士は遂に手当の甲斐《かい》なく、その儘《まま》他界した。忌《いま》わしい殺人事件が国研の中に突如として起り、しかも白昼《はくちゅう》、所長の芳川博士が殺害されたというのであるから、帝都《ていと》は沸《わ》きかえるような騒ぎだった。その騒ぎの中《うち》に所内に臨時の調室《しらべしつ》が出来、僕たちは片っぱしから判事の取調べをうけた。殊《こと》に僕は、博士に一番近い場所に居て、しかも博士の異変を最初に発見したというところから、とりわけ厳《きび》しい尋問《じんもん》に会わなければならなかった。しかし知らぬことは知らぬというより外に、申し開きようがある筈《はず》がない。判事も僕のはげしい態度に眉《まゆ》を顰《ひそ》めはしたが、あの博士の断末魔《だんまつま》が聴えた後《のち》に、階段を降りて行ったらしい跫音《あしおと》と扉《ドア》にぶつかる音をきいたということを非常によろこんだ。そして所員について一々ただしてはみたが誰一人その時刻に階段を降りたというものはなかった。僕は自分にかけられた濃厚《のうこう》な嫌疑《けんぎ》に立腹し、どうにかして犯人をつきとめてやりたいものと思い、自分だけでは素人《しろうと》探偵になった気で、所内の皆からいろいろの話を集めてまわった。第一に四宮理学士が疑われた。
「貴方《あなた》はあの時図書室から出てどこにいらしったのですか」
僕は訊《き》いた。
「僕はあの二十分も前に、僕の室へかえっていたのだ。僕さえ図書室にズッと頑張《がんば》っていたら、いくら僕が弱くてもどうにかお役に立ったろうにと思ってね」と四宮理学士は自分の弱さを慨《なげ》いたのであったが、僕にはそれが却《かえっ》て老獪《ろうかい》に響いた。
「あの前、貴方は階段の背後《うしろ》でなにをしておいででしたか」と僕は痛い所を追求した。
「いやあれは鳥渡《ちょっと》……僕の持薬《じやく》である丸薬《がんやく》を落したから、拾い集めて居ただけなんです」と答えたが、その答えぶりから言ってそれは明らかに偽《いつわ》りであることが判った。
その次に僕は佐和山女史に、それとなく話しかけた。
「貴女は、所長が殺された頃、お席にいらっしゃいましたか?」
「エエ居ました、ずっと前から……。どうして?」
「おかしいナ」僕はあの殺人の三十分位前と思われる頃に、女史があの室に居なかったことを知っている。「それでは、あの事件のあったとき階段を誰かが降りて来る跫音《あしおと》を、お聞きにならなかったですか?」
「さア、存じませんね」
「硝子扉《ガラスど》がガチャンと言ったでしょう」
「ちっとも気がつきませんでしたよ」
女史は平然と答えた。僕は或いは自分の思いちがいで跫音をきき扉《ドア》の鳴るのをきいたのかと思いかえしてもみたが、それにしてはあまりに明らかな記憶だ。階段が一種のリズムをもって鳴ったことをどうして忘れられようか。
今度はミチ子を尋問《じんもん》した。尋問というと固苦しく響くが、そんな固苦しい態度に出《い》でなければミチ子と話なんか出来る筈のない僕であった。それは初恋の経験を持たれる読者諸君には、覚《おぼ》えのあることであろうと思う。そのミチ子――愛人ミチ子はあの事件の三十分前には確《たしか》に図書室に居たが、事件の後一時間ほども所在が不明であった。
「ミチ子さん(こう呼んでもいいかしらと僕は思った)貴女《あなた》はあの事件のあった時間、何処《どこ》へいらっしゃいました」
「あたし? どこに居たっていいじゃないの」
と彼女は朗《ほがら》かだった。
「あれから一時間も貴女は室《へや》にかえって来ませんでしたね。どこへ行っていました?」
「ほほ、あたしは別段|怪《あや》しかなくってよ。鳥渡《ちょっと》外へ出て木蔭《こかげ》を歩いていただけなのよ。だけど、古屋さん、貴方自身は所長さんと嚢《ふくろ》の中に入っていたようなもので、手を一寸《ちょっと》伸ばせば所長さんの頸《くび》に届くでしょうね」
「馬鹿なことを!」僕は真赤《まっか》になってこの小娘を睨《にら》み据《す》えた。「僕は所長になんの恨《うら》みがあるのです。十日前に入れて貰ったばかりじゃありませんか、恩こそあれ、仇《あだ》なんか……」
「古屋さん。いまの言葉は、あたしの頭が考え出したわけじゃないのよ。あたしは、或《ある》人がそう言っているのを訊《き》いたのよ」
「誰がそう言ったんです? 僕は……」
「……」彼女は返事をする代りに、前の大きい机を指《ゆびさ》した。そのとき事務室の扉があいて佐和山女史のむっつりした顔があらわれた。
「ミチ子さん。四宮さんのお呼びよ」
ミチ子が室を出て行くと、僕は佐和山女史に今|訊《き》いた話をして女史の反省を求めた。だが女史は「わたくし、そんなことを申した覚《おぼ》えはございません」と簡単に否定した。そしていつになく机をはなれると僕のそばに寄って来て頬と頬とをすりつけんばかりにして、僕の思いがけなかったようなことをしらせてくれた。
「あの日、貴方がきっと見遁《みのが》している人があると思いますわ。それはわたくしからは申しあげられませんけれど、ミチ子さんにお聴き遊ばせ、その人はカフス釦《ボタン》をあの二階のところへ落してしまったらしいのです。気をつけていらっしゃい。ミチ子さんがこれからも幾度となく二階へ探しに行くことでしょうから……」
「そのカフス釦は何時《いつ》なくなったのですか?」
「それは存じません」
「四宮さんじゃないのですか。四宮さんがなにか二階で探しものをしていたのを見たことがあるのですがね、尤《もっと》も事件のあるずっと三十分も前でしたが」
「まあ、四宮さんが二階で、二階のどこです?」
「階段のうしろだったです。貴女の言われるのは四宮さんじゃないのですか?」
「エエ、それは」女史は口籠《くちごも》りながら「やはり申上げられませんわ」と答えた。僕は佐和山女史も何か一生懸命に考えているらしいことを感付かぬわけに行かなかった。女史のむっちりした丸くて白い頸部《けいぶ》あたりに、ぎらぎら光る汗のようなものが滲《にじ》んでいて、化粧料《けしょうりょう》から来るのか、それとも女史の体臭《たいしゅう》から来るのか、とに角《かく》も不思議に甘美《かんび》を唆《そそ》る香りが僕の鼻をうったものだから、思わず僕は眩暈《めまい》を感じて頭へ手をやった。「彼奴《きゃつ》」がむくむくと心の中に伸びあがってくる。女史も不思議な存在だ。
僕は扉《ドア》を押して図書室へ入って行った。三階へのぼる気はしない。一階の読書机に凭《もた》れて鼻の先にねじれ昇る階段を見上げていた。すると二階でコトンコトンと微《かす》かに音がする。神経過敏になっている僕は、或ることを連想してハッと思った。何をやっているのだろうか。二階へ直《す》ぐ様《さま》昇ろうかと考えたが、僕が行けばやめてしまうにきまっている。僕はいいことを思い付いた。それは、一階には手のとどかない高い書棚の本をとるために軽い梯子《はしご》のあるのを幸い、これを音のすると思われる直下《すぐした》へ掛け、それに昇って一体何の音であるのかを確《たしか》めてみようと考えた。僕は静かに椅子から身を起すと抜《ぬ》き足|差《さ》し足で、その梯子のある階段のうしろへ廻った。がそのとき階段のうしろで、意外なことを発見してしまった。というのは、廊下へ通ずる戸口《とぐち》の蔭に、ミチ子と、それから何ということだろう、友江田先生とが、ピッタリ寄《よ》り添《そ》って深刻な面持《おももち》で密談をしていたではないか。
「これは、古屋君」
「先生、えらい事件が起りましたね」
「いまも京町さんと話をして居たことです。ソフトカラーをしているお互いは、ネクタイで締められないように用心《ようじん》が肝要《かんよう》だとナ。ハッハッハッ」先生は洞《うつろ》のような声を出して笑った。ミチ子は僕達のところから飛びのくと、タッタッタッと階段を二階へ登って行ったので僕の計画は見事に破壊せられてしまった。だが先生はミチ子と何の話をしていたのだろう。
4
こう嫌疑者《けんぎしゃ》ばかりが多くては困ってしまう。僕は誰と相談してよいのか、誰を犯人の中からエリミネートしてよいのか判断に迷った。
僕は徹夜して犯人の研究をしたのであるが結局、疑いはどこまでも疑いとして残った。この上はどうしても積極的行動によって犯人を見出さなければならない。その時に不図《ふと》頭の中に浮び出《い》でたことは、あの図書室の三階には、初めて僕がのぼって行ったときに直感した通り、何か重大な秘密が隠されているのであるまいか。僕は何の気もなく三階にいつも上《のぼ》っていたのであるが、あそこは犯人と少くとも死んだ所長とが覘《ねら》っていたのに相違ない。犯人はそれを明《あか》らさまに他人に悟《さと》られることを恐れ、殊更《ことさら》図書室の二階か一階かとなりの事務室かに蟠居《ばんきょ》して、その秘密を取り出すことを覘《ねら》っているのではなかろうか。そうだとすると、人知れず三階に登る人間を、ふンづかまえる必要がある。そこで僕は一つカラクリを考えついた。それは三階へのぼる階段の一つへ、階段と同じような色の表紙を持ったスコットランド・ヤードの報告書を載《の》せて置こうというのである。若し三階へ昇った人間があればなにか足跡がのこるであろう。たとえそれは泥がついていなくとも、リノリュームの脂《あぶら》かなんかがきっと表面に付着するだろう。それを反射光線を使い顕微鏡で拡大すれば吃度《きっと》足跡が出るに違いない。僕は科学者らしいこの方法に得意であった。
翌日僕は研究所内が最もだれきった空気になる午後三時を見計《みはから》ってソッと三階へ上った。兼《か》ねて目星《めぼし》をつけて置いた例の本を抜きとると上から三段目の階段へ載《の》せた。何くわぬ顔をして下へ降りて来ると、誰も居ないと思った二階に四宮理学士が突立《つった》っていたので、僕はギクッとした。
「古屋君、君はあの事件で僕を疑っているようだったが、君もあまり立ち入った行動を慎《つつし》んだがいいですよ」と彼はいつになくニヤニヤと笑ってみせた。
「貴方《あなた》こそいつも此の室でなにをして居られるのですか」と僕はつい逆腹《むかっぱら》を立てて言いかえしたが、後《あと》で直ぐ後悔した。
「君には言ってもいいんだが、曲馬団《きょくばだん》の娘なぞと親しくしているようだからうっかりしたことはまだ言えない」
「曲馬団の娘?」僕はなんのことだったかわからなかった。
「曲馬団の娘って誰のことです。言ってください」
「まアいい。君が冷静であるなら言ってもよいのだが、実は古屋君。所長を殺した犯人はもう解っているのだよ」
「えッ、それは本当ですか?」と僕は思わず四宮理学士につめよった。
「ウン、それが困った人なんだ、実に気の毒でね、だが今夜僕は一切を検事に報告することにしてある。それまでは言えない」
「どうして貴方《あなた》は、それを探偵されたのです?」
「探偵?」四宮理学士は冷笑した。「探偵するつもりじゃなかったが、あの人殺しの運の尽《つ》きさ。実は僕が此《こ》の室でやっている実験の中《うち》に、犯人の奴がハッキリと足跡《そくせき》を残して行ったのだよ」
「足跡!」僕はいましがた階段に仕掛けて置いたカラクリのことを思ってギクリとした。四宮理学士は僕を嘲弄《ちょうろう》する気だろうか?
「こっちへ来給え」彼は案外平然として僕を階段のうしろへ導いた。いよいよ例のあやしい個所《かしょ》の秘密が曝露《ばくろ》するのだ。彼は階段のうしろへ跼《しゃが》むとリノリュームをいきなりめくってその下から二本の細い電線をつまみ出した。その電線は床を匍って一階へ下りる階段の方へ続いていたが、電線をヒョイヒョイとひっぱるとその先のところに小さい釦《ボタン》のようなものが電線と同じようにヒョイヒョイと動くのであった。
「あれは何です?」僕は恐怖にうたれて叫んだ。
「あれは顕微音器《けんびおんき》さ。小さな音を
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