ろう。いやもっと気をつけて見るなれば、その空樽を支《ささ》えた壁体《へきたい》の隅が縦《たて》に裂《さ》けて、その割れ目に一つの黒影が滑《すべ》りこんだのを認めることができたであろう。
 そこは隠されたる秘密階段で、さらにまた深い地底へ続いていた。用心ぶかくソロソロと降りてゆく黒影の人物の手は休みなしに懐中電灯の光芒《こうぼう》の周囲《まわり》の壁体を照らしていた。そのうちにどうした拍子《ひょうし》かその反射光《はんしゃこう》でもって顔面《がんめん》がパッと照らしだされたが、それを見ると、この黒影の人物は、かなりがっちりした骨組《ほねぐみ》の巨人で、眼から下を黒い布《ぬの》でスッポリと覆い、頭には帽子の鍔《つば》を深く下げていた。覆面の怪漢――そういえば、これは例の問題男の青竜王と寸分ちがわぬ服装をつけていた。おお、いよいよ青竜王が乗りこんで来たのであろうか。
 彼は静かに階段を下りていった。下はかなり広いらしい。江戸時代の隠《かく》し蔵《ぐら》というのはこんな構造ではなかったか。――下では何をしているのか、ときどきゴトリゴトリという物音が聞えるばかりで、いつまで経《た》っても彼は出てこなかった。恐ろしい静寂《せいじゃく》、恐ろしい地底の一刻!
 そのとき、どこかで微かに口笛の音がしたと思った。それは気のせいだったかも知れないと人は疑《うたが》ったろう。しかしそれは確かに口笛に違いなかった。次第に明瞭《めいりょう》になる旋律《メロディ》。ああそれは赤星ジュリアの得意な「赤い苺の実」の旋律――しかしこの場合、なんという恐ろしい口笛であったろう。暗い壁が魔物のように、かの怪しい旋律を伴奏した。……と、突如――まったく突如として、魂切《たまぎ》るような悲鳴が地底から響いて来た。
「きゃーッ、う、う、う……」
 しかし、それきりだった。悲鳴は一度きりで、再び聞えてこなかった。
 戦慄《せんりつ》すべき惨劇が、その地底で行われたのだった。その現場《げんじょう》へ行ってみよう。
 これはまた何という無惨なことだ。――そこはもう行《ゆ》き止《どま》りらしい地底の小室《こべや》だった。一人の男が、虚空《こくう》をつかんでのけ反《ぞ》るように斃《たお》れている。その傍には大きな箱が抛《ほう》り出してある。蓋を明け放しだ。中から白いものがチラと覗いているが、よく見れば気味の悪い骸骨《がいこつ》だった。そしてそのまわりには丸い金貨がキラキラと輝いている。金貨は地面にもバラバラと散乱している。その側《そば》には一片のひきちぎれた建築図が落ちている。それは痣蟹の秘蔵《ひぞう》の図面《ずめん》に違いなかった。――それ等の凄惨《せいさん》な光景は、一つの懐中電灯でまざまざと照らし出されているのであった。
 懐中電灯は静かに動く。――そして函の陰へ隠れている斃死者《へいししゃ》の顔面を照らし出す。まず、目につくのは、鋭い刃物で抉《えぐ》ったような咽喉部《いんこうぶ》の深い傷口――うん、やっぱりさっき口笛が聞えたとき、残虐《ざんぎゃく》きわまりなき吸血鬼が出たのだ。帽子は飛んでしまっているが、グッと剥《む》きだした白眼の下を覆う黒い覆面の布。おお、これは先刻《さっき》この地底へ下っていった黒影の人物だった。そして知っている人ならば、誰でもこれがいま都下《とか》に名高い覆面探偵青竜王だと云い当てたろう。ああ、青竜王は殺されたのだ。なぜこんな地底でムザムザと殺されてしまったのだろう。
「いいですか。この覆面を取ってみましょう」
 闇の中から男の声がした。それは懐中電灯を持っている人物の声だろう。
 光芒の中に、一本の腕がヌッと出てきた。それは屍体の覆面の方に伸び、黒い布を握った。ずるずると覆面は剥《は》がれていった。そして果然《かぜん》その下から生色を失った一つの顔が出て来た。ああ、その顔、その顔、蝋《ろう》のようなその顔の、その頬には醜《みにく》い蟹の形をした痣《あざ》が……
「おお、これは痣蟹仙斎《あぎがにせんさい》……」
 なんということだ。覆面探偵というのは、痣蟹仙斎だったのか。しかし不思議だ。そんなことが有り得るだろうか。だがここに無惨なる最期《さいご》を遂《と》げているのは、正に兇賊《きょうぞく》痣蟹に違いなかった。
「貴女《あなた》は失踪中のポントスのことを云うが、しかし誰でも貴女の釈明を要求しますよ」
 と懐中電灯の男はいう。どっかで聞いた声音《こわね》である。
「いいえ、あたしは犯人じゃありません。このジュリアは貴方の電話でうまく此処《ここ》へ誘《さそ》いだされたのです。陥穽《わな》です、恐ろしい陥穽なんです。ああ、あたし……」
 と、よよと泣き崩れる声は、意外にも今を時めく、龍宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアに違いなかった。
 それで解った
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