》びた。
「あの――お姉さま」と千鳥がトントンと間の板壁を叩いた。
「お姉さまが黙っていると、なんだか、独《ひとり》ぽっちでいるようで怖いのよ。あたし、お姉さまのところへ入っていってはいけないこと?」
「あらいやだ。まあ早くお洗いなさいよ。――そう、いいことがあるわ。じゃあ、あたしがここで歌を唄ってあげるわ。世話の焼ける人ネ」
 そういってジュリアは千鳥のために、美しい口笛を吹きならしたのであった。その歌はいわずと知れた彼女の十八番《おはこ》の「赤い苺の実」の歌だった。
 千鳥もそれに力を得たか、騒ぐのをやめてシャーッと噴泉の栓をひねって、しなやかに伸びた四肢《しし》を洗いはじめた。
 それから何分のちのことだったかよく分らないが、この噴泉浴室の中から、突如として魂消《たまぎ》るような若い女の悲鳴が聞えた。それは一人のようでもあり、二人のようでもあった。と、途端《とたん》にガチャーンといって硝子《ガラス》の破《わ》れるような凄《すさま》じい音がして、これにはクラブ館《ハウス》の誰もがハッキリと変事《へんじ》に気がついたのだった。
 いつもは男子絶対|禁制《きんせい》の婦人浴場だったけれど、誰彼《だれかれ》の差別なく、入口から雪崩《なだ》れこんだ。
「どうしましたッ」
 と真先《まっさき》に入ったのは、クラブの事務長の大杉《おおすぎ》だった。しかし内部からはウンともスンとも返事がなかった。
 彼は手前にある四番浴室をサッと開いた。そこにはジュリアの衣服が脱ぎ放《ぱな》しになっていた。ノックをして奥の仕切を押し開いたが、どうしたものかジュリアが居ない。噴泉はシャーッと勢いよく出ていた。
 彼は直ぐそこを飛び出すと、次の五番浴室に闖入《ちんにゅう》した。そこには派手な千鳥の衣類が花を蒔《ま》いたように床上《ゆかうえ》に散乱《さんらん》していた。格闘があったのに違いない。事務長はそこで胸を躍らせながら、奥の仕切をサッと開いた。
「呀《あ》ッ!」
 と叫ぶなり、彼は慌てて仕切を閉じた。彼は見るに忍びないものを見たのだ。そこには一糸も纏《まと》わないジュリアが、大理石彫《だいりせきぼ》りの寝像であるかのように、あられもない姿をしてタイルの上に倒れていたのであった。
「オイ、退《ど》いた退《ど》いた」
 と背後に大きな声がした。雁金検事と大江山捜査課長とが入ってきたのだ。
 噴泉を停め、ジュリアを抱き起すと、彼女は失心《しっしん》からやっと気がついた。
「どうしたのです。そして千鳥さんは……」
「ああ、千《ち》いちゃんは、……」とジュリアは白い腕を頭の方にあげて何か考えているようだったが、
「――誰かが攫《さら》って……」といって入口の方を指《ゆびさ》したと思うと、ガックリと頭を垂《た》れた。ジュリアはまた失心してしまったのだった。
「ナニ、千鳥さんは攫われたというのか」
 課長はジュリアを検事に預けて、自分は浴室を飛びだした。見ると正面の窓硝子が上に開いて、しかも硝子が壊《こわ》れている。さっきの酷《ひど》い音はこれだったのだ。怪人物は千鳥を奪って、此処《ここ》から逃げたのに違いない。
 彼はヒラリと窓を飛び越して、外へ出た。
 そしてあたりを見廻わしたが、クラブの囲《かこ》いの外は、茫々《ぼうぼう》たる草原が見えるばかりで、怪人物の姿は何処にも見えなかった。ただ遥《はる》か向うを、濛々《もうもう》たる砂塵《さじん》が移動してゆくのが目に入った。
「ああ、あれだッ。自動車で逃げたナ」
 彼は玄関に廻ってみると、そこで連《つ》れて来た運転手とバッタリ出会った。
「課長さん。自動車を盗まれてしまいました」
 と運転手は青くなって云った。
 後には自動車が一台もなかった。だから向うを怪人物が裸身《らしん》の矢走千鳥を乗せたまま逃げてゆくのを望みながらも、何の追跡する方法もなかった。
「そうだ、電話をかけよう」
 事務室に飛びこんだ課長は、まどろこしい郊外電話に癇癪玉《かんしゃくだま》を爆発させながら、それでも漸《ようや》く警察署を呼び出し、自動車|取押《とりおさ》え方《かた》の手配をするとともに、また至急《しきゅう》自動車をゴルフ場へ廻すように頼んだ。そして検事の待っている方へ歩いていった。
 ジュリアは事務室の中で、急拵《きゅうごしら》えのベッドの上に寝かされていた。枕頭《ちんとう》には医学博士蝋山教授が法医学とは勝手ちがいながら何くれとなく世話をしていた。雁金検事は腕を拱《こまね》いて沈思《ちんし》していたが、課長の入ってくるのを見るなり、
「矢走|嬢《じょう》は見つかったかネ」
 と聞いた。課長は一伍一什《いちぶしじゅう》を報告して、見失ったのを残念がった。
「ジュリアさんは、何か話をしましたか」
 と課長の問うのに対し、検事は掻《か》い摘《つ》まんで話をした。――ジュリアの話によると、彼女は噴泉を浴びているうちに、隣室の千鳥が只ならぬ悲鳴をあげたので、愕《おどろ》いて隣室へ飛びこんでみると、どこから入ったか、一人の怪漢が千鳥を襲っているので、背後《うしろ》から組みついたところ、忽《たちま》ち振り倒されて気を失った。気がついたら、こんなところに寝ていたというのであった。
「その怪漢の顔とか、服装には記憶がありませんか」
「咄嗟《とっさ》の出来ごとで、何も分らないそうだ。背後《うしろ》から組みついたので、顔も見えないというのだよ」
 そのときジュリアは目をパッチリ明いて、もう大丈夫だから、竜宮劇場の出場に間に合うよう帰りたい。西一郎を呼んでくれるようにと云った。
「ああ、西一郎。彼はどこへ行ったんです」
「一郎君が見えないネ。――」
 と不審《ふしん》をうっているところへ、扉《ドア》が明いて、彼がヌッと入って来た。
「オイ君はこの騒ぎの中、どこにいたのだい」
 と課長は目を光らせていった。
「ちょっと外へ出て、畠を見ていたのです。都会人はこんなときでなければ、野菜の生えているところなんか見られませんよ」と云ったけれど、何だかわざとらしい弁解のように聞えた。
 ジュリアは西の声を聞くと、一層《いっそう》帰りたがった。そこで西の外《ほか》に検事が附添って帰ることになり、大江山課長と蝋山教授は残ることになった。丁度警察から差し廻しの自動車が来ていたので、三人は直ぐ東京へ出発することが出来た。
「どうも西という男は曲者《くせもの》だて」と、蝋山教授は頭を大きく左右へ振った。
「まさか西一郎が、千鳥を襲撃したのじゃあるまいな」と課長は独《ひと》り言《ごと》をいった。
「それは何とも云えぬ。――」
 といっているところへ、警笛《けいてき》をプーッと吹き鳴らしつつ、紛失した大江山の自動車が帰って来た。課長は愕いて玄関へ走りだしたが、中からは意外にも、彼の連れていた運転手の怪訝《けげん》な顔が現れた。
「自動車がございました。二百メートルばかり向うの畠の中に自動車の屋根のようなものが見えるので行ってみました。すると、愕いたことに、これが乗り捨ててあったのです」
「フーン」
 と大江山は呻《うな》った。一体何者の仕業《しわざ》か。西一郎がやったのか、それとも例のポントスが現れたのか、或いはまたその辺を徘徊《はいかい》している筈の覆面探偵の仕業か。――一方、矢走千鳥は天に駆《か》けたか地に潜《もぐ》ったか、杳《よう》として消息が入らなかった。
 だが、矢走千鳥は無事に生きていた。彼女は多摩川《たまがわ》を眼下《がんか》に見下ろす、某病院の隔離病室《かくりびょうしつ》のベッドの上で、院長の手厚い介抱《かいほう》をうけていた。
「もう大丈夫です。静かにしていれば、二三日で癒《なお》ります。身体にはどこにも傷がついていません。ただ駭《おどろ》きが大きかったので、すこし心臓が弱っています。あまり昂奮しないのがよろしい」
「あたくし、誰かに逢いたいのですが」
「イヤ尤《もっと》もです。そのうち誰方《どなた》か見えましょう」
 そんな会話が繰返《くりかえ》されているうちに、夜更《よふ》けとなった。このとき病院の玄関に、一人の男が訪れた。院長の許可が出て、上へあげられた彼は、矢走千鳥の病室に通った。
「まあ、西さん。――よく来て下すったのネ」
 西はただニコニコ笑うだけだった。
「誰も来て下さらないので、悲しんでいたところですわ」
「僕は、ソノ青竜王から行って来るように頼まれたんです。当分|外《ほか》に誰も来ないでしょう。院長から許しが出るまで、一歩も寝台の上から降りないことですネ」
「ええ、貴方が仰有《おっしゃ》ることなら、あたくし何でも守りますわ。……ねえ、西さん」
「なんです、千鳥さん」
「あたくし、貴下《あなた》に、どんなにか感謝していますのよ。お分りになって……」
「感謝?――僕は何にもしませんよ。ああ、助けられたことですか。あれなら青竜王に感謝して下さい。……イヤ、そんなことを今考えるのは身体に障《さわ》りますよ。何ごとも暫《しばら》くは忘れていることです。誰かが聞いても、何にも喋《しゃべ》ってはいけません。千鳥さんは当分、生《い》ける屍《しかばね》になっていなくちゃいけないんですよ、いいですか」
「生ける屍――貴下の仰有ることなら、屍になっていますわ」
 といってニッコリ微笑んだが、攫《さら》われた千鳥は一体何を感謝しているのだろう。


   覆面探偵の危難《きなん》


 矢走千鳥《やばせちどり》の誘拐事件《ゆうかいじけん》は、なんの手懸《てがか》りもなく、それから一日過ぎた。
 雁金検事はそのことで、大江山捜査課長を検事局の一室に招いた。
「君の怠慢にますます感謝するよ。いよいよ儂《わし》たちは新聞の社会面でレコード破りの人気者となったよ。第一千鳥の神隠《かみがく》しはどうなったんだ。玉川ゴルフ場から十分ぐらいの半径《はんけい》の中なら、一軒一軒当っていっても多寡《たか》が知れているではないか。どうして分らぬのか、分らんでいる方が六《むつ》ヶ|敷《し》いと思うが……」
「イヤそれが不思議にも、どうしても分らないのです。ひょっとすると、犯人は夜のうちに千鳥をもっと遠いところに移したかもしれないのです。しかし御安心下さい。あの犯人も吸血鬼も、同一人物だと睨《にら》んでいて、別途《べっと》から犯人を探しています」
「別途からというと、君の覘《ねら》っている犯人というのは誰だい」
「ポントス――つまりキャバレーの失踪《しっそう》した主人ですネ。部下は懸命に捜索に当っています。今明日中《こんみょうにちじゅう》にきっと発見してみせますから」
「彼奴《きゃつ》はもう死んでいるのじゃないか」
「死んでいてもいいのです。ポントスの持っている秘密が、恐怖の口笛にまつわる吸血鬼事件の最後の鍵なんです」
「ほほう」と検事は目を丸くして「では儂が首を縊《くく》らん前に、事件の真相を報告するようにしてくれ給《たま》え」
 大江山が帰ると間もなく、覆面探偵から電話がかかって来た。
「雁金さん。いよいよ犯人を決定するときが来ましたよ」
「ほほう。イヤこれは盛《さか》んなことだ」
「まぜかえしてはいけませんよ。それで一つ、お願いがあるのですけれど……」
「犯人を国外に逃がす相談なら、今からお断《ことわ》りだ」
「そうではありません。実は今夜、たしかに吸血鬼と思われる怪人物から会見を申込まれているのです」
「うん、それはお誂《あつら》え向《む》きだ。では新選組《しんせんぐみ》を百名ばかり貸そうかネ」
「いえ、向うでは僕一人が会うという条件で申込んで来ているのです」
「そんな勝手な条件なんか、蹂躙《じゅうりん》したまえ」
「そうはいかないですよ。――で僕は独《ひと》りで会うつもりなんですが、もし今夜九時までに、僕が貴下《あなた》のところへお電話しなかったら、貴下の一番下のひきだしの中に入っている手紙をよんで下さい」
「なんだ、手紙が入っているんだって?」なるほど誰がいつの間に入れたか、白い四角な封筒が入っていた。「あったあった。こんなもの直《す》ぐ明けられるじゃないか」

前へ 次へ
全15ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング