《とたん》に、ひとで[#「ひとで」に傍点]のような彼女の五本の指が降りて来て僕の視線の侵入するのを妨げてしまった。僕は何故か階段に踏み止《とどま》った婦人の心を読むために、はじめて眼をあげて彼女の顔をみあげた。おお、これは又、なんという麗人《あでびと》であろう。花心《かしん》のような唇、豊かな頬、かすかに上気した眼のふち、そのパッチリしたうるおいのある彼女の両の眼《まなこ》は、階段のはるか下の方に向いていて動かない。その眼《め》には、なにか激しい感情を語っている光がある。で、私は彼女の眸《ひとみ》についてその行方《ゆくえ》を探ってみた。だがそこには長身の友江田先生の外になにものも見当らなかった。僕はしばらく尚《なお》も遠方へ眼をやったが矢張り何者もうつらなかった。そのときハッと或ることに気付いて友江田先生の顔を注目したのであるが、
「もう時間だ。やめよう」
と先生が俄《にわ》かにこっちを見て叫んだ。その声音《こわね》が思いなしか、異様にひきつったように響いたことを、それから後、幾度となく僕は思い出さねばならなかったのだ。気がついて僕は階段を仰ぐと、あの女の姿は、消えてしまったかのように其処に無かった。僕はその場に崩《くず》れるようにへたばった。
其の夜、下宿にかえった僕が、悔恨《かいこん》と魅惑《みわく》との間に懊悩《おうのう》の一夜をあかしたことは言うまでもない。翌日はたとえ先生との約束でも今日は行くまいと思ったが、午後になると物に憑《つ》かれたように立上ると制服に身を固めて、いつの間にやら昨日と同じく、「信濃町」駅のプラットホームに記録板を持って立っていた。その日も怪しい幻《まぼろし》の影を、昨日にも増して追ったのであった。時間の果《は》てんとする頃、前の日に見覚えた若い婦人が、階段を上って行くのを認めたが、この日は別に階段の途中に立ちどまることもなしに、唯《ただ》一般乗降客にくらべて幾分ゆっくりと上って行くことには気付いたのである。そのために僕は、その若い婦人の脛をほんの浅く窺《うかが》ったに過ぎなかった。友江田先生の顔色も窺ったが、気にはなりながらもそちらへ費《ついや》す時間はなかった。その翌日も又次の日も僕の身体の中には、「彼奴《きゃつ》」が生長して行った。斯《か》くて予定の七日間が過ぎてしまったあとには、僕の身体には飢《う》えた「彼奴」が跳梁《ちょう
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