《しんかん》とした夜の幕を破ってときどきガチャリという金属の触《ふ》れあう音が聞えた。その怪《あや》しい物音が、室内に今起りつつある光景をハッキリ物語っているのだった。
 そこは馬蹄形《ばていがた》の急な階段式机が何重にも高く聳《そび》えている教室であった。中央の大きな黒板に向いあって、真白な解剖台がポツンと置かれてあった。その傍にはもう一つ小さい台があって、キラキラ光る大小さまざまのメスが並んでいた。解剖台の上には白蝋《はくろう》のような屍体が横たわっているが、身長から云ってどうやら少年のものらしい。それを囲《かこ》んで二人の人物が、熱心に頭と頭とをつきあわさんばかりにしていた。一人は白い手術着を着て、メスだの鋏《はさみ》だのを取りあげ、屍体の咽喉部《いんこうぶ》を切開《せっかい》していた。もう一人は白面《はくめん》の青年で、形のよい背広に身を包んでいた。この手術者は法医学教室の蝋山《ろうやま》教授、白面の青年は西一郎と名乗る男だった。そこまで云えば、台の上に載《の》った屍体が、吸血鬼に苛《さいな》まれた第一の犠牲者である西四郎のものだということが分るであろう。
「どうも素人《しろうと》は功を急いでいかんネ」と蝋山教授がいった。「やはりこうして咽喉から胸部《きょうぶ》を切開して食道から気管までを取出し、端《はし》の方から充分注意して調べてゆかなけりゃ間違いが起る虞《おそ》れがあるのだ。急がば廻れの諺《ことわざ》どおりだて」
「時間のことは覚悟をしてきました。今夜は徹夜しても拝見《はいけん》します」
「うん。時刻はこれから午前二時ごろまでが一番油の乗るときだ。君の時刻の選択はよかったよ。しかしいくら弟の屍体かは知らぬが、君は熱心だねえ。もしここから上にあるものならば、必ず君の目的のものを発見してあげるから安心するがいい。イヤどうも皮下脂肪《ひかしぼう》が発達しているので、メスを使うのに骨が折れる。こんなことなら電気メスを持ってくるんだった……」
 といっているとき、ジジジーンと、壁にかけてある大きなベルが鳴りひびいた。それはあまりに突然のことだったので、教授は、
「ややッ――」
 とその場に飛び上ったほどだった。
「何でしょう、いまごろ?」
「ハテナ誰か来たのかな。この夜更に変だなア」と教授は頭を傾《かし》げた。
 そのとき、またベルがジジジーンと、喧しく鳴った。
「ちょっと見て来よう」
 と教授はメスを下に置くと、扉《ドア》をあけて廊下へ出ていった。廊下は長かった。漸《ようや》く入口のところへ出て、パッと電灯をつけた。
「誰だな。――」
 と叫んだが、何の声もしない。
「誰だな。――」
 そういって硝子越《ガラスご》しに、暗い外を透してみていた教授は、何に駭《おどろ》いたか、
「呀《あ》ッ、これはいかん」といってその場に尻餅《しりもち》をつくと、大声に西一郎を呼んだ。
 その声はたしかに解剖室に聞えた筈だったけれど、西はどうしたのか、なかなか出て来なかった。蝋山教授は俄《にわ》かに恐怖のドン底に落ちて、急に口が出なくなって、手足をバタバタするだけだった。
「どうしたんです、先生!」
 元気な声が奥から聞えると、やっと西一郎が駈けつけた。西にやっと聞えたらしい。
「いま怪しい奴が、その硝子のところからこっちを睨《にら》んだ。ピストルらしいものがキラリと光った、と思ったら腰がぬけたようだ。どうも極《きま》りがわるいけれど……」
「ナニ怪しい奴ですって?」
 一郎は勇敢にも扉《ドア》のところへ出て、暗い戸外《そと》を窺《うかが》った。しかし彼には別に何の怪しい者の姿も映らなかった。教授はきっと何かの幻影をみたのだろうということにして、彼は教授を抱《だ》き起《おこ》して、肩に支《ささ》えた。
「あッ、冷たい。君の手は濡れているじゃないかい。向うで手を洗ったのかネ」
「いえなに……」
「なぜ手を洗ったんだ。一体何をしていたんだ。法医学教室の神聖を犯《おか》すと承知しないよ」
 一郎は口だけは達者な教授をしっかり担《かつ》いで廊下を元の解剖室の方へ歩いていった。
「おや、変だぞ」と一郎は叫んだ。
「なにが変だ」と教授は一郎の胸倉《むなぐら》をとったが「うん、これは可笑しい。教室の灯《あかり》が消えている。君が消したのか」
「いえ、僕じゃありません。僕は消しません。これは変なことだらけだから、静かに行ってみましょう。声を出さんで下さい。いいですか」
 二人は静かに戸口に近づいた。そしてじっと真黒な室内を覗きこんだ。二人はもうすこしで、呀ッと声をたてるところだった。誰か分らぬが、解剖台の上を懐中電灯で照らしている者があった。が、それはすぐ消えて、室内はまた暗澹《あんたん》の中に沈んだ。その代り、なにか重いものを引擦《ひきず》るようにゴソリゴ
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