疑問の金塊
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)尾行者《びこうしゃ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)警視庁|強力犯係《ごうりきはんがかり》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)覘うもの[#「もの」に傍点]を
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   尾行者《びこうしゃ》


 タバコ屋の前まで来ると、私は色硝子《いろガラス》の輝く小窓から、チェリーを買った。
 一本を口に銜《くわ》えて、燐寸《マッチ》の火を近づけながら窓硝子の上に注目すると、向いの洋菓子店の明るい飾窓《ウィンドー》がうつっていた。その飾窓《ショー・ウィンドー》の傍《そば》には、二人連の変な男が、肩と肩とを並べて身動きもせず、こっちをジーッと睨《にら》んでいるのが見えた。
「何処《どこ》までも、尾《つ》けてくる気だナ」
 私はムラムラと、背後《うしろ》を振りかえって(莫迦《ばか》!)と叫びたくなるのを、やっと怺《こら》えた。この尾行者のあるのに気がついたのは、横浜《はま》の銀座といわれるあの賑《にぎや》かな伊勢佐木町《いせざきちょう》で夜食《やしょく》を採《と》り、フラリと外へ出た直後のことだった。それから橋を渡り、暗い公園を脱け、この山下町《やましたちょう》に入《い》りこんで来ても、この執念深《しゅうねんぶか》い尾行者たちは一向退散の模様がないのである。
 腕の夜光時計《やこうどけい》を見ると、問題の十一時にもう間もない。十五分前ではないか!
 ぐずぐずしていると、折角《せっかく》の大事な用事に間に合わなくなってしまう。十一時になるまでに、こいつら二人を撒《ま》けるだろうか。これが銀座なら、どんな抜け道だって知っているが、横浜《はま》と来ると、子供時代住んでいた時とすっかり勝手が違っていた。大震災《だいしんさい》で建物の形が変り、妙なところに真暗な広々した空地がポッカリ明《あ》いていたりなどして、全く勝手が違う。この形勢では尾行者たちに勝利が行ってしまいそうだ。残るは、これからすこし行ったところに、さらに暗い海岸通があるが、その辺の闇を利用して、なんとか脱走することである。
 そんなことを考え考え前進してゆくうちに、向うに町角《まちかど》が見えた。私は大きな息を下腹一ぱいに吸いこむと、脱走は今であるとばかり、クルリと町角を曲った。そして一目散に駈け出そうとする鼻先へ、不意に人が現《あらわ》れた。
「オイ政、待った!」
 その声には聞き覚《おぼ》えがあった。これはいかんと引き返そうとすると、後からまた一人が追い縋《すが》った。私はとうとう挟《はさ》み打ちになってしまった。
(しまった!)
 と思ったが、もう遅い。
「政! 妙なところで逢うなア」
 二人は予《かね》て顔馴染《かおなじみ》の警視庁|強力犯係《ごうりきはんがかり》の刑事で、折井《おりい》氏と山城《やましろ》氏とだった。いや、顔馴染というよりも、もっと蒼蠅《うるさ》い仲だったと云った方がいい。
「……」
 私はチェリーを一本抜いて、口に銜えた。
「話がある。ちょっと顔を貸して呉れ」
「話? 話ってなんです」
「イヤ、手間は取らさん」
 刑事は猫なで声を出して云った。
「旦那方」私は真面目に云った。「銀座の金塊《きんかい》は、私がやったのじゃありませんぜ」
「ナニ……君だと云やしないよ」
 刑事は擽《くすぐ》ったそうに苦笑した。恐らくあの有名な「銀座の金塊事件」を知らない人はあるまいが、事件というのは今から十日ほど前、銀座第一の花村貴金属店の飾り窓から、大胆にもそこに陳列してあった九万円の金塊を奪って逃げたという金塊強奪事件《きんかいごうだつじけん》である。犯人は前から計画していたものらしく、人気《ひとけ》のない早朝を選び、飾窓《ショー・ウィンドー》に近づくと、イキナリ小脇に抱《かか》えていたハトロン紙包《しづつみ》の煉瓦《れんが》をふりあげ、飾窓《ショー・ウィンドー》目がけて投げつけた。ガチャーンと大きな音がして、硝子には大孔《おおあな》が明いたが、すかさず手を入れて九万円の金塊を掴《つか》むと、飛鳥《ひちょう》のように其の場から逃げ去った。それから十日目の今日まで犯人は遂に逮捕されない。なにしろ早朝のことだったから、目撃した市民も意外に尠《すくな》い。手懸《てがか》りを探したが、一向に有力なのが集らない。事件は全く迷宮《めいきゅう》に入ってしまった。警視庁は連日新聞記事の巨弾を喰《くら》って不機嫌の度を深めていった。その際に本庁《ほんちょう》の強力犯の二刑事が、はるばる横浜《はま》まで遠征して来たのは、誰が考えたって、ハハア金魂事件のためだなと気がつく。
「そう信用して下さるのなら、話はまた別の日に願いましょう。今夜はこれで、だいぶ更《ふ》け過ぎていますからネ」
 私は軽く突っぱねた。時計をソッと見ると、既にもう十一時に間がない。私は気が気でない。
「いやに逃げるじゃないか」と執念深い刑事は反《かえ》って絡《から》みついてきた。「ところで一つ尋《たず》ねるが、赤ブイ仙太を見懸《みか》けなかったか」
「仙太がどうかしたんですか」
「余計なことを訊《き》くな。貴様、仙太と何処《どこ》で逢った。何時《いつ》のことだ」
「旦那方。私はハマの仙太の番をするくらいなら、今時《いまどき》こんな場所を一人で歩いちゃいませんぜ」と私はちょっと嘘をついた。
「ふざけるな。じゃあ訊くが、銀座無宿《ぎんざむしゅく》の坊ちゃんが河岸《かし》をかえて、なぜ横浜《はま》くんだりまで来ているのだ……」
 坊ちゃん政――それは私にいつの間にか付けられた通《とお》り名《な》だった。もちろんかねて顔馴染《かおなじみ》の二刑事が覚えているのも詮《せん》ないことだろう。だが云わでもその名前を呼びかけられりゃ、いくら此処《ここ》は横浜《はま》だって小さくなっていられるものかと、私はムッとした。
 だがそのムッとするのが、私の悪い病気なのだ。現に銀座を出て、単身《たんしん》この横浜《はま》に流れて来たのも、所詮《しょせん》は大きいムッとするものを感じたせいではなかったか。
(伝統の銀座を、横浜《はま》の奴等に荒されてたまるものかい)
 若い私には無体《むたい》にそいつが癪《しゃく》にさわった。私は覘《ねら》う相手から、覘うもの[#「もの」に傍点]を捲きあげてしまわなければ、死んでも銀座には帰らないと肚《はら》を決めているのだ。――で、その大事の前に、顔馴染の刑事なんかと喧嘩をしてはつまらないではないか。我慢をしろ!
「オイ何とか云えよ」
「黙っていちゃ、駄目じゃないか」
 二人の刑事はジリジリと左右から肉迫《にくはく》してきた。相手の眼はらんらんと輝いた。私を大きな獲物《えもの》と見込んで、どうしても物にしようという真剣さが見える。これは簡単に済まないぞ。おとなしく身を委《まか》して機会を待つか、それともサッと相手の足を払《はら》って出るか、無気味《ぶきみ》な沈黙が三人の息を止めた。
 と、その時だった。――
 キ、キャーッ。
 と、魂消《たまぎ》える異様な悲鳴が、突然に闇を破って聞えた。どうやら向うの通《とおり》らしい。途端《とたん》に向うに見える時計台から、ボーン、ボーンと十一時を知らせる寝ぼけたような音が響いて来た。――ああ十一時。あの時刻だ。私はドーンと胸を衝《つ》かれたような激動《げきどう》を感じた。


   金貨《きんか》を握《にぎ》った屍体《したい》


「うむ、事件だぞ」
「すぐ其処《そこ》だ。行くか……」
 二人の刑事は顔を衝突せんばかりに近づけて、お互《たが》いの腕を掴《つか》み合った。
「直《す》ぐ行こう」
「だが此奴《こいつ》をどうする?」
「うむ。さあ、どうする?」
 刑事は私の処置《しょち》をどうしたものかと躊《ためら》った。
「逃げませんよ、私ア」と言下《げんか》に応《こた》えた。「一緒に行ったげましょう」
「お前も行くか。どうかそうして呉れ!」
 刑事はホッと溜息《ためいき》をついた。
 私はわざと先頭《せんとう》になって駈けだした。刑事も横合《よこあい》から泳ぐように力走した。
 真暗な、広い空地に出た。向うにポツンと二階建らしい倉庫のようなものが立っているが、灯《あかり》もない真黒な建物だ。悲鳴はそのあたりから起ったように思われる。私は前面を注視しながら走った。
 沈黙の倉庫の前まで来ると、向うに火の消えた街灯《がいとう》の柱が何事か云いたげに立っていた。その下に、長々と横たわっている黒い物があった。
「旦那方。あすこに、一件らしいのが見えますぜ」
 刑事は私の方に身体を擦《す》りよせてきた。
「うん。伸びているようだナ。それッ」
 三人はバラバラと、その方に近づいた。刑事の手から、懐中電灯の光がパッと流れだした。その光は直《ただ》ちに、地上に伏している怪しい男の姿を捉《とら》えた。雨あがりの軟泥《なんでい》の路面に、青白い右腕がニューッと伸びていて、一面に黒い泥がなすりついている――と思ったら、それは真赤な血痕《けっこん》だった。水色のアルパカの上衣にも、喞筒《ポンプ》で注《そそ》ぎかけたような血の跡が……。全くむごたらしい光景だった。
 刑事は、倒れている若い男の横顔を照してみた。顔は血の気を失って、只《ただ》太い眉毛《まゆげ》と、長い鼻とが残っていた。歯を剥《む》き出した唇は、泥を噛んでいた。――と、刑事が叫んだ。
「呀《あ》ッ。……これア、赤ブイの仙太じゃないか!」
 赤ブイの仙太! 仙太といえば刑事たちが、さっき私に訊《き》いたところの横浜《はま》の不良で、カンカン寅の一味なのだ。
「そうだ、仙太だ。すっかり顔形が違っている感じだが、仙太に違いない」
「誰が殺《や》ったんだろう?」
 二人の刑事は、そこで顔を見合わせると、意味あり気《げ》に、後に立っている私の顔をジロリと睨《にら》んだ。
「……」
 仙太だってことは、お二人より先にこっちが知っていた。先刻《さっき》あの悲鳴を聞いた瞬間に、「仙太め、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》!」と口の中で誦《とな》えた程だ。
「死んでいる。……とうとう殺られたのだ。」
「全くひどい。後頭部から背中にかけて、弾丸《たま》を撃《う》ちこんだナ」
「銃声は聞えなかったが……」
「どこから撃ったのだろう」
 刑事は踞《うずくま》ったまま、遥《はる》か向うの辻を透《す》かしてみた。そこは水底《みずそこ》に沈んだ廃都《はいと》のように、犬一匹走っていなかった。
 逃げるなら今のうちだった。しかし私は別に逃げようとはしなかった。
 刑事たちは、折角《せっかく》探し求めていた横浜《はま》ギャングの一人、赤ブイの仙太が、遂に無惨《むざん》な死体となって発見されたので、只もう残念でたまらないという風に見えた。二人は諦《あきら》めかねたものか、なおも屍体をいじくりまわしていた。
「おやア、なんか掌《て》の中に握っているぞ」
 と、突然に、折井刑事が叫んだ。
「ナニ、握っているって? よし、開けてみろ」
 山城刑事は懐中電灯をパッと差しつけた。屍体の右手は、蕾《つぼみ》のように固く、指を折り曲げていた。折井刑事はウンウン云いながら、それを小指の方から、一本一本外していった。
「うん、取れた。……あッ、これは……」
「なんだ、金《かね》じゃないか!」
 掌《て》の中からは一枚のピカピカ光る貨幣が出てきた。
「金だ。オヤこれは金貨だ! それも外国の金貨だ」
 金貨が出てきて、刑事達は俄《にわ》かに緊張した。銀座の金塊盗難事件以来というものは、黄金《おうごん》を探して歩いた二人だ。その黄金製品である金貨が、屍体となった赤ブイ仙太の掌中《しょうちゅう》から発見されたということは、極めて深い意味があるように思われたのだった。それにしても、それが外国金貨とは何ごとだ。
「旦那方」私は立った儘《まま》で云った。「金貨が落ちていますよ。ホラ、そこと、もう一つ、こっちにも……」
「ナニ、金貨が落ちている?」
「本当だ……」
 
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