と屍体から手を離した。血潮は頸部を伝わって、スーッと走り落ちた。――何者かが頸動脈《けいどうみゃく》を切り裂いたのに違いなかった。
「なんという惨たらしい殺し方だ。頸を締めたうえに、頸動脈まで切り裂くとは……」
だが、これは随分御丁寧な殺し方である。それほど四郎は、人の恨《うら》みを買っていたのだろうか。いやそんな筈はない。誰にも好かれる彼に、そんな惨酷な手を加える者はない筈《はず》だった。――一郎は、不審にたえない面持で、もう一度|創傷《きりきず》を覗きこんだ。その結果、彼は屍体の頸部に恐ろしいものを発見した。恐ろしい人間の歯の痕《あと》を!
それは傷口に近い皮膚のうえに残っている深い歯の痕だった。一つ、二つ、三つと、三ヶ所についていた。もう一つの歯痕は見えなかった代りに、当然そこに歯痕のあるべき皮膚面が抉《えぐ》ったように切れこんでいた。恐らく上顎の糸切歯《いときりば》がここに喰いこんで、四郎少年の皮膚と肉とを破り、頸動脈をさえ喰い切ったのであろう。ああ、何者の仕業であろう。人間を傷つけるに兇器《きょうき》にこと欠《か》いたのかはしらぬが、歯をもって咬《か》み殺すとは何ごとであるか。まるで獣《けもの》のような殺し方である。大都会の真中にこんな恐ろしい獣人《じゅうじん》が出没《しゅつぼつ》するとは有り得ることだろうか。一郎は自分の眼を疑った。
「憎《にく》い奴、非道《ひど》い奴!――こんなむごたらしい殺し方をしたのは、何処の何者だッ」
このとき一郎は、さっき聞くともなしに聞いた口笛のことを思い出した。その口笛が弟の惨殺事件になにか関係のあるだろうということは、もっと早く思い浮べなければならなかったのだけれど、彼はあまりに悲しい場面に直面して、ちょっと忘れていたのであろう。
「そうだ、あの口笛は誰が吹いていたのだろう?」
「赤い苺の実」の歌――それは、ひょっとすると、殺された弟が吹いていたのかも知れないと思った。
「イヤ弟ではない――」
あの怪しい口笛は、弟の発したらしいキャーッという悲鳴の前にも聞えていたが、それからのち彼が繁みの小径を探そうとして一生懸命になっているときにも、どこからともなく耳にしたではないか。殺された人間が口笛を吹くはずがない。――では口笛を吹いていたのは何者だ。
「ウム、その口笛の主が、弟を殺した獣人に違いない!」
そうだ、あの「赤い苺の実」の歌というのは実は「吸血鬼」の歌なのだ。第五節目の歌詞には「あなたの心臓をちょうだいな、あたしは吸血鬼」といったような文句があるではないか。竜宮劇場の舞台から艶《あで》やかな赤星ジュリアの歌を聴いているような気持で、あの悲鳴入りの口笛を聴き過ごすことはできない。吸血鬼の歌を口笛に吹いた奴が、あの殺人者に違いあるまい。ひょっとすると、あの妖しい歌に誘われ、蝙蝠《こうもり》のような翅《はね》の生えた本物の吸血鬼がこの黄昏の中に現われて、その長い吸盤《きゅうばん》のような尖《とが》った唇でもって、愛弟の血をチュウチュウと吸ったのではあるまいかと思った。とにかく悲鳴がしてから四五分経って駈けつけたのだから、まだその附近に、恐ろしい吸血鬼がひそんでいるかも知れない。
「よオし。愚図愚図《ぐずぐず》していないで、その吸血鬼を捉《とら》えてやらねばならん」
西一郎は咄嗟《とっさ》に決心を固めた。そして彼は身を起すと、芝草を踏んで、小径の方へ駈けだした。
「こーら、出てこい。人殺し奴《め》、出てこい。……」
彼は阿修羅《あしゅら》のようになって、ここの繁み、かしこの藪蔭に躍り入った。彼の上品な洋袴《ズボン》はところどころ裂け、洋杖《ケーン》を握る拳《こぶし》には掻《か》き傷《きず》ができて血が流れだしたけれど、一郎はまるでそれを意に留めないように見えた。
公園の東の隅には、元の見附跡《みつけあと》らしい背の高い古い石垣が聳《そび》えていた。ここはあまりに陰気くさいので、いかに物好きな散歩者たちも近よるものがなかった。一郎は前後の見境《みさかい》もなく、石垣の横手から匍《は》いこんだ。そこには大きな蕗《ふき》の葉が生《は》え繁《しげ》っていたが、彼が猛然とその葉の中に躍りこんだとき、思いがけなくグニャリと気味のわるいものを踏みつけた。
「呀《あ》ッ――」
と、彼は其の場に三尺ほど飛び上った。
だが彼は、その叫び声に続いて、もう一つの驚きの声を発しなければならなかった。なぜなら、その密生した蕗の葉の中から、イキナリ一人の男が飛びだしたからであった。一郎が踏みつけたのは、その葉かげに寝ていたかの男の脚だったにちがいない。
「……」
一郎は、呼吸《いき》をはずませて、相手の方を睨《にら》んだ。ああ、それは何という恐ろしい顔の男であったろう。背丈はあまり高くないが、肩幅
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