ソリという気味のわるい音がした。
一郎は教授に耳うちして、室内の電灯のスイッチの在所《ありか》を訊《き》いた。それは室を入ったすぐの壁にとりつけてあるということだった。彼は教授の留《と》めるのも聞かず、勇躍《ゆうやく》飛んで出ると、スイッチを真暗《まっくら》の中に探《さぐ》ってパッと灯《ひ》をつけた。たちまち室内《しつない》は昼を欺《あざむ》くように煌々《こうこう》たる光にみちた。
「呀ッ、怪しい奴がッ!」
見ると黒板の左手にあたる窓が開いて、そこに一人の男が片足かけて逃げだそうとしていた。
「待てッ!」
と声をかけると、かの怪漢はクルリと室内に向き直った。ああ、その恐ろしい顔! 左の頬の上にアリアリと大痣《おおあざ》のような形の物が現れていた。
「ああ、彼奴《あいつ》だッ」
一郎はそう叫ぶと、なおも逸《はや》って怪漢に飛びつこうとする蝋山教授の腰を圧《お》さえて、教壇の陰にひきずりこんだ。
ダダーン。
轟然《ごうぜん》たる銃声が聞えたと思うよりも早く、ピューッと銃丸《たま》が二人の耳許《みみもと》を掠《かす》めて、廊下の奥の硝子窓をガチャーンと破壊した。一郎の措置《そち》がもう一秒遅かったとしたら、教授の額《ひたい》には孔があいていたかもしれない。
それから五分間――二人は鮑《あわび》のように固くなって、教壇の陰に潜《ひそ》んでいた。もうよかろうというので恐《おそ》る恐《おそ》る頭をあげて窓の方をみると、窓は明け放しになったままで、もう怪漢の姿がなかった。ホッと息をついた蝋山教授は、このとき眼を解剖台の上に移して愕然《がくぜん》とした。
「やられたッ。――屍体がなくなっている!」
なるほど、解剖台の上には屍体の覆布《おおい》があるばかりで、さっきまで有った筈の屍体が影も形もなくなっていた。
「彼奴《あいつ》が盗んでいったんですよ、ホラ御覧なさい」と一郎は床《ゆか》の上を指《ゆびさ》しながら「屍体を曳擦《ひきず》っていった跡が窓のところまでついていますよ。屍体を窓から抛《ほう》りだして置いて、それから彼奴が窓を乗越えて逃げたんです」
「うん、違いない。早く追い駆けてくれたまえ」
「もう駄目ですよ。逃げてしまって……」
「何を云っているんだ。君の弟の屍体なんじゃないか」
「追いついても、ピストルで撃《う》たれるのが落ちですよ。それよりも警視庁《けいしちょう》へ電話をかけましょう」
「君のような弱虫の若者には始めて会ったよ。駄目な奴だ」
教授はいつまでもブツブツ怒っていた。
昼間丸ノ内を徘徊《はいかい》していた痣蟹が、深更《よふけ》になってなぜ屍体を盗んでいったのだろう。一郎はなぜ弟の屍体を追わなかったのだろう。果して彼は弱虫だったろうか。
麗《うる》わしき歌姫《うたひめ》
その翌日のこと、西一郎はブラリと丸ノ内に姿を現わした。そして開演中の竜宮劇場の楽屋《がくや》へノコノコと入っていった。赤星ジュリアの主演する「赤い苺《いちご》の実《み》」が評判とみえて、真昼から観客はいっぱい詰めかけていた。いま丁度《ちょうど》、休憩時間であるが、散歩廊下にも喫煙室にも食堂にも、「赤い苺の実」の旋律《メロディ》を口笛や足調子で恍惚《こうこつ》として追っている手合が充満《じゅうまん》していた。これが流行とはいえ、実に恐るべき旋律であった。
「まア西さん、暫《しばら》くネ――」
とジュリアは一郎を快く迎えた。
「イヤ早速《さっそく》、僕のお願いを聞きとどけて下すって有難うございます。これで僕も失業者《しつぎょうしゃ》の仲間から浮び上ることができます」
一郎はジュリアに頼んで、レビュウ団の座員見習《ざいんみならい》として採用してもらうこととなったのであった。彼は長身の好男子だったし、それに音楽にも素養《そよう》があるし、タップ・ダンスはことに好きで多少の心得《こころえ》があったので、この思い切った就職をジュリアに頼んだわけだった。日頃|我儘《わがまま》な気性《きしょう》の彼女だったが、弟を殺された一郎に同情したものか、快くこの労《ろう》をとって支配人の承諾を得させたのであった。
「あら、改《あらた》まってお礼を仰有《おっしゃ》られると困るわ。――だけど勉強していただきたいわ、あたしが紹介した、その名誉のためにもネ」
「ええ、僕は気紛《きまぐ》れ者で困るんですが、芸の方はしっかりやるつもりですよ」
「頼母《たのも》しいわ。早くうまくなって、あたしと組んで踊るようになっていただきたいわ」
「まさか――」
と一郎は笑ったが、ジュリアの方はどうしたのか笑いもせず、夢見るような瞳をジッと一郎の面《おもて》の上に濺《そそ》いでいたが、暫くしてハッと吾れに帰ったらしく、始めてニッコリと頬笑《ほほえ》んだ。
「ホ、ホ、ホ、ホ
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