来て、ジュリアを抱き起した。
「ジュリアさん。どうしたんです。しっかりしなさい、ジュリアさん」
 ジュリアはまるで意識がなかった。
「早く医者を呼んで……」
 青竜王は誰にともなく命じると、そのままジュリアを抱《かか》えあげて、とっとっと三階の彼女の部屋にまで運んだのであった。
 扉《ドア》をあけて入ると、室の中央にはいつになく大きなソファが出してあり、その上には真白の絹の布《きれ》がフワリと掛けてあった。
「ああ、これがジュリアの覚悟《かくご》だったんです」
 そういって青竜王は、ジュリアをソッとその白絹《しろぎぬ》の上に横たえた。――右の上膊《じょうはく》に、喰い切ったような傷口があって、そこから鮮かな血を噴《ふ》いているのが発見されたのもこの時だった。傷口は直ちに結ばれたけれど、それは彼《か》の深傷《ふかで》にとって、何の足しにもならなかった。
 近所の医師が、看護婦を連れて飛びこんで来て、早速《さっそく》診察をしたけれど、その後で医師は不機嫌に首を振って、一語も喋《しゃべ》ろうとはしなかった。
「ジュリアさん。僕が分るかい。僕は一郎だよ」
 といって、青竜王はジュリアの額を撫《な》でてやった。その声が感じたのか、ジュリアは微《かす》かに目を開いた。そして苦しそうに口を動かしていたが、やっとのことで、
「千鳥さんにも、詫《わ》びてちょうだい。……お二人して……祈ってネ……」
 とまで云ったかと思うと、俄《にわ》かに胸を大きく波うたせて、息を引取ってしまった。
「ああ、お気の毒なことをしました。最早《もはや》、御臨終《ごりんじゅう》です」
 と医師は脈を握っていた手を離して、ジュリアの遺骸《いがい》に向い恭《うやうや》しく敬礼をした。
 先ほどから、ジュリアの身体より遠くの方に遠慮していた雁金検事と大江山捜査課長とは、このとき目交《めくば》せをすると、静かにジュリアの枕許《まくらもと》に歩をうつして、ジュリアの冥福を祈念《きねん》した。
「ジュリアさんの最後の舞台を見てくれましたか」と一郎は二人に声をかけた。
 二人は軽く肯《うなず》いた。
「あの最後を飾った素晴らしい踊は、ジュリアが吾れと吾が血潮を吸って、その勢いでもって踊ったのです。今日という今日まで、まさか自分の血潮を啜《すす》ろうとは思っていなかったでしょうに……」
 といって、一郎は暗然《あんぜん》と涙を嚥《の》んだ。そして懐中を探《さ》ぐると一と揃いの覆面を出して、ソッとジュリアの枕辺に置いた。――これを見た大江山は始めて気がついたらしく、ハッと一郎の顔を睨《にら》んだ。
「ジュリアの死と共に、覆面探偵も死んでしまったのです。もう探偵をするのが厭《いや》になりました」
 そういって青竜王ならぬ一郎は、卓越《たくえつ》した手腕《しゅわん》を自《みずか》ら惜し気もなく捨ててしまった。
 ジュリアの遺骸は、彼女と仲のよかった舞姫《まいひめ》たちが、何処からともなく持ってくる白い百合《ゆり》やカーネイションやマガレットの花束で、見る見るうちに埋《うず》もれていった。
     *   *   *
 一郎は臨終のジュリアから頼まれたとおりの謝罪のことを矢走千鳥《やばせちどり》に伝えることを忘れなかった。そして、これもジュリアの望んでいたように、彼は千鳥と結婚をした。二人の仲は極めて円満《えんまん》である。
「君は(――と一郎は愛妻《あいさい》のことを今もこう呼んでいた)青竜王と一郎とが同じ人物だったということを、ジュリアさんの亡《な》くなった時まで知らなかったろう」
「アラ自惚《うぬぼ》れていらっしゃるのネ。一郎さんが青竜王だってことは、ゴルフ場の浴室から素ッ裸のあたくしを伯父さんの病院に運んで下さった、そのときから知ってましたわ」
「へえ、そうかネ」
「へえそうかネ――じゃありませんわ。あのとき自動車の中であたくしは薄目《うすめ》を開いてみたんですの。貴下《あなた》の覆面は完全でしたけれど、その下から覗いているネクタイが一郎さんのと同じでしたわ。そこでハハンと思っちゃったのよ」
「そうかネ、それは大失敗だ。……しかし僕が自分より一枚上手の名探偵を妻君《さいくん》にしたことは大成功だろう。はッはッはッ」



底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
   1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「富士」
   1934(昭和9)年8月号〜11月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※「青竜王」と「青龍王」、「竜宮劇場」と「龍宮劇場」の混在は底本通りです。
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2004年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(
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