「……」
「そしてその五千円だが、それも爺さんにあげるよ。小さいときいろいろと可愛がって貰ったお礼にネ」
「五千円を?」と壮平老人は目を丸くして「五千円よりもその言葉の方が嬉しいが、一体わし達はどこへ行けばいいのかネ。こうなると、わしはお前のところから遠く離れるのが心細くなるよ」
 老人は悦《よろこ》びのあとで、また両眼《りょうがん》をうるませた。
「満洲へゆくんだ。丁度《ちょうど》幸《さいわ》い、今夜十一時に横浜《はま》を出る貨物船|清見丸《きよみまる》というのがある。その船長は銀座生れで、親しい先輩さ。そいつに話して置くから、今夜のうちに港を離れるんだ」
「満洲かい。……それもよかろう」
「じゃ娘さんに話をして、直ぐに仕度にかかるんだ。外《ほか》には誰にも話しちゃ駄目だぜ」
「そりゃ大丈夫だ」と老人は肯《うなず》いて「じゃ、万事お前さんの云うとおりにしよう。それでは順序として、まず五千円の商談をして来よう」
「ちょっと待った」と私は老人を呼び止めた。「あの建物の取引だが、今夜の十時にするといって呉れ」
「莫迦《ばか》に遅いじゃないかネ。いま直ぐじゃ拙《まず》いのかい」
「ちょっと拙いのさ。というのは、あれを私が買ってから、中身《なかみ》を少し搬《はこ》び出してしまったのよ、そいつを元通りに返すとすると、どうしても午後十時になる」
「へえ、中身をネ」老人は訝《いぶ》かしそうに呟《つぶや》いた。「中身というと、あの酸の入っている……」
「そうさ、酸を或る所へ持っていったのさ。買ったからにゃ、宝ものは私のものだからネ」
「そういえばカンカン寅の一味も、あの中身をソックリつけてと云っていたよ。こいつは変だぞ。……オイ政どん、噂に聞くと、あのカンカン寅が銀座の金塊を盗みだしたというが、お前は昨日《ゆうべ》、あの建物にカンカン寅が隠してあった九万円の金塊を探しだして、搬びだしたんだナ」
「金塊は無かったよ」と私は朗《ほがら》かに云った。「金塊どころか、金の伸棒《のべぼう》も入っていなかったことは、警官たちが一々検査して認めているよ」
「ほほう、そのとき警官が立ち会ったのかい」
「立ち会ったともさ。何しろその中身はいま警察へ行っているんだぜ」
「へへえ、中身が警察へネ。わしにゃ判らない。一体その酸をどうしようというので……」
「いまに号外が出る。そのとき訳が判るよ」


   横浜《はま》よ、さらば


 その夜更《よふ》けて、私は貨物船清見丸へ壮平親子を見送《みおくり》にいった。甲板《かんぱん》に堆高《うずたか》く積まれたロープの蔭から私たちは美しい港の灯を見つめていた。
「横浜《はま》を離れるとなると、やっぱり淋《さび》しいわ」
 と清子が丸めたハンカチを鼻に当てた。
「清子、贅沢《ぜいたく》をいっちゃ罰《ばち》が当るよ」と壮平老人が云った。「政どんが来てくれなくちゃ、お互《たがい》に今頃は屍骸《しがい》になって転がっていたかも知れない」
「でも……」
「ところが屍骸にならないばかりか、借金を返した上に、五千両の金まである。その上、言い分があってたまるか」
「感謝しているわ。あたしたちはいろいろと儲《もう》けものをしているのに、政ちゃんは損ばかりしているのネ」
「そうでもないよ」と私は笑った。
「どうだ政どん」と壮平老人はこのとき真顔《まがお》になって云った。「この辺で、一件の話を聞かせてくれてもいいじゃないか。あの倉庫から搬び出した中身のこと、それからお前が横浜《はま》へ流れてきた訳など」
「じゃ土産咄《みやげばなし》に、言って聞かせようか」
 私はそこで、一件の要領をかいつまんで話をした。
 ――私は壮平老人から倉庫を一千円で買ったがあれには大きな自信があったのだった。あの夜、秘密に倉庫から警察へと搬んだ酸は、大きな硝子壜《ガラスびん》に入って全部で二十五個だった。それは見たところ、黄金《おうごん》の形は一向に無くて、澄明《ちょうめい》な液体に過ぎなかったが、しかし本当は九万円の黄金が、この液体の中に溶けこんでいるのだった。それは何故か?
 王水《おうすい》という強酸《きょうさん》があることを、人々は知っているであろう。それは硝酸《しょうさん》と塩酸《えんさん》とを混ぜた混合酸であるが、この酸に黄金を漬《つ》けると始めて黄金は形が崩《くず》れ、やがて、全く形を失って液の中に溶《と》け去る。それでこの強酸に王水という貴《とうと》い名前が附けられている。――
 黄金を王水に溶かしたのは私ではない。それは今、殺人罪で警察に監禁《かんきん》せられているカンカン寅の仕事だ。彼奴《あいつ》はそれを、あの海岸通の古い建物の中で仕遂《しと》げたのだ。九万円の金魂は、手下の赤ブイの仙太を使って、銀座の花村貴金属商から強奪《ごうだつ》させた。仙太が逃げ帰ってくると、煉瓦大《れんがだい》の其の金塊は巻き上げ、仙太の身柄は身内の外に隠した。しかし仙太がいずれその内に喋《しゃべ》るのを恐れたカンカン寅は、残虐《ざんぎゃく》にも仙太に報酬《ほうしゅう》をやるといって呼び出した。
 仙太は何も知らず、云いつけ通り海岸通の古建物の前へ来て口笛を吹いたのだろう。カンカン寅は、仙太と一室に逢うのは仙太のために危険だと巧いことを云い、あの建物の二階から、報酬の金貨を投げ与えたのだ。仙太が地上に散らばった金貨を拾おうと跼《かが》んだところを、二階からカンカン寅が消音《しょうおん》ピストルを乱射《らんしゃ》して殺してしまったのだった。仙太の行動に不審を持っていた私は、あの会合の時間も場所も知っていたのだった。とにかく気の毒な仙太だ。
 笑止千万《しょうしせんばん》なのは、カンカン寅だ。あの古い建物を壮平爺さんの手から買いとったと悦《よろこ》んでいるだろうが、九万円の液体黄金《えきたいおうごん》の無くなったことは夢にも知らないのだ。今夜私が搬び入れて置いた中身の酸は、分量こそ同じ二十五壜だが、東京から買った純粋の酸でしかない。カンカン寅の奴、後でそれを分析してみて、一|匁《もんめ》の黄金《きん》も出てこないときには、どんな顔をすることだろうか。失望と憤怒《ふんぬ》に燃える彼奴《あいつ》の顔が見えるようだ。……と話をしてくると、壮平老人は、私の言葉を遮《さえぎ》った。
「それはいいが、その九万円の黄金液はどう始末したのかい」
「警視庁へ引き渡したよ」
「どうだかネ。九万円じゃないか」いかにも惜しい儲《もう》け物だのにという顔をした。
「本当に渡したよ。私は金が欲しいわけでこの仕事をやったんじゃない。目的は銀座の縄張《なわばり》へ切りこんできたカンカン寅の一味に一《ひ》と泡《あわ》ふかせたかっただけさ」
「それじゃ警視庁は大悦びだろう」
「うん。――」
 大手柄と判ったときの、折井山城の二刑事の嬉しそうな笑顔が再び目の前に見える。二人は意気揚々《いきようよう》と本庁へ引上げていったことだろう。
 そのとき、解纜《かいらん》を知らせる銅鑼《どら》の音が、船首の方から響いてきた。いよいよお別れだ。私は帽子に手をかけた。
「お父さん。――」
 いままで黙って聞いていた清子が、突然顔をあげた。
「なんだ、清子」
「あたしは船を下りるわよ」
 そういうが早いか、清子はトランクを両手で持ち上げた。
「なにを云うんだ。横浜《はま》にいちゃ、生命がない。カンカン寅の一味は張り子の人形じゃないぞ」
「生命が危いくらい、あたし知っているわ。でも……でも、あたし死んでもいいのよ、政ちゃんの傍《そば》に少しでも永く居られるなら……」
 清子は憑《つ》かれたような眸《ひとみ》で、私の方に顔を向けた。
 壮平は気が転倒《てんとう》してしまって、一語も発することができないで居る。銅鑼は船内を一|巡《じゅん》して、また元の船首で鳴っていた。出発はもう直ぐだ。
 肚《はら》を決めた私は、イキナリ清子の手からトランクを取った。
「まあ嬉しい。あたし下りてもいいの」
「いや、いけない」
 私は手に持ったトランクをソッと下に下ろした。清子は顔を両手の中に埋《うず》めた。私はトランクの上に静かに腰を下ろした。そしていつまでも動かなかった。銅鑼はもう鳴りやんで、清見丸は静かに動き出した。
 満洲へ、満洲へ……。銀座に別れて満洲へ……。
 それもまた、いいだろう!
 折から、埠頭の方から、リリリリと号外売りの鈴の音が聞えてきた。私の眼底《がんてい》にはその号外の上に組まれた初号活字《しょごうかつじ》がアリアリと見えるようだ。――そのとき私は耳許《みみもと》に、魂をゆするような熱い息づかいが近よってくるのを感じたのだった。



底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
   1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「キング」
   1934(昭和9)年6月号
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2005年5月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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