》に委《ゆだ》ねてしまったものだろう。それにしても……。
 と、突然に、後方にガタンと樽の倒れる音がした。ハッと振りかえる間も遅く、飛び出した黒い影が飛鳥《ひちょう》のように階段を駈け下りた。
「待てッ」
 折井刑事は叫び声をあげるが早いか、怪影《かいえい》を追跡して、階段の下り口へ突進した。そして転がるように、駈け下りた。
 激しい叫喚《きょうかん》と物の壊れる音とがゴッチャになって、階下から響いてきた。出口にいた城山刑事に遮《さえぎ》られて、怪漢は逃げ場を失い、そこで三人|入乱《いりみだ》れての争闘が始まっているのであろう。
 しかし私は、懐中電灯を持ったまま、じっと階上の部屋に立ち尽《つく》していた。目の前にある何に使うとも知れない化学装置が、ひどく私の心を捉《とら》えたのだった。それは奇妙な装置でもあったが、私の興味を惹《ひ》いたのは、それが奇妙なことよりも、むしろ生々《なまなま》しい感じがしたからだった。室内は荒れ果て、樽は真白な埃にまみれ、天井には大きい蜘蛛の巣が懸《かか》っているという古めかしさの中に、その化学装置ばかりは、埃のホの字も附着していなかったからであった。
 私は事件の謎が、正《まさ》しくこの場に隠されていることを感づいた。
「よしッ。この秘密を解かずに置くものかッ」私は腕ぐみをしたまま、石のように、何時《いつ》までも立ち尽したのだった。


   怪《あや》しき取引《とりひき》


 その次の日の夕方、私は同じ伊勢佐木町で、素晴らしい晩餐《ばんさん》を執《と》っていた。前日と違っているところは、連れが一人あることだった。壮平爺《そうへいじい》さんという頗《すこぶ》る風采《ふうさい》のあがらぬ老人が、私の客だった。
「ほんに政どん」と壮平爺さんは眼をショボショボさせて云った。「あんたに巡《めぐ》りあわなければ、今頃わしゃ首をくくっていたかも知れん。あのカンカン寅が、人殺しの嫌疑《けんぎ》でお上《かみ》に捕《つかま》ったと聞いたときは、どうしてわしゃ、こうも運が悪いのかと、力もなにも一度に抜けてしまってのう」
 カンカン寅というのは例の仙太の親分に当る男で、昨夜《ゆうべ》あの海岸通の古建物で、折井山城の二刑事に捕った怪漢のことだった。彼は始め階上に潜《ひそ》んでいたが、私たちをうまくやり過ごしたところで階段を下りて逃げだしたが、出口に頑張《がんば》っていた山城刑事に退路《たいろ》を絶《たた》たれ、逡《たじ》ろぐところを追いすがった折井刑事に組みつかれ、そこで大乱闘の結果、とうとう縛《ばく》についたというわけだった。二人の刑事は、案《あん》の定《じょう》大手柄を立てたことになった。その悦《よろこ》びのあまり、一旦|不審《ふしん》を掛《か》けた私だったが、何事もなく離してくれたのだった。
 しかし捕《とら》えたカンカン寅というギャングの顔役は、当局の訊問《じんもん》に対して、思うような自白をしなかった。彼の手先である赤ブイの仙太殺しの一件を追求しても、首を横に振るばかりか、例の証拠をさしつけても一向|恐《おそ》れ入《い》らなかった。かねがね手強《てごわ》い悪党だとは考えていたが、あまりにもひどく否定しつづけるので、係官もすこし疑問を持つようになったと、きょう折井刑事が不満そうに語ったことだった。
 それに引きかえ、カンカン寅|捕縛《ほばく》と共に、明かな失望を抱いたのは、この壮平爺さんだった。彼はあの古い建物の持ち主だった。彼は本牧《ほんもく》で働いている彼の一人娘|清子《きよこ》を除いては、この古い建物が彼の唯一の財産だった。ところで壮平爺さんは、目下大変な財政的ピンチに臨《のぞ》んでいるのだった。それは先年《せんねん》、ついウカウカと高利貸《こうりがし》の証文《しょうもん》に連帯《れんたい》の判を押したところ、その借主がポックリ死んでしまって、そのために気の毒にも明日が期限の一千円の調達《ちょうたつ》に老《おい》の身を細らせているのだった。下手をすれば、娘の清子を棲《す》みかえさせて、更に莫大な借金を愛児の上に掛けさせるか、それとも首をくくって死ぬより仕方がなかったのだった。詮方《せんかた》なく、物は相談と思い、カンカン寅の許を訪ね、あのボロボロの建物を心ばかりの抵当《ていとう》ということにして(あれでは二百円も貸すまいと云われた)、一千円の借金を申込んだ。
 寅は何と思ったか、それを二つ返事で承知して、壮平爺さんを帰らせた。それは今から一月前のことだった。しかしカンカン寅は一向に金の方は渡す様子がない。それで催促《さいそく》にゆくと、期限の前日までに渡してやろうという話だった。ところが明日が約束の日という昨夜になって、カンカン寅が突然警察へ監禁《かんきん》されてしまったので、爺さんは失心《しっしん》せんばかりに駭《おどろ》いた。顔色を変えてカンカン寅の留守宅へ行って、いままでの事情を話すと共に、この際是非に融通《ゆうずう》を頼むと歎願《たんがん》をした。しかし留守を預る人達は、老人の話を鼻であしらって追いかえした。親分がこんなになっていて、そんなことが聞《き》かれると思うか、いい年をしやがってという挨拶《あいさつ》だった。
 心臓が停まるほど驚いた壮平爺さんは、泣く泣く我が家へ帰っていった。路々《みちみち》、この上は娘に事情を云って新しい借金を負《お》わせるか、さもなければ首をくくろうかといずれにしても悲壮な肚《はら》を決めかけていたところへ、私が背後《うしろ》から声をかけたのだった。爺さんとは、私が少年時代からの知り合いの仲だった。――と、まアこういう訳だった。
「じゃあ爺さん。私がカンカン寅に代って、あれを千円で譲《ゆず》りうけようと思うが、どうだネ」
 と、事情を訊いた私は、相談を持ちかけた。
「えッ。あんたが、代って千円を」爺さんは目を瞠《みは》って云った。
「文句がなければ、金はいまでも渡そう」
「そうけえ。済まないが、そうして貰うと……」
「ホラ、千円だア。調べてみな」
 私は人気《ひとけ》のない室《へや》に安心して、千円の紙幣束《さつたば》を壮平に手渡した。その千円は、実を云えば銀座を出るとき、仲間から餞別《せんべつ》に贈られた云わば友達の血や肉のように尊《とうと》い金であったけれど、老人はワナワナ慄《ふる》える手に、それを受取った。そして指先に唾《つば》をつけて、一枚一枚紙幣を数えていった。
「確かに千両。わしゃ、お礼の言葉がない」
「お礼は云うにゃ及ばないよ。それよか爺さん、ちょっと云って置くことがある」
「へーい」
「私が金を出したことは、誰にも云っちゃならないよ。しかしそれがためにあの建物がまだ爺さんの手にあるのだと思って、買いたいという奴が出て来たら、あの建物はいつでも返してやるから、直ぐ私のところへ相談に来なさい。いいかい爺さん」
「へーい、御親切に。だがあれを買いたいなんて物ずきは、これから先、出て来っこないよ、あんたにゃ気の毒だけれど……」
「はッはッはッ」
 私は壮平爺さんを外に送りだした。老人のイソイソとした姿が、町角に隠れてしまうと、私は船会社《ふながいしゃ》と、東京から連れてきた身内の者とに電話を掛けた。それから外へ飛び出した。それは私が横浜《はま》に来た仕事の片《かた》をつけるためだった。
 どんな仕事?


   ギャング躍《おど》る


 その夜はたいへん遅くなって、宿に帰った。私はなんだか身体中がムズムズするほど嬉しくなって、寝台《しんだい》についたけれど、一向|睡《ねむ》れそうもなかった。とうとう給仕を起して、シャンパンを冷やして持って来させると、独酌《どくしゃく》でグイグイひっかけた。しかしその夜はなかなか酔いが廻らなかった。
 その代り、いろいろの人の顔が浮んで消え、消えた後からまた浮びあがった。――銀座の花村貴金属店の飾窓《ショー・ウィンドー》をガチャーンと毀《こわ》す覆面の怪漢が浮ぶ。九万円の金塊《きんかい》を小脇《こわき》に抱《かか》えて走ってゆくうちに、覆面がパラリと落ちて、その上から現れたのは赤ブイの仙太の赤づらだ。すると横合《よこあい》から、蛇《へび》のような眼を持ったカンカン寅がヒョックリ顔を出す。とたんに仙太の顔がキューッと苦悶《くもん》に歪《ゆが》む。カンカン寅の唇に、薄笑いが浮かんで、手に持ったピストルからスーッと白煙が匍《は》い出してくる。二人の刑事の顔、壮平爺さんの嬉しそうな顔、そして幼《おさ》な馴染《なじみ》の清子の無邪気《むじゃき》な顔、――それが見る見る媚《あでや》かな本牧の女の顔に変る。
「明日になったら、清子に一度逢ってくれるかな。清子も逢いたいと云っているって、壮平爺さんが云ったが……。莫迦莫迦《ばかばか》。手前《てめえ》はなんて唐変木《とうへんぼく》なんだろう。自惚《うぬぼれ》が強すぎるぜ。まだ仕事も一人前に出来ないのに……」
 自嘲《じちょう》したり、自惚たりしているうちに、ようやく陶然《とうぜん》と酔ってきた。――そして、いつの間にかグッスリ睡ったものらしい。
 コツ、コツ、コツ。
 慌《あわ》ただしいノックの音だ。それで目が醒《さ》めた。気がついてみると、空気窓からは明るい日の光がさしこんでいた。時計を見ると、午前九時。
「なんだア」
 まだ早いのに……と、私は不満だった。
「朝っぱらから伺《うかが》いやして……」
 と、扉《ドア》の向うでしきりに謝っているらしいのは、どうやら壮平爺さんの声だった。私は思わず、ギクンとした。
 扉《ドア》を開いてやると、転がるように壮平爺さんが入ってきた。顔色は真青《まっさお》だ。不眠か興奮のせいか、瞼《まぶた》が腫《は》れあがっている。
「早いもので、ボーイさんも相手にせず、電話も通じて呉れないんで……」
 と老人は恐縮《きょうしゅく》した。
「なんだネ、こんな朝っぱらから」
 私はチェリーをとって口に銜《くわ》えた。
「イヤ政どん、今日は早朝から、わしも大騒ぎさ。アノ、カンカン寅の一家が、わしのところへ押し寄せてきやがった」
「ほうほう」私は紫の煙を、天井高く吹きあげた。美しい煙の輪がクルクル廻る。
「昨日はてんで[#「てんで」に傍点]相手にしなかったあの海岸通の建物を買うというのさ」
「うん、うん」
「わしは腹が立って、手厳《てきび》しく跳ねつけてやったよ。あれはもう売っちまった。もう遅いよとナ。すると、それはいかん、是非こっちへ売れという。それは駄目だと、尚《なお》も突っぱねると、向うは躍気《やっき》さ。こっちへ買い戻さねば親分に済まねえ。売らないというのなら手前は生かしちゃ置けねえと脅《おど》しやがる。それがどうも本気らしいので、政どんの昨夜《ゆうべ》の話もあり、じゃあ一寸相談してくるといってその場は納めたが……」と壮平は顔を慄《ふる》わせた。
「――じゃあ、売っておやりよ」
「えッ」
「売ってやるが、すこし高いがいいかと云うんだ。五千円なら売るが、一文も引けないと啖呵《たんか》を切るんだ」
「そいつはどうも」
「云うのが厭なら、私はあの建物を手離さないよ。……そいつは冗談だが、こいつは儲《もう》け話なんだ。相手は屹度《きっと》買うよ。彼奴等《あいつら》はきっと今朝がた、留置場《りゅうちじょう》のカンカン寅と連絡をしたのだ。そのとき買っとかなけれア手前たちと縁を切るぞぐらいなことを云って脅したんだよ。カンカン寅から出た話なら、五千円にはきっと買う。やってごらんよ」
 壮平爺さんは、私が心を翻《ひるがえ》さないと見て、諦《あきら》めて帰りかけた。
「ああ、ちょっと」と私は呼びとめ、「いいかい爺さん。五千円を掴《つか》んだら、直ぐ横浜《はま》を出発《たつ》んだ。娘さんも連れて行くんだぜ」
「どうして?」
「もう此上《このうえ》横浜《はま》に居たって、面白いことは降って来《こ》やしないよ。お前たちは苦しくなる一方だ。いい加減《かげん》に見切《みきり》をつけて、横浜《はま》をオサラバにするんだ。ぐずぐずしていりゃ、カンカン寅の一味にひどい目に遭わされるぞ
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング