は心の落付きをとりかえすためであろうか、ポケットから一本の紙巻煙草《シガレット》をとりだすと口に銜《くわ》えた。マッチの火がシューッと鳴って、青年の頤《あご》のあたりを黄色く照らした。夕闇の色がだんだん濃くなってきたのだった。
いま青年の立っているところは、有名な鶴の噴水のある池のところから、洋風の花壇の裏に抜けてゆく途中にある深い繁みであった。小径の両側には、人間の背よりも高い笹藪《ささやぶ》がつづいていて、ところどころに小さな丘があり、そこには八手《やつで》や五月躑躅《さつき》が密生していて、隠れん坊にはこの上ない場所だったけれど、まるで谷間に下りたような気持のするところだった。――青年は何ともしれぬ恐怖に襲われ、ブルブルッと身を慄《ふる》わせた。気がつくと、銜えていた紙巻煙草《シガレット》の火が、いつの間にか消えていた。
そのとき、何処からともなくヒューッ、ヒューッ、と妖《あや》しき口笛が響いてきた。無人境《むにんきょう》に聞く口笛――それは懐《なつか》しくなければならない筈のものだったけれど、なぜか青年の心を脅《おびや》かすばかりに役立った。聞くともなしに聞いていると、なんのことだ、それは彼にも聞き覚えのある旋律《メロディ》であったではないか。それはいま小学生でも知っている「赤い苺《いちご》の実」の歌だった。この日比谷公園から程とおからぬ丸ノ内の竜宮劇場《りゅうぐうげきじょう》では、レビュウ「赤い苺《いちご》の実」を三ヶ月間も続演しているほどだった。それは一座のプリ・マドンナ赤星《あかぼし》ジュリアが歌うかのレビュウの主題歌だった。
「誰だろう?」
青年は耳を欹《そばだ》てて、その口笛のする方を窺《うかが》った。それは繁みの向う側で吹きならしているものらしいことが分った。
「……あたしの大好きな
真紅《まっか》な苺《いちご》の実
いずくにあるのでしょ
いま――
欲しいのですけれど」
青年は心配ごとも忘れて、その美しい旋律《メロディ》の口笛に聞き惚れた。まるでローレライのように魅惑的な旋律だった、そして思わず彼も、「赤い苺の実」の歌詞を口笛に合わせて口吟《くちずさ》んだのであった。……しかし、やがて、その歌の中の恐ろしい暗示に富んだ歌詞に突き当った。
「……別れの冬木立《ふゆこだち》
遺品《かたみ》にちょうだいな
あ
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