。ここはパチノの墓穴なのだ。この深夜《しんや》、一体何ごとが起ったというのであろう。ジュリアを責《せ》める男は誰人《だれ》? そして地底に現われた吸血鬼は、そも何処に潜《ひそ》める?


   生か死か、覆面探偵


 帝都の暗黒界からは鬼神《きしん》のように恐れられている警視庁の大江山捜査課長は、その朝ひさかたぶりの快《こころよ》い目覚《めざ》めを迎《むか》えた。それは昨夜《ゆうべ》の静かな雨のせいだった。それとも痣蟹仙斎が空中葬《くうちゅうそう》になって既に四日を経《へ》、それで吸血鬼事件も片づくかと安心したせいだったかもしれない。――課長は寝衣《ねまき》のまま、縁側《えんがわ》に立ち出でた。
「――手を腰に膝を半ば曲げイ、足の運動から、用意――始めッ!」
 ラジオが叫ぶ一《イチ》イ二《ニ》イ三《サン》ンの号令に合わせて、課長は巨体をブンブンと振って、ラジオ体操を始めた。彼は何とはなしに、子供のような楽しさと嬉しさとが肚《はら》の底からこみあげて来るのを感じた。
「よしッ! この元気でもって、帝都市民の生活を脅《おびや》かすあらゆる悪漢どもを一掃《いっそう》してやろう」
 課長はその悪漢どもを叩きのめすような手附きで、オ一《イ》チ二《ニ》イと体操を続けていった。しかしその楽しさも永くは続かなかった。そこには大江山捜査課長の自信をドン底へつき落とすようなパチノ墓地《ぼち》の惨劇《さんげき》が控えていたのであった。昨夜《さくや》起ったそのパチノ墓地事件の知らせは、雁金検事からの電話となって、ジリジリと喧《やかま》しく鳴るベルが、課長のラジオ体操を無遠慮《ぶえんりょ》に中止させてしまった。
「お早ようございます。ええ、私は大江山ですが……」
「ああ、大江山君か」と向うでは雁金検事の叩きつけるような声がした。――御機嫌がよくないナ、「君の部下はみんな睡眠病に罹《かか》っているのかネ。もしそうなら、皆病院に入れちまって、憲兵隊の応援を申請《しんせい》しようと思うんだが……」
 検事の言葉はいつに似合わず針のように鋭かった。
「え、え、一体どうしたのでしょうか。私はまだ何も知らないんですが……」
「知らない? 知らないで済むと思うかネ。すぐキャバレー・エトワールの地下に入ってパチノ墓地を検分《けんぶん》したまえ。その上でキャバレーの出入口を番をしていた警官たちを早速《さっそく》、伝染病研究所へ入院させるんだ。いいかネ」
 ガチャリと、電話は切れてしまった。こんなに検事が怒った例を、大江山は過去に於《おい》て知らなかった。エトワールの張番がどうしたというのだろう。パチノ墓地というのは何のことだろう?
 彼は狐に鼻をつままれたような気持で暫《しばら》くは呆然《ぼうぜん》としていたが、やがてハッと正気《しょうき》にかえって、急いで制服を身につけ短剣を下げると、門前に待たせてあった幌型《ほろがた》の自動車の中に転がりこむように飛び乗った。
「オイ大急ぎだ。銀座のキャバレー・エトワールへ。――十二分以上かかると、貴様も病院ゆきだぞ!」
 運転手は何故そんなことを云われたのか解《げ》せなかったが、病院へ入れられては溜《たま》らないと思って、猛烈なスピードで車を飛ばした。
 キャバレーには雁金検事が既に先着《せんちゃく》していて、埃《ほこり》の白く積ったソファに腰を下ろし、盛んに「朝日」の吸殻《すいがら》を製造していた。そして大江山課長が顔を出すと、
「ああ大江山君、悦《よろこ》んでいいよ。儂《わし》たちはまた夕刊新聞に書きたてられて一段と有名になるよ。全《まった》く君の怠慢《たいまん》のお陰だ」
 鬼課長はこれに応える言葉を持っていなかった。それで現場検分《げんじょうけんぶん》を申出でた。検事は点《つ》けたばかりの煙草を灰皿の中へ捨てながら、「儂は君が検分するときの顔を見たいと思っていたよ」と喚《わめ》いたが、そこで急に声を落して、日頃の雁金検事らしい口調になり、「全く、君のために特別に作られた舞台のようなのだ。しかし先入主はあくまで排撃《はいげき》しなけりゃいかん」
 妙なことを云われると思いつつ、課長は雁金検事の先に立って、地下の秘密の通路から、地底に下りていった。地底には無限の魅惑《みわく》ありというが、その魅惑がよもやこのさんざん検《しら》べあげたキャバレーの地底にあろうとは思いもつかなかったことであった。――崩れかかったような細い石造《せきぞう》の階段が尽《つ》きていよいよ例のパチノ墓穴に入ると、そこには急設《きゅうせつ》の電灯が、煌々《こうこう》と輝いて金貨散らばる洞窟《どうくつ》の隅から隅までを照らし、棺桶の中の骸骨《がいこつ》も昨夜《さくや》そのまま、それから虚空《こくう》を掴《つか》んで絶命《ぜつめい》している痣蟹仙斎の屍体もそ
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