の広いガッチリした体躯の持ち主だった。そして黝《くろ》ずんだ変な洋服を着ていた。その幅広の肩の上には、めりこんだような巨大な首が載っていた。頭髪は蓬《よもぎ》のように乱れ、顔の色は赭黒《あかぐろ》かった。しかしなによりも一郎の魂を奪ったものは、その男の赭顔の半面にチラと見えた恐ろしく大きな痣《あざ》であった。
「待て――」
一郎は相手を見てとると、勇敢に突進していった。痣のある男はヒラリと身体をかわして逃げだした。
「オイ、待たないか――」
その怪人は、はたして弟四郎を殺した彼の恐るべき吸血鬼であるのかどうかハッキリ分らない。しかし折も折、この夕暗《ゆうやみ》どきに人も通らぬ石垣裏の蕗の葉の下に寝ているとは、たしかに怪しい人物に違いなかった。追いついて、組打ちをやるばかりである。
怪人は物を云わず、ドンドンと逃げだした。その行動の敏《すばや》いことといったら、どうも人間業とは思えなかった。高い石垣を見上げたと思うと、ヒョイと長い手を伸ばして、バネ仕掛けのように飛び越えた。まるで飛行機が曲芸飛行をしているような有様だった。一郎がようやく石垣を攀《よ》じのぼって、下の池の方を見下《みお》ろすと、かの怪人はもう池の向う岸にいた。池の水面には小さなモーターボートでも通ったように、二条の波紋が長くあとを引いていた。どうして彼が池を渉《わた》り越えたのやら分らなかった。
一郎は池を大迂回しなければならなかった。しかし一郎の予想は当って、怪人はドンドン西の方に逃げてゆく。そっちの方には弟の惨殺屍体の転がっている竹藪があった。だから怪人はきっとその辺へ潜りこむつもりだろう。そうなれば怪人の正体もハッキリして来るというものだ。
「誰か、手を借して呉れーッ」
一郎は声をかぎりに叫ぼうとしたが、咽喉がカラカラに乾いて、皺枯《しわが》れた弱い声しか出なかった。そのうちに怪人は、弟の死霊《しりょう》に惹《ひ》きよせられるもののように、問題の藪だたみの方に足を向けると、ガサガサと繁みを分けて姿を消してしまった。それを見て一郎はムラムラと復讐心の燃えあがってくるのを感ぜずにはいられなかった。
彼は急に進路を曲げた。それは抜け道をして、弟の屍体の転がっている裏の方の繁みの中からワッと躍りでるつもりだった。それは怪人の不意を打つことになって、たいへん有利だと思ったからだった。
間もなく一郎は、目的の繁みに出た。それは灌木の欝蒼《うっそう》とした繁みで、足の踏み入れるところもないほどだった。彼は下枝を静かにかきわけながら前進した。もう屍体のある場所は間近《まぢ》かの筈だった。
「うん、あすこだ」
繁みの葉の間からは、向うに丸い芝地が見えた。近くに電灯がついているらしく、黄色く照し出されていた。その真中には、紛《まぎ》れもなく、力なく投げだされた青白い弟の腕が伸びていた。
すると、そのときだった。奇怪なことにも、その屍体の腕が生き物のようにスルスルと芝草の上を滑《すべ》りだした。あの大傷を受けた弟が生きかえったのであろうか。いや絶対にそんなことがありよう筈がない。すると――
「あの怪人めが屍体にたかって、また破廉恥《はれんち》なことをやっているのだな。よオし、どうするか、いまに見ていろ!」
彼の全身は争闘心に燃えた。こうなってはもう誰の救いも要らない。愛する弟のために、この一身を投げだして、力一杯相手の胸許にぶつかるのだッ。
「さあ来いッ」
彼は一チ二イ三ンの掛け声もろとも、エイッと繁みの中から芝草の上へ躍りだした。
「さあ来いッ――」
……と躍りだしてはみたが、そこには思いもよらず――
「アレーッ」
という若い女の悲鳴があった。
「おお、貴女《あなた》は……」
一郎はあまりの意外に、棒のように突立ったまま、言葉も頓《とみ》には出なかった。意外とも意外、その芝草の上に立っていたのは誰あろう、いま都下第一の人気もの、竜宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアその人だったからである。
裂《さ》かれた日記帳
「あら、驚いた。……まア、どうなすったの、そんなところから現われて……」
ジュリアは唇の間から、美しい歯並を見せて叫んだ。
しかし彼女は、それほど驚いているという風にも見えなかった。それが舞台度胸というのであろうか。高いところから得意の独唱をするときのように、黒いガウンに包まれたしなやかな腕を折り曲げ、その下に長く裾を引いている真赤な夜会着のふっくらした腰のあたりに挙げ、そしてまじまじと一郎の顔を眺めいった。
「僕よりも、赤星ジュリアさんが、どうしてこんなところに現われたんです」
と、一郎は屍体に何か変ったことでもありはしないかと点検しながら訊《たず》ねた。
「あら、あたくしを御存知なのネ。まあ、どうしましょう」とジュリア
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