。
「検事さん。早くやらないと、青竜王の生命が請合《うけあ》いかねますよ。――」
と、大江山も日頃の競争意識を捨てて、覆面探偵の身の上を案ずるのであった。
「うん。もうそう永いことではない。エピローグまで待つことにしようじゃないか。――それから青竜王のことだが、彼奴《きゃつ》のことなら、まあ大丈夫だよ」
と検事は先刻《せんこく》とは打って変って、楽観説を唱えたのだった。
それには訳があった。――いま舞台の上に、赤星ジュリアの右側の方に、軽いタップダンスを踊っている燕尾服《えんびふく》の俳優は、紛《まぎ》れもなく西一郎だった。つまり覆面をしていない青竜王は何事もなかったように、たいへん楽しげに舞台に跳ねまわっているのだった。雁金検事は前からそれをよく知っていたればこそ、青竜王の肩を持ったのであった。
だが青竜王は、傍《はた》から見るほど楽しく踊っているわけではなかった。真実彼の胸の中を切り開いてみると、九つの苦悩を一つの意志の力でもって辛《かろ》うじて支えているのだった。彼は既に非常警戒の網が敷かれたことも、舞台の上から見てとった。しかも舞台では、赤星ジュリアが蜉蝣《かげろう》の生命よりももっと果敢《はか》ない時間に対し必死の希望を賭け、救おうにも救いきれない恐ろしき罪障《ざいしょう》をなんとかして此の一瞬の舞台芸術によって浄化《じょうか》したいと願っている。――一つは大洪水《だいこうずい》のような司法の力、一つは硝子《ガラス》で作った羽毛《うもう》のようにまことに脆弱《ぜいじゃく》な魂――その二つの間に挿《はさ》まれた彼、青竜王の心境は実に辛《つら》かった。
――なんとかして、最後の舞台を力一杯に勤《つと》めさせたい!
と彼は思った。だがジュリアの舞台は、もう誰の目にもそれと分るほど光りを失っていた。
「どうも変だな。ジュリアはいまにも倒れてしまいそうじゃないか」
「あたしも先刻《さっき》から、そう思っていたところよ。どうしたんでしょうネ。きっとジュリアは疲れたんでしょう」
――ジュリア、どうした!
と、三階席から無遠慮《ぶえんりょ》な声が飛んだ。
それが耳に入ったのか、ジュリアはハッと顔をあげたが、その頸《くび》のあたりは短時間のうちにアリアリと痩せ細ってみえた。
――ジュリア、帰って睡《ねむ》ってこい!
と、続いて二階から頓狂《とんきょう》な声が響いた。
ジュリアはいつの間にか力なく下に垂れた顔を、またハッとあげた。彼女はギリギリと上下の歯を噛み合わせた。が――右手に持った真白な鴕鳥《だちょう》の羽毛《はね》で作った大きな扇《おうぎ》がブルブルと顫《ふる》えながら、その悲痛きわまりない顔を隠してしまった。
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「別れの冬木立《ふゆこだち》
遺品《かたみ》にちょうだいな
あなたの心臓を
ええ――
あたしは吸血鬼……」
[#ここで字下げ終わり]
という合唱につられたかのように、ジュリアの顔を隠した羽毛の扇がピクピクと宙を喘《あえ》いだ。――そこで曲目は断層《だんそう》をしたかのように変化し、奔放《ほんぽう》にして妖艶《ようえん》かぎりなき吸血鬼の踊りとなる――この舞台のうちで、一番怪奇であって絢爛、妖艶であって勇壮な大舞踊となる。今夜のジュリアの無気力《むきりょく》では、その辺で一《ひ》と溜《たま》りもなく舞台の上に崩《くず》れ坐るかと思われたが、なんという意外、なんという不思議! 彼女は生れ変ったように溌剌《はつらつ》として舞台の上を踊り狂った。
ウワーッ! という歓声、ただもう大歓声で、シャンデリヤの輝く大天井《だいてんじょう》も揺《ゆる》ぎ落ちるかと思うような感激の旋風が、一階席からも二階席からも三階席からも四階席からも捲《ま》き起った。
「ジュリア! 世界一のジュリア!」
「われらのプリ・マドンナ、ジュリア!」
「殺してくれい、ジュリア!」
「百万ドルの女優!」
と、後はなにがなんだか、破《わ》れかえるような騒ぎで、合唱も器楽も揉《も》み消されてしまった。実に空前《くうぜん》の大喝采《だいかっさい》、空前の昂奮だった。――何がジュリアをこうも元気づけたか?
一番前の列にいた勇少年は、隣りの大辻の腕をひっぱって叫んだ。
「ああ、たいへんだ。あれ御覧よ。白い鴕鳥の扇から、真赤な血が飛び散っているよ」
「呀《あ》ッ。――これはいけない。ホウあのようにジュリアの衣裳の上から血がタラタラと滴《したた》れる!」
しかし他の者は、昂奮の渦巻の中に酔って、そんなことに気のつく者は一人もなかった。ワーッワーッと、まるで闘牛場のような騒ぎだった。――その嵐のような歓呼の絶頂《ぜっちょう》に、わが歌姫赤星ジュリアはパッタリ舞台に倒れて虫の息となってしまった。間髪《かんぱつ》を入れず、舞台監督の機転で、大きな緞帳《どんちょう》がスルスルと下りた。それがジュリアの最後の舞台だった。
青竜王の西一郎は、誰よりも真先《まっさき》に飛んで来て、ジュリアを抱き起した。
「ジュリアさん。どうしたんです。しっかりしなさい、ジュリアさん」
ジュリアはまるで意識がなかった。
「早く医者を呼んで……」
青竜王は誰にともなく命じると、そのままジュリアを抱《かか》えあげて、とっとっと三階の彼女の部屋にまで運んだのであった。
扉《ドア》をあけて入ると、室の中央にはいつになく大きなソファが出してあり、その上には真白の絹の布《きれ》がフワリと掛けてあった。
「ああ、これがジュリアの覚悟《かくご》だったんです」
そういって青竜王は、ジュリアをソッとその白絹《しろぎぬ》の上に横たえた。――右の上膊《じょうはく》に、喰い切ったような傷口があって、そこから鮮かな血を噴《ふ》いているのが発見されたのもこの時だった。傷口は直ちに結ばれたけれど、それは彼《か》の深傷《ふかで》にとって、何の足しにもならなかった。
近所の医師が、看護婦を連れて飛びこんで来て、早速《さっそく》診察をしたけれど、その後で医師は不機嫌に首を振って、一語も喋《しゃべ》ろうとはしなかった。
「ジュリアさん。僕が分るかい。僕は一郎だよ」
といって、青竜王はジュリアの額を撫《な》でてやった。その声が感じたのか、ジュリアは微《かす》かに目を開いた。そして苦しそうに口を動かしていたが、やっとのことで、
「千鳥さんにも、詫《わ》びてちょうだい。……お二人して……祈ってネ……」
とまで云ったかと思うと、俄《にわ》かに胸を大きく波うたせて、息を引取ってしまった。
「ああ、お気の毒なことをしました。最早《もはや》、御臨終《ごりんじゅう》です」
と医師は脈を握っていた手を離して、ジュリアの遺骸《いがい》に向い恭《うやうや》しく敬礼をした。
先ほどから、ジュリアの身体より遠くの方に遠慮していた雁金検事と大江山捜査課長とは、このとき目交《めくば》せをすると、静かにジュリアの枕許《まくらもと》に歩をうつして、ジュリアの冥福を祈念《きねん》した。
「ジュリアさんの最後の舞台を見てくれましたか」と一郎は二人に声をかけた。
二人は軽く肯《うなず》いた。
「あの最後を飾った素晴らしい踊は、ジュリアが吾れと吾が血潮を吸って、その勢いでもって踊ったのです。今日という今日まで、まさか自分の血潮を啜《すす》ろうとは思っていなかったでしょうに……」
といって、一郎は暗然《あんぜん》と涙を嚥《の》んだ。そして懐中を探《さ》ぐると一と揃いの覆面を出して、ソッとジュリアの枕辺に置いた。――これを見た大江山は始めて気がついたらしく、ハッと一郎の顔を睨《にら》んだ。
「ジュリアの死と共に、覆面探偵も死んでしまったのです。もう探偵をするのが厭《いや》になりました」
そういって青竜王ならぬ一郎は、卓越《たくえつ》した手腕《しゅわん》を自《みずか》ら惜し気もなく捨ててしまった。
ジュリアの遺骸は、彼女と仲のよかった舞姫《まいひめ》たちが、何処からともなく持ってくる白い百合《ゆり》やカーネイションやマガレットの花束で、見る見るうちに埋《うず》もれていった。
* * *
一郎は臨終のジュリアから頼まれたとおりの謝罪のことを矢走千鳥《やばせちどり》に伝えることを忘れなかった。そして、これもジュリアの望んでいたように、彼は千鳥と結婚をした。二人の仲は極めて円満《えんまん》である。
「君は(――と一郎は愛妻《あいさい》のことを今もこう呼んでいた)青竜王と一郎とが同じ人物だったということを、ジュリアさんの亡《な》くなった時まで知らなかったろう」
「アラ自惚《うぬぼ》れていらっしゃるのネ。一郎さんが青竜王だってことは、ゴルフ場の浴室から素ッ裸のあたくしを伯父さんの病院に運んで下さった、そのときから知ってましたわ」
「へえ、そうかネ」
「へえそうかネ――じゃありませんわ。あのとき自動車の中であたくしは薄目《うすめ》を開いてみたんですの。貴下《あなた》の覆面は完全でしたけれど、その下から覗いているネクタイが一郎さんのと同じでしたわ。そこでハハンと思っちゃったのよ」
「そうかネ、それは大失敗だ。……しかし僕が自分より一枚上手の名探偵を妻君《さいくん》にしたことは大成功だろう。はッはッはッ」
底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「富士」
1934(昭和9)年8月号〜11月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※「青竜王」と「青龍王」、「竜宮劇場」と「龍宮劇場」の混在は底本通りです。
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2004年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(
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