「うん。もうそう永いことではない。エピローグまで待つことにしようじゃないか。――それから青竜王のことだが、彼奴《きゃつ》のことなら、まあ大丈夫だよ」
 と検事は先刻《せんこく》とは打って変って、楽観説を唱えたのだった。
 それには訳があった。――いま舞台の上に、赤星ジュリアの右側の方に、軽いタップダンスを踊っている燕尾服《えんびふく》の俳優は、紛《まぎ》れもなく西一郎だった。つまり覆面をしていない青竜王は何事もなかったように、たいへん楽しげに舞台に跳ねまわっているのだった。雁金検事は前からそれをよく知っていたればこそ、青竜王の肩を持ったのであった。
 だが青竜王は、傍《はた》から見るほど楽しく踊っているわけではなかった。真実彼の胸の中を切り開いてみると、九つの苦悩を一つの意志の力でもって辛《かろ》うじて支えているのだった。彼は既に非常警戒の網が敷かれたことも、舞台の上から見てとった。しかも舞台では、赤星ジュリアが蜉蝣《かげろう》の生命よりももっと果敢《はか》ない時間に対し必死の希望を賭け、救おうにも救いきれない恐ろしき罪障《ざいしょう》をなんとかして此の一瞬の舞台芸術によって浄化《じょうか》したいと願っている。――一つは大洪水《だいこうずい》のような司法の力、一つは硝子《ガラス》で作った羽毛《うもう》のようにまことに脆弱《ぜいじゃく》な魂――その二つの間に挿《はさ》まれた彼、青竜王の心境は実に辛《つら》かった。
 ――なんとかして、最後の舞台を力一杯に勤《つと》めさせたい!
 と彼は思った。だがジュリアの舞台は、もう誰の目にもそれと分るほど光りを失っていた。
「どうも変だな。ジュリアはいまにも倒れてしまいそうじゃないか」
「あたしも先刻《さっき》から、そう思っていたところよ。どうしたんでしょうネ。きっとジュリアは疲れたんでしょう」
 ――ジュリア、どうした!
 と、三階席から無遠慮《ぶえんりょ》な声が飛んだ。
 それが耳に入ったのか、ジュリアはハッと顔をあげたが、その頸《くび》のあたりは短時間のうちにアリアリと痩せ細ってみえた。
 ――ジュリア、帰って睡《ねむ》ってこい!
 と、続いて二階から頓狂《とんきょう》な声が響いた。
 ジュリアはいつの間にか力なく下に垂れた顔を、またハッとあげた。彼女はギリギリと上下の歯を噛み合わせた。が――右手に持った真白な鴕鳥《だちょう》の羽毛《はね》で作った大きな扇《おうぎ》がブルブルと顫《ふる》えながら、その悲痛きわまりない顔を隠してしまった。
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「別れの冬木立《ふゆこだち》
 遺品《かたみ》にちょうだいな
 あなたの心臓を
 ええ――
 あたしは吸血鬼……」
[#ここで字下げ終わり]
 という合唱につられたかのように、ジュリアの顔を隠した羽毛の扇がピクピクと宙を喘《あえ》いだ。――そこで曲目は断層《だんそう》をしたかのように変化し、奔放《ほんぽう》にして妖艶《ようえん》かぎりなき吸血鬼の踊りとなる――この舞台のうちで、一番怪奇であって絢爛、妖艶であって勇壮な大舞踊となる。今夜のジュリアの無気力《むきりょく》では、その辺で一《ひ》と溜《たま》りもなく舞台の上に崩《くず》れ坐るかと思われたが、なんという意外、なんという不思議! 彼女は生れ変ったように溌剌《はつらつ》として舞台の上を踊り狂った。
 ウワーッ! という歓声、ただもう大歓声で、シャンデリヤの輝く大天井《だいてんじょう》も揺《ゆる》ぎ落ちるかと思うような感激の旋風が、一階席からも二階席からも三階席からも四階席からも捲《ま》き起った。
「ジュリア! 世界一のジュリア!」
「われらのプリ・マドンナ、ジュリア!」
「殺してくれい、ジュリア!」
「百万ドルの女優!」
 と、後はなにがなんだか、破《わ》れかえるような騒ぎで、合唱も器楽も揉《も》み消されてしまった。実に空前《くうぜん》の大喝采《だいかっさい》、空前の昂奮だった。――何がジュリアをこうも元気づけたか?
 一番前の列にいた勇少年は、隣りの大辻の腕をひっぱって叫んだ。
「ああ、たいへんだ。あれ御覧よ。白い鴕鳥の扇から、真赤な血が飛び散っているよ」
「呀《あ》ッ。――これはいけない。ホウあのようにジュリアの衣裳の上から血がタラタラと滴《したた》れる!」
 しかし他の者は、昂奮の渦巻の中に酔って、そんなことに気のつく者は一人もなかった。ワーッワーッと、まるで闘牛場のような騒ぎだった。――その嵐のような歓呼の絶頂《ぜっちょう》に、わが歌姫赤星ジュリアはパッタリ舞台に倒れて虫の息となってしまった。間髪《かんぱつ》を入れず、舞台監督の機転で、大きな緞帳《どんちょう》がスルスルと下りた。それがジュリアの最後の舞台だった。
 青竜王の西一郎は、誰よりも真先《まっさき》に飛んで
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