なたの心臓を
   ええ――
   あたしは吸血鬼……」
 赤い苺の実というのは、実は人間の心臓のことだと歌っているのである。ああ、あたしは吸血鬼!
 青年紳士はハッと吾れにかえった。賑《にぎ》やかな竜宮劇場の客席で聞けば、赤星ジュリアの歌うこの歌も、薔薇《ばら》の花のように艶《あで》やかに響くこの歌詞ではあったけれど、ここは場所が場所だった。黄昏の微光にサラサラと笹の葉が鳴っている藪蔭である。青年はその背筋が氷のようにゾッと冷たくなるのを感じた。
 と、――
 その刹那《せつな》の出来ごとだった。
 キ、キャーッ。
 突如、絹を裂くような悲鳴《ひめい》一声《いっせい》!
「呀《あ》ッ、――」
 それを聞くと青年紳士は、その場に棒立ちになった。悲鳴の起った場所は、いままで口笛のしていたところと同じ方向だった。大変なことが起ったらしい。青年紳士の顔色は真青《まっさお》になった。
 彼は突然身を躍らせると、柵を越えて笹藪の中に飛びこんだ。ガサガサと藪をかきわけてゆく彼の姿が見られたが、暫《しばら》くするとそのまま引返して来た。そしてまた小径に出て、こんどはドンドン駈けだした。どうやら竹藪の中は行き停りだったらしい。口笛はまだ微《かす》かに鳴っている。
 随分遠まわりをして、彼はやっと口笛のしていた場所へ出ることが出来た。それは悲鳴を聞いてから四五分ほど経ってのちのことだった。
「……?」
 さて此処ぞと思う場所に出たことは出たけれど、そこには葉のよく繁った五月躑躅《さつき》がムクムクと両側に生えているばかりで、小径はいたずらに白く続き、肝腎《かんじん》の人影はどこにも見当らなかった。彼はなんだか夢をみていたのではあるまいかという気がした。
 しかし彼は確かに悲鳴を自分の耳底に聞いたのだった。そして悲鳴などは、いまの彼として聞いてはならぬものだった。なぜならこの青年紳士は、先刻《さっき》から一人の肉親の弟を探しまわっているのであったから。
 なぜこの紳士は、弟を探廻《さがしまわ》らなければならなかったか? それは後に判ることとして、今作者は、この場を語るにもっと急であらねばならないのだ。
 彼はすこし気が落ちついたのであろうか、こんどはしっかりした態度に帰って、あたりを熱心に探しだした。ここの繁み、かしこの繁みと探してゆくうちに、とうとう彼は一番こんもりと繁った五月躑躅の
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