に、静かに同じ言葉を繰《く》り返《かえ》した。
 丁度そのすこし前、竜宮劇場の赤星ジュリアの室ではまるで何かの劇の一場面のような、世にも恐ろしい光景が演ぜられていた。
 赤星ジュリアは喜歌劇に出演中だったが、彼女の持ち役である南海《なんかい》の女神《めがみ》はその途中で演技が済み、あとは終幕が開くので彼女を除《のぞ》く一座は総出《そうで》の形となって、ひとりジュリアは楽屋に帰ることができるのであった。彼女は自室に入って、女神の衣裳《いしょう》を外《はず》しにかかった。いつもなら、矢走千鳥《やばせちどり》が手伝ってくれるのだが、彼女は臨時に終幕に持ち役ができて舞台に出ているので、ジュリアは自《みずか》ら扮装《ふんそう》を脱《ぬ》ぐほかなかった。
 彼女は五枚折りの大きな化粧鏡の前で、まず女王の冠《かんむり》を外した。それから腰を下ろすと下に跼《しゃが》んで長い靴と靴下とをぬぎ始めた。演技がすんで、靴下を脱ぎ、素足《すあし》になるときほど、快《こころよ》いものはなかった。彼女は透きとおるように白いしなやかな脛《すね》を静かに指先でマッサージをした。そして衣裳を脱ごうとして、再び立ち上ったその瞬間、不図《ふと》室内に人の気配を感じたので、ハッとなって背後《うしろ》を振りかえった。
「静かにしろ。動くと撃つぞ。――」
 気がつかなかったけれど、いつの間に現れたか、一人の怪漢がジュリアを睨《にら》んでヌックと立っていた。左手には古風な大型のピストルを持ち、その形相《ぎょうそう》は阿修羅《あしゅら》のように物凄かった。彼の片頬《かたほほ》には見るも恐ろしい蟹《かに》のような形をした黒痣《くろあざ》がアリアリと浮きでていた。これこそ噂《うわ》さに名の高い兇賊《きょうぞく》痣蟹仙斎《あざがにせんさい》であると知られた。
 ジュリアはすこし蒼《あお》ざめただけだ。さして驚く気色《きしょく》もなく、化粧鏡をうしろにして、キッと痣蟹を見つめたが、朱唇《しゅしん》を開き、
「早く出ていってよ。もう用事はない筈よ」
「うんにゃ、こっちはまだ大有《おおあ》りだ」と憎々《にくにく》しげに頤《あご》をしゃくり「貰いたいものを貰ってゆかねば、日本へ帰ってきた甲斐がねえや。――」
「男らしくもない。――」
「ヘン何とでも云え。まず第一におれの欲しいのはこれだア。――」
 痣蟹はジリジリとジュリアに近づ
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