階段
海野十三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)呉《く》れない
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)比較的|閑散《かんさん》な
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)僕にたかった[#「たかった」に傍点]もの
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出来ることなら、綺麗に抹殺してしまいたい僕の人生だ。それを決行させては呉《く》れない「彼奴《きゃつ》」を呪《のろ》う。「彼奴」は何処《どこ》から飛んできて僕にたかった[#「たかった」に傍点]ものなんだか、又はもともと僕の身体のうちに隠れていたものが、或る拍子に殻《から》を破ってあらわれ出でたものなんだか判然しないのであるが、兎《と》も角《かく》も「彼奴」にひきずられ、その淫猥《いや》らしい興奮を乗せて、命の続くかぎりは吾《われ》と吾《わ》が醜骸《しゅうがい》に鞭をふるわねばならないということは、なんと浅間《あさま》しいことなのであろう。
嗚呼《ああ》、いま思い出しても、いまいましいのは、「彼奴」が乗りうつったときの其《そ》のキッカケだ。あの時、あんなことに乗り出さなかったなら、今ごろは「キャナール線の量子論的研究」も纏《まと》めることができて、年歯《ねんし》僅《わず》か二十八歳の新理学博士になり、新聞や雑誌に眩《まぶ》しいほどの報道をされたことであろうし、それに引続いて、国立科学研究所の部長級にも栄進し、郊外に赤い屋根の洋館も建てられ、大学総長の愛嬢を是非に娶《めと》ってもらいたいということになり、凡《すべ》ては小学校の修身教科書に出ているとおりの立身栄達の道を、写真にうつしたように正確にすすんで行ったことだろうと思う。たしかに、それまでの僕という人間は修身教科書の結晶のような男で、そうした栄冠を担《にな》う資格は充分あるものと他人《ひと》からも謂《い》われ、自分としても、強い自信をもっていたのであった。何が僕を一朝《いっちょう》にして豹変《ひょうへん》せしめたか、そのキッカケは、大学三年のときに、省線電車「信濃町《しなのまち》」駅の階段を守ったという一事件に発する。
僕の大学の理科に変《かわ》り種《だね》の友江田《ともえだ》先生というのがある、と言えばみなさんのうちには、「ウン、あの統計狂の友江田さんか!」と肯《うなず》かれる方も少くあるまいと思うが、あの統計狂の一党に、僕が臨時参加をしたのが、そもそも悪魔に身を売るキッカケだった。友江田先生の統計趣味は、たとえば銀座の舗道《ほどう》の上に立って、一時間のうちに自分の前をすぎるギンブラ連中の服装を記録し、こいつを分類してギンブラ人種の性質を摘出《てきしゅつ》し大胆な結論を下すことにある。午後五時の銀座にはサラリーメンが八十パーセントを占めるが、午後二時には反対にサラリーメンは十パーセントでその奥さんと見られる女性が六十パーセントもぞろぞろ歩いているなどと言う面白い現象を指摘している。これは昨年度には病気で死んだ人が何千万人あって其の内訳《うちわけ》はどうだとか言う紙面の上の統計の様に乾枯《ひか》らびたものではなく、ピチピチ生きている人間を捉《とら》えてやる仕事でその観察点も現代人の心臓を突き刺すほどの鋭さがあるところに、わが友江田先生の統計趣味の誇りがあるといってよい。
で、僕は「省電《しょうでん》各駅下車の乗客分類」という可《か》なり大規模《だいきぼ》の統計が行われるとき、人手《ひとで》が足らぬから是非《ぜひ》に出てほしいということで、とうとう参加する承諾を先生に通じてしまった。やがて部員の配置表が出来て、僕は前にも云ったとおり、比較的|閑散《かんさん》な信濃町駅を守ることとなった。
「古屋君、それじゃ御苦労だが、『信濃町』の午後四時から五時までの下車客を、例の規準にしたがって記録してくれ給え。僕も信濃町を守ることになっているんだ。で僕は男の方を取るから、君は一つ婦人客の方を担任《たんにん》してもらいたいんだ」
「先生、男の方は僕がやります。それで先生には……」
「駄目だよ、男の方は全下車客の八十パーセントも占めているんだから、慣《な》れない君には無理だと思うんだがネ。婦人の方は数も少いうえに種類も少くて、大抵《たいてい》女事務員とか令嬢奥様といった位のところだから、君で充分つとまると思ってそう決定《きめ》てあるんだ。是非、婦人をひきうけて呉れ給えな」
僕は、それでも断るとは言い出せなかったものの、困ったことになったと思ったことである。女なんか、ひと眼みるのもけがらわしいと思っている僕が(いや全《まった》く其の頃は真剣にそう信じていたのである)一時間に亘《わた》って女ばかりを数えたり分類をするためにジロジロ観察したりするのは実に耐えられないことだった。それに、この立番はその日から向う一週間に亘って続けられるというのだから、鳥渡《ちょっと》想像してみただけでも心臓が締めつけられるような苦しさに襲われるのであった。
それは夏も過ぎ、涼しい風が爽《さわや》かに膚《はだ》を撫《な》でて行く初秋の午後であった。僕は肩から胸へ釣った記録板《きろくばん》と、両端《りょうたん》をけずった数本の鉛筆とを武器として学究者らしい威厳《いげん》を失わないように心懸けつつ、とうとう「信濃町」駅のプラットホームへ進出した。友江田先生の命ずるところに随《したが》い、僕はあの幅の広い、見上げるほど高い鼠色の階段の下に立った。そして乗降の客たちの邪魔にならぬ様《よう》、すこし階段の下に沿って奥へ引《ひっ》こむことにした。其処《そこ》は三角定規の斜辺についてすこし昇ったようなところで、僕の眼の高さと同じ位のところに、下から数えて五六段目の階段が横からすいてみえているのであった。そこに立ち階段を横からすかしてみれば、この階段を上って出口へ行く乗客の男女別はその下半身《しもはんしん》から容易に解ったし、観察者たる僕は身体を動かす必要もなく唯《ただ》鼻の先にあとからあとへと現われて来る乗客の下半身を一つ二つと数えればよいのであった。いよいよ時間がきたので、反対側に居る先生が、それッと合図をした。僕は緊張に顔を赧《あか》くしてそれに答えると、その瞬間、鼻先に幼稚園がえりらしい女の子の赤い靴が小さい音をたてて時計の振子のように揺《ゆ》らいで行ったのを「一ツ」と数えて「幼年女生徒」の欄へ棒を一本横にひっぱった。それに続いて黒いストッキングに踵《かかと》のすこし高い靴をはいた女学生の三人連れが、僕の鼻の前を掠《かす》めて行ったが、その三人目の女学生がどういう心算《つもり》だか急に駈け上ったので、パッと埃《ほこり》がたって僕の眼の中へとびこんで来た。僕はもうこの非衛生な仕事がいやになった。
併《しか》し、この仕事をはじめてから三十分も経つうちに不思議な興味が僕に乗移った。駅の階段を上って行く婦人の脚は、だんだんと増えて行った。黒いストッキングが少くなり、カシミヤやセルの袴《はかま》の下から肉づきのよい二三寸の脛《はぎ》をのぞかせて行く職業婦人が多くなった。
その途端に、金魚のように紅と白との尾鰭《おひれ》を動かした幻影が鼻の先を通りすぎるのが感ぜられた。僕は「袴の無い若い職業婦人」の欄《らん》へ、一本のブルブル震《ふる》えた棒を横にひいた。それは脚だけの生きものでしかなかった。脚だけの生きものが、きゅっと締《しま》った白い足袋をはき、赤鼻緒《あかはなお》のすがった軽い桐《きり》の日和下駄《ひよりげた》をつっかけている。その生きものを見ていると身体がフラフラする。身体が言うことをきかなくなる。まだ時間が切れないのかな、と思った。
すると今度は階段の下からまた一人、僕としては最も正視《せいし》するに耐えない「袴の無い若い職業婦人」が現われた。その欄《らん》へ一本のブルブル震えた棒を横にひくと、恐《こわ》いもの見たさに似た気持で、その白い脛《はぎ》をのぞきこんだ。僕はあんなに魅力のある脛をみたことがない。実にすんなりと伸びた脛だった。ふくら脛はむちむちと張りきり、乳房のように揺《ゆら》いでいた。向う脛の尖《とが》ったふちなどは想像もできないほどまんまるく肉がついていた。その色は牛乳を凍《こお》らしてみたほどの密度のある白さだった。そのきめの細《こまか》い皮膚は、魚のようにねっとりとした艶《つや》とピチピチした触感《しょっかん》とを持っていた。その白い脛が階段の一つをのぼる度毎《たびごと》に、緋色《ひいろ》の長い蹴出《けだ》しが、遣瀬《やるせ》なく搦《から》みつくのであった。歌麿《うたまろ》からずっと後になって江戸浮世絵の最も官能的描写に成功したあの一勇斎國芳《いちゆうさいくによし》の画いたアブナ絵が眼の前に生命を持って出現したかのような情景だった。その白い脛が階段を四五段のぼると、どうしたものか丁度《ちょうど》僕の鼻の先一尺というところで突然、のぼりかけたままピタリと階段の上に停ってしまったものだから僕は呼吸《いき》のつまるほど驚いた。僕の五感は針のように鋭敏になって一瞬のうちにありとあらゆるところを吸取紙《すいとりがみ》のように吸いとってしまった。
ふくら脛のすこし上のところに、まだ一度も陽の光に当ったことがないようなむっつり白い肉塊《にくかい》があって、象牙《ぞうげ》に彫《ほ》りきざんだような可愛い筋が二三本|匍《は》っていた。だがその上を一寸ばかりあがった膝頭《ひざがしら》の裏側をすこし内股の方へ廻ったと思われるところに、紫とも藍《あい》ともつかない記号のようなものがチラリと見えたのは何であろう。見極《みきわ》めようとした途端《とたん》に、ひとで[#「ひとで」に傍点]のような彼女の五本の指が降りて来て僕の視線の侵入するのを妨げてしまった。僕は何故か階段に踏み止《とどま》った婦人の心を読むために、はじめて眼をあげて彼女の顔をみあげた。おお、これは又、なんという麗人《あでびと》であろう。花心《かしん》のような唇、豊かな頬、かすかに上気した眼のふち、そのパッチリしたうるおいのある彼女の両の眼《まなこ》は、階段のはるか下の方に向いていて動かない。その眼《め》には、なにか激しい感情を語っている光がある。で、私は彼女の眸《ひとみ》についてその行方《ゆくえ》を探ってみた。だがそこには長身の友江田先生の外になにものも見当らなかった。僕はしばらく尚《なお》も遠方へ眼をやったが矢張り何者もうつらなかった。そのときハッと或ることに気付いて友江田先生の顔を注目したのであるが、
「もう時間だ。やめよう」
と先生が俄《にわ》かにこっちを見て叫んだ。その声音《こわね》が思いなしか、異様にひきつったように響いたことを、それから後、幾度となく僕は思い出さねばならなかったのだ。気がついて僕は階段を仰ぐと、あの女の姿は、消えてしまったかのように其処に無かった。僕はその場に崩《くず》れるようにへたばった。
其の夜、下宿にかえった僕が、悔恨《かいこん》と魅惑《みわく》との間に懊悩《おうのう》の一夜をあかしたことは言うまでもない。翌日はたとえ先生との約束でも今日は行くまいと思ったが、午後になると物に憑《つ》かれたように立上ると制服に身を固めて、いつの間にやら昨日と同じく、「信濃町」駅のプラットホームに記録板を持って立っていた。その日も怪しい幻《まぼろし》の影を、昨日にも増して追ったのであった。時間の果《は》てんとする頃、前の日に見覚えた若い婦人が、階段を上って行くのを認めたが、この日は別に階段の途中に立ちどまることもなしに、唯《ただ》一般乗降客にくらべて幾分ゆっくりと上って行くことには気付いたのである。そのために僕は、その若い婦人の脛をほんの浅く窺《うかが》ったに過ぎなかった。友江田先生の顔色も窺ったが、気にはなりながらもそちらへ費《ついや》す時間はなかった。その翌日も又次の日も僕の身体の中には、「彼奴《きゃつ》」が生長して行った。斯《か》くて予定の七日間が過ぎてしまったあとには、僕の身体には飢《う》えた「彼奴」が跳梁《ちょう
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