電流の形にかえるマイクロフォンさ。あれは階段についていて、階段を人間がのぼるとその振動が伝わって僕の室に在るフィルムへ、電流の波形がうつるのだ。僕は半年も前から、所長だけの了解を得て、『跫音《あしおと》に現われる人間の個性』という研究をすすめていたのだ。凡《およ》そ人間の跫音は皆ちがっている。そしてその波形には、その人が決して表面に出さない性質までがありありと映《うつ》ることを発見したのだ。実は跫音と人間の性質の研究は僕の独創ではなく、第十九世紀に英国のアイルランドに住んでいたマリー・ケンシントンという敏感な婦人が驚くべき特殊能力を発揮した詳しい実験報告が出ている。僕はそれをフィルム面にあらわし一層|明瞭《めいりょう》にしたのに過ぎない」
「では、あの事件の犯人の跫音が撮《と》れているのですか?」僕は早くそれが知りたかった。
「そうだ。あの時間に一階から二階へのぼって行った一人の人間がある。五分ほどすると同じ人間が二階から一階へ降りて行った。そのあとあの事件|発覚後《はっかくご》までは、誰もあの階段をあがらなかったのだ」
「それは誰です。僕だけに鳥渡《ちょっと》教えて下さい、お願いします」
 と僕は哀願《あいがん》した。
「それはお断りする」と四宮理学士は冷然と僕の願《ねがい》をしりぞけた。こうなっては僕のとる道は一つより外《ほか》ない。身を飜《ひるがえ》して自分の室に帰ると、大急ぎで電話機をとりあげると、研究事務室を呼び出した。あの室では言えないからミチ子をこっちへ呼びよせ、逃亡《とうぼう》をすすめる心算《つもり》だった。だがどうしたものだか十秒たっても二十秒過ぎても、誰も出てこない。僕は仕方なく、室を飛び出すと、ミチ子の所在《しょざい》を知るために、事務室へ出かけた。把手《ハンドル》を廻し扉《ドア》を内側へ押しあけたが、室にはミチ子も佐和山女史も居なかった。それでは図書室であろうと思って、間《あいだ》の扉を図書室へ開いたその途端《とたん》であった。奇妙とも妖艶《ようえん》ともつかない婦人の金切声《かなきりごえ》が頭の上の方から聞えたかと思うと、ドタドタという物凄い音響がして、佐和山女史の大きな身体が逆《さかさ》になって転《ころが》り落ちて来ると、ズシンという大きな音と共にリノリュームの前に叩きつけられた。僕は茫然《ぼうぜん》と女史の、あられもない屍体《したい》の前に立ちつくした。僕はいまだにその妖艶《ようえん》とも怪奇とも形容に絶する光景を忘れたことがない。僕は敢えてここにその描写を控えなければならないが、女史が生前つとめて黒い着物を選んでいたのは、女史の豊満な白い肉塊《にくかい》を更に生かすつもりであったことと、女史が最後につけていた長襦袢《ながじゅばん》が驚くべき図柄《ずがら》の、実に絢爛《けんらん》を極《きわ》めた色彩のものであったことを述べて置くに止《とど》めたい。
 茫然《ぼうぜん》と突っ立っている僕の側《そば》を、何処《どこ》に居たのかミチ子が脱兎《だっと》の如く飛び出して、螺旋階段を軽業のように飛び上って行ったが、呀《あ》ッという間にまた上から飛び降りて来たのであるが、どうしたものか、まるで音がしなかった。それとともに何ヶ月振りかで彼女の白い太股についている紫色の痣《あざ》のようなものを見た。それは軽業師《かるわざし》にして始めてよくする処の外のなにものでもない。僕は四宮理学士が先刻《さっき》言った言葉を思い出して、悒欝《ゆううつ》になった。それにしても四宮氏は二階に居ないのかしら。
「四宮さん!」
「……」
「四宮さんは二階に殺されていてよ」とミチ子が耳の傍《そば》で囁《ささや》いた。サテは、と思って僕がミチ子を見据《みす》えた時、階上で叫ぶ声が聞えた。
「一体どうしたのだ。医師《いしゃ》を五六人呼んでこい。早く早く」
 その騒ぎのうちに僕はミチ子を逃してやりたかった。
「早くおにげ」僕はかすれた声を彼女の耳へ送りこんだ。
「まア、なにを言ってるの、貴方こそお逃げなさい、今のうちに」そう云って彼女は袖の中から褐色《かっしょく》の表紙のついた本を僕に手渡すではないか。それは例のカラクリに用いたスコットランド・ヤードの報告書であった。僕は狐につままれたようになにがなんだか判らなくなった。
「なにを勘ちがいしているのだ、僕じゃない」
「隠しても駄目よ。あんた、三階の階段にこの本を置いといたでしょう。リューマチの佐和山さん、あの本を踏むと滑《すべ》り落ちたのよ、なにもかも知っているわ、所長のときのこと、四宮さんのこと」
「いやちがう」僕は当惑した。何と言ってミチ子をなだめたものだろうかと眼の前に立つミチ子の肩をつかまえようとしたときに、佐和山女史|墜落《ついらく》の音をききつけた所員が方々からドヤドヤと駈けつけた。僕は、もう力もなにもぬけちまって
「二階を、二階を!」
 と指《ゆびさ》して所員の応援を求めた。
 二三人の所員がかけあがる。
 と予期したとおり大きな喚声《かんせい》が二階にあがった。
「四宮さんがネクタイで絞殺《こうさつ》されている!」
「なに、四宮君が……」
 彼女こそ、やったのではあるまいかと、その顔を見詰《みつ》めた。睫毛《まつげ》の美しいミチ子の大きな両眼に、透明な液体がスウと浮んで来た。ふるえた声でミチ子が言った。
「……だから、あたし、貴方のために、殺人の証拠になる此の本を取って来てあげたのよ」


     5


 佐和山女史の懐中からは、四宮理学士の撮った跫音《あしおと》の曲線をうつした写真が出た。それは多分、三階のどこかに学士が危険を慮《おもんばか》って、秘《ひそ》かに隠匿《いんとく》して置いたものであろう。それには明らかに、所長殺害事件のあの時刻に佐和山女史の一種特別な跫音波形《きょうおんはけい》が印《いん》せられていたのであった。女史は、女理学士認定の蔭に所長となにか忌《いま》わしい関係を結んだものらしくその情痴《じょうち》の果に絞殺事件が発生したと伝えられる。四宮理学士の絞殺も同一手段で行われたのであったが、学士が女史の犯跡《はんせき》を握っていたので、已《や》むを得《え》ず殺害したものらしい。女史が僕にきかせた釦《ボタン》の話は、未《いま》だに解らないが、あの顕微音器のことを、マイクロフォンボタンというから、何かその辺のことをもじって事件の混乱を計画したものであろうと思われる。
 友江田先生とミチ子との関係は異母の兄妹であることが判った。妹のミチ子はその父の変質をうけ継ぎ、小さい頃から自らすすんで曲馬団の中に買われて日本全国を漂泊《ひょうはく》していたのを、友江田先生がヤッとすかして連れもどり、タイピスト学校に入れたりしてやっと一人前の女にし、国研へ就業《しゅうぎょう》させたものであるが、決して兄妹《きょうだい》とも知合《しりあい》であるとも他人に知られてはならないという約束であった。
 だがこれを知ったのは、僕たち二人が友愛結婚をしてしまったあとの話である。
 僕たち同士の変質は(それは亡《な》くなった四宮理学士にはよく判っていたのだろう、恥かしいことだ)もう一日でも別れ別れになることは出来なくなっているのだ。そうだ。今日もこれから家へ帰ったならあの特壹号《とくいちごう》の革鞭《かわむち》で、ミチ子の真白い背中が血だらけになる迄ひっぱたいてやろうと思う。



底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房
   1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「新青年」博文館
   1930(昭和5)年10月号
入力:田浦亜矢子
校正:土屋隆
2007年8月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング